表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一話 猩々はゴリラじゃなくてオランウータン

 庄司誠治は、自分が優秀であることを疑ったことがなかった。


 身長百九十センチ。顔はいい。東京大学卒。アメフト部所属。体脂肪率も低い。言うことなしだ。少なくともスペック表だけ見れば、ほぼ無敵のはずだった。


 だが現実はそうではなかった。


「誠に残念ながら――」


 スマホの画面に表示された、その文面を見た瞬間、誠治は無言でメールを閉じた。百通目のお祈りメールだった。


 下北沢駅前のベンチに座ったまま、彼は天を仰いだ。曇っていた。


「誠に残念ながら、じゃねえよ」


 吐き捨てるように言って、彼は缶コーヒーを握りつぶした。ちょうど一時間前には、バイト先の古着屋もクビになっていた。


『庄司くんさぁ、お客さんに“その服、似合ってないっすね”って言うの、接客じゃないからね?』


『でも似合ってなかったんで』


『そういうことじゃないんだよ』


 そういうことじゃないらしい。世の中はいつだってそうだった。正しいことを言っても嫌われる。能力があっても落とされる。愛想のいい無能ばかりが得をする。大学のゼミでも、サークルでも、就活でも、ずっとそうだった。


「結局、人間力ってやつかよ」


 誠治は苦々しくつぶやいた。


 人間力。嫌いな言葉だった。曖昧で、ぬるくて、測定不能なわりに、やたらと他人を裁くときにだけ使われる便利ワードだ。要するに、空気を読み、感じよく笑い、適当にへりくだり、相手を気持ちよくさせる能力。そんなものが能力扱いされるなら、猿でも大企業に入れるだろう。


 だが、自分は入れなかった。


 ゼミの飲み会で女子に「庄司くんって彼女いたことある?」と聞かれ、「ないけど」と答えたときの、微妙な間も思い出した。別に困っていない。焦ってもいない。そう思っていたのに、あの一瞬だけ、なぜか自分の輪郭が薄くなった気がした。


 彼は舌打ちして立ち上がった。


「クソ」


 そのときだった。


 空が吠えた。


「――は?」


 見上げた瞬間、誠治の思考は止まった。


 曇天を切り裂くように、何かが降ってきていた。犬だった。いや、犬のようなものだった。十匹、二十匹、もっと。痩せこけた身体に異様に長い脚、口の端まで裂けた顎、赤く濁った目。重力を無視するように空から落ち、アスファルトに着地すると同時に、ぐるりと首を回して誠治を見た。


 そのうちの一匹が、口をもごつかせながら言った。


「ニンゲン……シネ……ヤワラカイ……」


「……は?」


「オマエ……カム……オワル……」


 意味不明な片言の日本語だった。


 周囲の人間が悲鳴をあげて逃げ出す。スマホを向ける馬鹿もいたが、一匹が噛みついた瞬間、その男は泡を吹いて倒れた。死んではいない。だが目の焦点が合っていない。口から涎を垂らしながら、意味のない笑い声を漏らしていた。


「おいおいマジかよ!」


 叫ぶと同時に、誠治は走った。


 フィジカルには自信がある。こういうときに大事なのはパニックにならないことだ。数が多いなら包囲される前に抜ける。頭を使え。敵には統率者がいる。群れものはだいたいそうだ。アメフトでも同じだ。ラインを見ろ。穴を見つけろ。潰せ。


 後ろから狂犬たちが迫る。


「カメ! カメ! カメ!」


「噛むって言えよ!」


 誠治は自動販売機を蹴り飛ばし、背後の二匹を巻き込みながら路地に滑り込んだ。そのまま一番奥へ逃げる――ふりをして、壁を蹴って反転した。


 視線の中心にいた、一匹。首の動きが違う。鳴かない。目だけで他を見ている。あれが頭だ。


「死ねッ!」


 誠治は全力で踏み込み、東大アメフト部仕込みのタックルを叩き込んだ。狂犬の頭が壁にめり込む。骨の砕ける感触。血と黒い泥のようなものが飛び散る。


 よし、これで――


 止まらなかった。


「えっ」


 残りの狂犬たちは平然と襲いかかってきた。むしろ嬉しそうに、顎を鳴らしながら距離を詰めてくる。


「うそだろ!」


 一匹の牙が、誠治の頬をかすめる。あと数センチで終わっていた。


 そのとき、頭上から間の抜けた声が降ってきた。


「いやあ、危なかったねえ」


 誠治が振り向く。


 電柱の上に、小さな何かが座っていた。


 丸っこいシルエット。黄色っぽい体毛。やたらつぶらな目。サルのような、ぬいぐるみのような、子供番組のマスコットのような生き物。


 そいつは片手をひらひら振った。


「こんばんは。僕、サルルート君」


「は?」


「君、人間力欲しくない?」


「状況!」


「欲しいか欲しくないかだけ答えて」


 狂犬が飛びかかってくる。誠治は反射的に避け、ゴミ箱を盾にする。サルルート君はやれやれと肩をすくめた。


「本来こういうの、もっとドラマチックにやるんだけどねえ。契約してくれたら無類のパワーをあげる。たぶん今よりは死ににくくなるよ」


「たぶんってなんだよ!」


「絶対じゃないってこと!」


 狂犬の一匹が誠治の背後から迫る。間に合わない。


「……くそ!」


 誠治は叫んだ。


「欲しい! 人間力でも何でも欲しい! だからさっさとしろ!」


「よろしい」


 サルルート君が、にっこり笑った。


 その瞬間、誠治の胸の奥で何かが爆ぜた。


 骨が軋む。筋肉が膨張する。皮膚の下で獣の血が沸騰する。シャツが裂け、ジャケットがはじけ飛んだ。視界が赤く染まり、呼吸が熱くなる。脊髄に雷が走ったように全身が震えた。


「う、ぐ……ああああああッ!」


 次に誠治が立っていたとき、彼の身体は人間の限界を越えていた。


 肩幅は倍近くに広がり、腕は丸太のように太く、背中は岩壁みたいに盛り上がっている。指は太く硬く、爪は黒い。全身の筋肉が、理性を嘲笑うみたいに膨れ上がっていた。


 ムキムキだった。


 とにかくムキムキだった。


「……なにこれ」


「魔法猩々(しょうじょう)ゴリラ☆ゴリラだよ!」


「ネーミングが終わってるだろ!」


 狂犬たちが飛びかかる。だがもう、速さが違って見えた。


 誠治は一匹の顎を掴み、そのままアスファルトに叩きつける。二匹目は回し蹴りでコンビニの壁へ。三匹目は両手で頭を挟み、スイカみたいに潰した。骨が砕け、黒い霧が噴き出す。


「グアッ……ニンゲン……ツヨ……」


「うるせえッ!」


 叫ぶたびに身体が軽くなる。いや、違う。軽いのではない。重くて強くて、自分が世界のほうを押しのけている。


 誠治は咆哮した。狂犬の群れの真ん中に突っ込み、拳で、脚で、肩で、ひたすら殴り飛ばした。路地の壁が割れ、電柱が曲がる。最後の一匹が首だけになってもまだ噛もうとしてきたので、彼はそれを素手で握りつぶした。


 狂犬は消える直前、片言で笑った。


「ヨカッタ……カマナクテ……ヒトカミ……オワリ……」


「え?」


 霧になって消えていくそいつを見ながら、誠治は息を整えた。


「全部倒せてよかったね!あいつらにひと噛みされたら廃人になるところだったよ!」


 サルルート君はあっさり言った。


「リスクきつすぎない?」


「それはまあいいじゃん」


「よくねえよ!」


 路地に沈黙が落ちる。遠くでサイレンが聞こえた。


 サルルート君はふわりと飛び降りて、誠治の肩にちょこんと乗った。


「じゃあ改めてお願いね。僕と契約して、これからも魔法猩々ゴリラ☆ゴリラとして戦ってよ」


「……待て」


 誠治は荒い息を吐きながら言った。


「猩々って、ゴリラというよりオランウータンのほうが近くないか?」


 サルルート君は数秒黙った。


「そこ気にするんだ」


「気にするだろ」


 彼の人生は確かに終わっていた。だがどうやら、本当に別の何かが始まってしまったらしかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ