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第二話 缶コーヒーの味がしない

# 第2話「缶コーヒーの味がしない」


---


 翌朝、誠治が目を覚ましたとき、枕元に黄色い毛玉がいた。


「おはよう」


「うわっ!」


 反射的に殴りかけて、やめた。昨夜の記憶が数秒遅れで戻ってくる。狂犬。契約。筋肉。路地裏の惨劇。そして、このふざけた生き物。


「……夢じゃなかったのか」


「夢だったらよかったのにね」


「お前が言うな」


 サルルート君は誠治の枕の上であぐらをかいていた。丸っこい手で頬杖をつき、つぶらな目をぱちくりさせている。胸元には、くすんだ金属のプレートがぶら下がっていた。


「それ、なに」


 誠治が指さすと、サルルート君は自分の胸を見下ろした。


「ああ、これ? 番号札」


 プレートには「74」と刻まれていた。


「七十四?」


「そう。僕の番号。まあ名前みたいなもん」


「名前がサルルートで番号が七十四って、管理体制どうなってんだよ」


「それはまあいいじゃん」


 なんだかよくわからないが、追及する気力もなかった。誠治はベッドから這い出し、キッチンに向かった。六畳一間のワンルーム。冷蔵庫を開けると、缶コーヒーが一本だけ残っていた。


 プルタブを引く。一口飲む。


「……」


 味がしなかった。


 いや、正確にはする。コーヒーだということはわかる。だが、昨日まであった苦味の輪郭がぼやけている。砂糖の甘さが遠い。舌の上を液体が滑っていくだけで、何も引っかからない。


「まずい缶コーヒーだな」


 誠治はそれだけ言って、残りを流しに捨てた。


 サルルート君が肩に飛び乗ってきた。小さいくせに妙に重い。


「ねえ、昨日の話の続きなんだけどさ」


「ない」


「え?」


「続きはない。昨日は死にそうだったから契約した。もう死にそうじゃないから終わり。以上」


「いやいやいや、契約ってそういうもんじゃないよ?」


「知らん。解約しろ」


「クーリングオフはないよ」


「消費者センターに電話するぞ」


「人外との契約は管轄外だと思うなあ」


 誠治はサルルート君を肩から払い落とし、着替え始めた。ジャケットは昨日の変身で破れたので、パーカーを引っ張り出す。鏡を見た。顔はいい。身長も高い。筋肉もある。問題は、この完璧なスペックを社会がまるで評価しないことだった。


 サルルート君がふわふわと浮いてきて、視界の端に居座った。


「ねえ、一個だけ聞いてくれない?」


「手短にしろ」


「昨日のあれ、黒い犬、あれは『案件』って言うんだけどね」


「案件」


「そう、案件。あの犬みたいなやつ。人間の心の歪みが実体化したもの。死の国っていう場所から溢れてくるの」


 誠治は靴紐を結びながら聞いていた。半分は聞き流していた。


「死の国ってのは、まあ簡単に言うと、拒絶された感情のゴミ捨て場みたいなとこ。恥とか、未練とか、認められなかった痛みとか。そういうのが溜まって溜まって、ときどき溢れて、こっちに流れてくる。それが『案件』」


「ふうん」


「興味なさそうだねえ」


「ない」


「噛まれた人がどうなるかは?」


 誠治の手が止まった。昨日、スマホを構えていた男。泡を吹いて、焦点の合わない目で、意味のない笑い声を漏らしていた。あの顔は、まだ覚えている。


「……どうなるんだ」


「人としての輪郭が溶けていくの。最初はちょっとぼんやりする程度。でもだんだん、自分が誰だったか、何が好きだったか、誰を大事に思ってたか、全部わかんなくなる。最後は死の国に引っ張られて、向こう側に落ちる」


 サルルート君の声は、初めて軽さを欠いていた。


「戻れるのか」


「軽く噛まれただけなら、時間が経てば。深くやられると、難しい」


「昨日の男は」


「たぶん大丈夫。たぶんね」


「たぶんが多いな、お前」


「絶対って言葉が嫌いなんだよ、僕」


 誠治は玄関のドアを開けた。十一月の空気が冷たかった。


「で、僕との契約なんだけど」


「だから――」


「『案件』はまた来るよ」


 サルルート君は誠治の肩にふわりと着地した。払っても払っても乗ってくる。


「昨日のは『魂の下見』。偵察みたいなもん。本隊はまだ来てない。そして本隊が来るとき、真っ先に狙われるのは昨日噛まれかけた人たち。あと、君みたいに強い感情を持ってる人間」


「……俺が狙われるってことか」


「そう。怒りでも悲しみでも、感情の波が大きい人間ほど、案件は寄ってくる。君、すっごい怒ってるでしょ。ずっと」


 誠治は答えなかった。


 下北沢の商店街を歩く。朝の十時。人はまばらだった。昨日の騒ぎのせいか、いつもより人が少ない。道の端に花束が置かれている場所があった。昨日、狂犬が降ってきたあたりだ。


 サルルート君はパーカーのフードの中に潜り込んだ。他人からは見えないらしい。便利な生き物だ。


「なあ」


「ん?」


「お前の番号札。七十四って、なんか意味あんのか」


 フードの中で、サルルート君が少し黙った。


「……七四。ナシ。『無し』って意味」


「無し?」


「人間力、無し。価値、無し。存在意義、無し。そういう番号」


 誠治は足を止めた。


「誰がつけたんだ、そんなもん」


「さあね。それはまあいいじゃん」


 いつもの口癖だった。だが今度は、少しだけ声が硬かった。


 誠治は歩き出した。何も言わなかった。ただ、七十四という数字が、妙に引っかかって離れなかった。


「……七十四ちゃん、うーん、長いな、よっちゃんでいいか」


「え?」


「お前、サルルートって呼びにくいんだよ。よっちゃんでいいだろ」


「いや名前あるんだけど」


「よっちゃんな」


「……まあいいけど」


 サルルート君――もといよっちゃんは、フードの中で少しだけ身じろぎした。嫌がっている風ではなかった。


    *


 異変は、昼過ぎに起きた。


 誠治は駅前のコンビニで昼飯を買おうとしていた。レジに並んでいるとき、スマホにニュース通知が入った。


『【速報】下北沢駅周辺で集団失神事件 被害者十二名が意識不明の重体 原因不明』


 昨日の被害者だ。誠治は舌打ちした。よっちゃんの説明が正しいなら、あの狂犬に噛まれた人間たちは今、輪郭を失いかけている。


 コンビニを出ると、空気が変わっていた。


 気温が二度ほど下がったような感覚。匂いが消えた。排気ガスも、パン屋の焼きたての香りも、何もない。世界から一枚、膜が剥がれたような違和感。


「来たよ」


 よっちゃんが、低い声で言った。


「案件?」


「うん。しかも昨日より、でかい」


 商店街の奥から、人が走ってきた。三人、五人、十人。全員が無言で、顔が白い。悲鳴すら出ない恐怖の顔をしていた。


 その先に、それはいた。


 人型だった。背広を着ている。ネクタイを締めている。革靴を履いている。だが顔がない。のっぺりとした肌色の卵型の頭部に、口だけがある。口は耳まで裂けていて、そこからひっきりなしに言葉が漏れていた。


「キミ、ウチニハ アワナイカナ」


「ザンネンナガラ、キミノ ケイケンデハ」


「モット ジブンヲ ミガイテ キテクレ」


 不採用の台詞だった。面接で落とされるときの言葉を、延々と、壊れたスピーカーみたいに繰り返している。それを聞いた通行人が、次々と膝をつき、目の光を失っていく。言葉に触れただけで、輪郭が削られているのだ。


「あ、不採用案件だ。面倒なやつなんだよね」


「不採用……案件……」


 誠治の顔が引きつった。百通のお祈りメールの記憶が、一斉に蘇る。


「ザンネンナガラ」


「イッソウノ ゴカツヤクヲ」


「オイノリ モウシアゲマス」


「黙れ」


 呟いた声は、自分でも驚くほど低かった。


 よっちゃんが肩の上から見上げてくる。


「戦う?」


「戦わねえよ。俺には関係ない」


「あの人たち、このままだと昨日の男と同じになるよ」


 誠治は目を逸らした。不採用案件の前で、一人の女が立ち尽くしていた。小柄で、地味な服を着ていて、震えながらも逃げられずにいる。案件の言葉を、正面から浴びていた。


「ア、アナタニハ ナニモ ナイ」


 女が膝をついた。両手で耳を塞いでいるが、言葉は耳から入るのではないらしい。身体の奥に直接響いている。


 誠治は見ていた。見ていただけだった。


 女は小さく口を動かした。声は聞こえなかった。だが、唇の形で読めた。


(自分のせいだ)


 そう言っていた。攻撃されているのに、自分を責めていた。


 誠治の足が動いた。


 考える前に。判断する前に。怒りとも義憤ともつかない、もっと原始的な衝動で。


「くそ、くそ、くそ!」


 走りながら叫んだ。


「よっちゃん!」


「はいはい」


「やれ!」


「了解」


 胸の奥で、獣の血が再び沸騰した。


 骨が軋む。筋肉が膨れる。パーカーの縫い目が悲鳴をあげて裂けていく。視界が赤くなり、世界が遅くなる。爪が黒く変色し、地面を踏む足が、アスファルトにヒビを入れた。


 不採用案件が、のっぺらぼうの顔をこちらに向けた。


「キミ、ウチニハ――」


「お前にだけは言われたくねえんだよ!」


 誠治は跳んだ。拳を振りかぶり、不採用案件の顔面に叩き込む。背広の身体が吹っ飛び、商店街のシャッターを三枚ぶち抜いて壁にめり込んだ。


 だが、起き上がってくる。


 背広はよれてもいない。のっぺらぼうの口が、裂けたまま笑う。


「ザンネンナガラ」


「うるせえ!」


 もう一発。頭部を掴み、地面に叩きつける。コンクリートが陥没する。それでも口は止まらない。


「キミノ ニンゲンリョクデハ――」


「人間力って言うなああああ!」


 誠治は叫びながら殴った。殴った。殴った。不採用案件の身体がひしゃげ、黒い霧が噴き出す。だが核が見えない。殴っても殴っても、こいつは言葉を止めない。


「ザンネンナガラ」


「ザンネンナガラ」


「ザンネンナガラ」


「ああああ畜生! なんで止まらねえんだ!」


「物理じゃ核は壊せないよ」


 よっちゃんが、戦闘の喧騒の中で冷静に言った。


「案件には核ってのがあってね。そいつを生み出した感情の塊。外側をいくら壊しても、核が残ってる限り再生する」


「じゃあどうすんだよ!」


「核を受け止める人間が必要。今はまだいないから、外側を壊し続けて時間を稼ぐしかない」


「最初に言え!」


「言ったら戦わなかったでしょ」


 正論だった。腹が立つほど正論だった。


 誠治は歯を食いしばり、不採用案件を殴り続けた。再生するたびに壊す。壊すたびに再生する。終わらない面接を、拳で受け続けているようだった。


 十分が経ち、二十分が経ち、不採用案件の再生速度がようやく落ちてきた。完全には消せない。だが、活動を止めるところまでは追い込めた。黒い霧の塊になって、路上でぐずぐずと蠢いている。言葉はもう出ない。


 誠治は肩で息をしながら、膝をついた。


 変身が解ける。筋肉が縮み、肩幅が戻り、爪の色が元に戻る。シャツはまた破れていた。着る服がなくなる。


 さっき膝をついていた女の方を見た。いない。いつの間にか逃げたらしい。無事ならいい。


 ――ただ、視界の端に、もう一人の影が映った気がした。


 商店街の角。電柱の陰。人影が、こちらを見ていた。逃げるでもなく、近づくでもなく、ただ立っていた。地味な服。目立たない髪型。顔は見えなかった。


 誠治が目を向けた瞬間には、もういなかった。


 気のせいかもしれない。戦闘後の疲労で、視界がぶれているだけかもしれない。


「お疲れさま」


 よっちゃんが、地面に降り立って言った。


「……これ、毎回こうなんのか」


「まあ、そうだね」


「服代、出んのか」


「出ないね」


「最悪だ」


 誠治は破れたパーカーの残骸を見下ろした。路地に座り込み、自販機に背中を預ける。昨日と同じポーズだった。ただし今日は、缶コーヒーを買う気にもなれなかった。味がしないのだから。


「なあ、よっちゃん」


「ん?」


「朝、缶コーヒー飲んだんだけど、味がしなかった」


 よっちゃんは、少しだけ間を置いた。


「……安い缶コーヒーだったんじゃない?」


「百三十円のやつだ」


「じゃあ安いね」


「そういう問題か?」


「そういう問題だよ。もっといいやつ飲みなよ」


 よっちゃんはへらっと笑った。だが、目が笑っていなかった。一瞬だけ。誠治が気づくか気づかないかの、ほんの一瞬だけ。


 誠治はそれ以上追及しなかった。ただ、味のしない舌の上の感触を、どこか遠い出来事のように思い出していた。


    *


 遠くでサイレンが近づいてくる。誠治は立ち上がった。


「帰るか」


「うん。あ、そうだ」


 よっちゃんが、ふと思い出したように言った。


「さっきの案件、完全には消えてないからね。核が残ってる限り、また復活する可能性ある。数日は持つと思うけど」


「つまり、またやれってことか」


「そういうこと」


「……最悪だ」


「でもやってくれるでしょ」


 誠治は答えなかった。代わりに歩き出した。商店街を抜け、駅に向かう。よっちゃんはフードの中に戻った。


 駅前のベンチを通りかかったとき、誠治はふと足を止めた。昨日、百通目のお祈りメールを読んだベンチだ。あれからまだ一日しか経っていない。


 就活のことを考えた。百社に落ちたこと。面接官の顔。「人間力」という言葉。そして今日の不採用案件。あいつは自分の痛みそのものだった。殴っても殴っても止まらない、終わらない不採用通知。


 だが不思議なことに、怒りの質が少しだけ変わっていた。


 昨日までは、自分だけが不当に扱われていると思っていた。今日は、あの膝をついた女のことが頭に残っていた。不採用の言葉を浴びて、自分を責めていた女。誠治とは違う壊れ方をしていた。同じ言葉に殴られて、怒る代わりに沈んでいた。


 そういう人間もいるのだと、初めて思った。


 それだけの話だ。別に何かが変わったわけではない。


 誠治は歩き出した。


 ポケットの中で、スマホが震えた。お祈りメールの通知だった。百一通目。


「誠に残念ながら――」


「……知ってる」


 彼は画面を閉じた。閉じて、少しだけ笑った。何がおかしいのかは自分でもわからなかった。


 帰り道、もう一本だけ缶コーヒーを買った。


 やっぱり、味はしなかった。


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