第一話 猩々はゴリラじゃなくてオランウータン
庄司誠治は、自分が優秀であることを疑ったことがなかった。
身長百九十センチ。顔はいい。東京大学卒。アメフト部所属。体脂肪率も低い。言うことなしだ。少なくともスペック表だけ見れば、ほぼ無敵のはずだった。
だが現実はそうではなかった。
「誠に残念ながら――」
スマホの画面に表示された、その文面を見た瞬間、誠治は無言でメールを閉じた。百通目のお祈りメールだった。
下北沢駅前のベンチに座ったまま、彼は天を仰いだ。曇っていた。
「誠に残念ながら、じゃねえよ」
吐き捨てるように言って、彼は缶コーヒーを握りつぶした。ちょうど一時間前には、バイト先の古着屋もクビになっていた。
『庄司くんさぁ、お客さんに“その服、似合ってないっすね”って言うの、接客じゃないからね?』
『でも似合ってなかったんで』
『そういうことじゃないんだよ』
そういうことじゃないらしい。世の中はいつだってそうだった。正しいことを言っても嫌われる。能力があっても落とされる。愛想のいい無能ばかりが得をする。大学のゼミでも、サークルでも、就活でも、ずっとそうだった。
「結局、人間力ってやつかよ」
誠治は苦々しくつぶやいた。
人間力。嫌いな言葉だった。曖昧で、ぬるくて、測定不能なわりに、やたらと他人を裁くときにだけ使われる便利ワードだ。要するに、空気を読み、感じよく笑い、適当にへりくだり、相手を気持ちよくさせる能力。そんなものが能力扱いされるなら、猿でも大企業に入れるだろう。
だが、自分は入れなかった。
ゼミの飲み会で女子に「庄司くんって彼女いたことある?」と聞かれ、「ないけど」と答えたときの、微妙な間も思い出した。別に困っていない。焦ってもいない。そう思っていたのに、あの一瞬だけ、なぜか自分の輪郭が薄くなった気がした。
彼は舌打ちして立ち上がった。
「クソ」
そのときだった。
空が吠えた。
「――は?」
見上げた瞬間、誠治の思考は止まった。
曇天を切り裂くように、何かが降ってきていた。犬だった。いや、犬のようなものだった。十匹、二十匹、もっと。痩せこけた身体に異様に長い脚、口の端まで裂けた顎、赤く濁った目。重力を無視するように空から落ち、アスファルトに着地すると同時に、ぐるりと首を回して誠治を見た。
そのうちの一匹が、口をもごつかせながら言った。
「ニンゲン……シネ……ヤワラカイ……」
「……は?」
「オマエ……カム……オワル……」
意味不明な片言の日本語だった。
周囲の人間が悲鳴をあげて逃げ出す。スマホを向ける馬鹿もいたが、一匹が噛みついた瞬間、その男は泡を吹いて倒れた。死んではいない。だが目の焦点が合っていない。口から涎を垂らしながら、意味のない笑い声を漏らしていた。
「おいおいマジかよ!」
叫ぶと同時に、誠治は走った。
フィジカルには自信がある。こういうときに大事なのはパニックにならないことだ。数が多いなら包囲される前に抜ける。頭を使え。敵には統率者がいる。群れものはだいたいそうだ。アメフトでも同じだ。ラインを見ろ。穴を見つけろ。潰せ。
後ろから狂犬たちが迫る。
「カメ! カメ! カメ!」
「噛むって言えよ!」
誠治は自動販売機を蹴り飛ばし、背後の二匹を巻き込みながら路地に滑り込んだ。そのまま一番奥へ逃げる――ふりをして、壁を蹴って反転した。
視線の中心にいた、一匹。首の動きが違う。鳴かない。目だけで他を見ている。あれが頭だ。
「死ねッ!」
誠治は全力で踏み込み、東大アメフト部仕込みのタックルを叩き込んだ。狂犬の頭が壁にめり込む。骨の砕ける感触。血と黒い泥のようなものが飛び散る。
よし、これで――
止まらなかった。
「えっ」
残りの狂犬たちは平然と襲いかかってきた。むしろ嬉しそうに、顎を鳴らしながら距離を詰めてくる。
「うそだろ!」
一匹の牙が、誠治の頬をかすめる。あと数センチで終わっていた。
そのとき、頭上から間の抜けた声が降ってきた。
「いやあ、危なかったねえ」
誠治が振り向く。
電柱の上に、小さな何かが座っていた。
丸っこいシルエット。黄色っぽい体毛。やたらつぶらな目。サルのような、ぬいぐるみのような、子供番組のマスコットのような生き物。
そいつは片手をひらひら振った。
「こんばんは。僕、サルルート君」
「は?」
「君、人間力欲しくない?」
「状況!」
「欲しいか欲しくないかだけ答えて」
狂犬が飛びかかってくる。誠治は反射的に避け、ゴミ箱を盾にする。サルルート君はやれやれと肩をすくめた。
「本来こういうの、もっとドラマチックにやるんだけどねえ。契約してくれたら無類のパワーをあげる。たぶん今よりは死ににくくなるよ」
「たぶんってなんだよ!」
「絶対じゃないってこと!」
狂犬の一匹が誠治の背後から迫る。間に合わない。
「……くそ!」
誠治は叫んだ。
「欲しい! 人間力でも何でも欲しい! だからさっさとしろ!」
「よろしい」
サルルート君が、にっこり笑った。
その瞬間、誠治の胸の奥で何かが爆ぜた。
骨が軋む。筋肉が膨張する。皮膚の下で獣の血が沸騰する。シャツが裂け、ジャケットがはじけ飛んだ。視界が赤く染まり、呼吸が熱くなる。脊髄に雷が走ったように全身が震えた。
「う、ぐ……ああああああッ!」
次に誠治が立っていたとき、彼の身体は人間の限界を越えていた。
肩幅は倍近くに広がり、腕は丸太のように太く、背中は岩壁みたいに盛り上がっている。指は太く硬く、爪は黒い。全身の筋肉が、理性を嘲笑うみたいに膨れ上がっていた。
ムキムキだった。
とにかくムキムキだった。
「……なにこれ」
「魔法猩々ゴリラ☆ゴリラだよ!」
「ネーミングが終わってるだろ!」
狂犬たちが飛びかかる。だがもう、速さが違って見えた。
誠治は一匹の顎を掴み、そのままアスファルトに叩きつける。二匹目は回し蹴りでコンビニの壁へ。三匹目は両手で頭を挟み、スイカみたいに潰した。骨が砕け、黒い霧が噴き出す。
「グアッ……ニンゲン……ツヨ……」
「うるせえッ!」
叫ぶたびに身体が軽くなる。いや、違う。軽いのではない。重くて強くて、自分が世界のほうを押しのけている。
誠治は咆哮した。狂犬の群れの真ん中に突っ込み、拳で、脚で、肩で、ひたすら殴り飛ばした。路地の壁が割れ、電柱が曲がる。最後の一匹が首だけになってもまだ噛もうとしてきたので、彼はそれを素手で握りつぶした。
狂犬は消える直前、片言で笑った。
「ヨカッタ……カマナクテ……ヒトカミ……オワリ……」
「え?」
霧になって消えていくそいつを見ながら、誠治は息を整えた。
「全部倒せてよかったね!あいつらにひと噛みされたら廃人になるところだったよ!」
サルルート君はあっさり言った。
「リスクきつすぎない?」
「それはまあいいじゃん」
「よくねえよ!」
路地に沈黙が落ちる。遠くでサイレンが聞こえた。
サルルート君はふわりと飛び降りて、誠治の肩にちょこんと乗った。
「じゃあ改めてお願いね。僕と契約して、これからも魔法猩々ゴリラ☆ゴリラとして戦ってよ」
「……待て」
誠治は荒い息を吐きながら言った。
「猩々って、ゴリラというよりオランウータンのほうが近くないか?」
サルルート君は数秒黙った。
「そこ気にするんだ」
「気にするだろ」
彼の人生は確かに終わっていた。だがどうやら、本当に別の何かが始まってしまったらしかった。




