番外編③「クロとしている理由」
夜が更ける前。
ミオが机に向かい、紙の束に何かを書き込んでいる横で、我は窓辺にちょこんと座っていた。
外の匂いがする。
草の湿り気、土の温度、遠くの焚き火の煙。
街の気配の向こう側に、もっと濃い“世界”の匂いがある。
「にゃ……」
小さく鳴くと、ミオが顔を上げた。
「ん? クロ、外に出たいの?」
「にゃっ」
我は尻尾を揺らし、窓枠に前脚をかける。
ほんの少しだけ、お願いするように。
ミオは苦笑して、立ち上がった。
「はいはい。窓、開けるね」
鍵が外れ、窓がすうっと開く。
夜風が部屋に入り、ミオの髪がふわりと揺れた。
「クロ、遅くならないようにね~」
「にゃ~!」
返事は元気よく。
我は窓枠を蹴り、軽やかに外へ飛び出した。
屋根を滑るように走り、隣家の塀を越え、街灯の光の届かない路地へ。
夜の世界は静かで、しかし情報が多い。
足音、呼吸、遠吠え、木々の擦れる音。
全てが我に語りかけてくる。
我は一気に駆け出した。
木々の間を縫うように抜け、草を裂き、落ち葉を散らす。
街が背中に遠ざかり、やがて道は獣道へと変わっていく。
向かう先は――街から離れた山のダンジョン。
「にゃっにゃっ(さて、いきますか)」
言葉は誰にも聞こえぬよう、喉の奥で転がす。
この姿のままでも構わぬが、今宵は“確認”が必要だった。
ミオが笑っていた。
あの重く曇っていた心が、ようやく晴れたように見えた。
だからこそ、我は少しだけ、己の根へ戻りたくなったのだ。
山肌に開いた洞穴が見えてくる。
入口は黒く口を開け、風が湿り気を含んで吹き出している。
我は迷いなく足を踏み入れた。
中は洞窟。
壁にはツタが絡み、石肌は濡れて薄く光っている。
薄気味悪い湿気が空気を満たし、鼻腔の奥をくすぐる。
だが――懐かしい。
ところどころにヒカリゴケが生えており、淡い青白い光で洞窟内を照らしていた。
ミオの部屋の灯りとは違う、命の光。
暗闇の中で“生きている”というだけの光。
我はゆっくりと歩を進める。
石を踏む音が、やけに大きく響く。
けれど、それは我が弱いからではない。
この場所が、我の気配を受け取って静かに震えているだけだ。
我は一つ……また一つと、階層を降りていく。
道中、魔物が現れる。
ゴブリン。
ウルフ。
スケルトン。
スライム。
だが誰も、襲いかからぬ。
我を見て、目を伏せ、道を空ける。
ゴブリンは棍棒を抱えたまま膝をつき、ウルフは唸りを飲み込み頭を垂れる。
スケルトンは骨を鳴らさぬように静かに後退し、スライムはぴたりと動きを止める。
当然だ。
我が“誰”かを、彼らは本能で知っている。
下へ。下へ。
気配は濃くなり、空気は冷え、ヒカリゴケの光も弱まる。
代わりに、床の石そのものが微かに脈打つように感じられた。
――最下層。
そこにあるのは、重厚で不気味な装飾が施された大きな扉。
黒鉄のような素材に、古い魔法陣が彫り込まれている。
触れれば指先が痺れるほどの力が眠っている。
我が近づくと、扉はきしり、と呻くような音を立て――。
ゆっくりと、開いた。
中は、大きく開けた空間。
天井は高く、岩肌から滴る水が床の浅い水たまりに落ち、ぽちゃん、と静かな音を立てる。
そして。
跪き、ずらりと並んだ魔物の群勢。
数は多い。
種も様々。
だが全員、我の到来を待ち、頭を垂れている。
我は、彼らが開けた真ん中の道を歩く。
その途中で――姿を変えた。
小さな黒猫の身体が、しなやかにほどける。
骨格が伸び、魔力が衣となって纏わり、空気が震える。
現れたのは、人型の姿。
大きな耳。
二つに裂けた尻尾。
所々に金の装飾が施された黒のドレス。
――我は、“クロ”であり“クロ”ではない。
この場所においては、我が真名で呼ばれる。
我は、一番奥に置かれた玉座へと歩み、優雅に腰を下ろした。
玉座の背は高く、黒曜石のように光を吸う。
座面に触れた瞬間、ダンジョンそのものが我に呼吸を合わせた。
「頭を上げよ」
声は低く、しかし澄んで響く。
洞窟の空気が震え、滴る水さえ静かになる。
「我が不在の間、ここを良く守ってくれた」
魔物たちが一斉に頭を上げ、視線をこちらへ向ける。
その瞳にあるのは恐怖ではない。畏敬と忠誠。
群勢の中から、一体の魔物が前に出た。
重騎士。
黒い鎧に身を包み、背丈は人より大きい。
角のような兜、赤く光る瞳。
剣を持たずとも圧だけで周囲を黙らせる存在だが――その者も我の前では膝をつく。
「“バステト”様」
重騎士の声が、床の石に跳ね返る。
「無事帰還されたこと、心より嬉しく思います。此度は――」
「よいよい」
我は手をひらりと振って遮った。
「そなたはいつも硬過ぎる。もっと緩くいこうぞ」
「は、はぁ……」
重騎士は困ったように首を傾げた。
どうして魔物たちは、皆こうなのだろうな。
魔王様の前ならともかく、我の前でもすぐ緊張する。
こやつらも、一度ミオと過ごした方がよいのではないだろうか。
あの子の側にいれば、肩の力が抜ける。
笑いが生まれ、温度が戻る。
ミオ……。
その名を思っただけで、胸の奥がふっと柔らかくなる。
「おお! そうじゃ!」
我は身を乗り出した。
「聞け、重騎士!」
「は、はっ!」
重騎士は急にビシッと姿勢を正してこちらを見る。
やめぬか、そういうところが硬いのだ。
「先日、ミオの母様と姉様に会ってきたのじゃ!」
言葉が弾む。
我は思わず笑ってしまう。
「父様はどうもだらしなかったが、皆よい家族じゃったわ!」
我が大きく笑うと、魔物たちも「おお……」と低く鳴き、空気が一段明るくなった。
この洞窟で“明るい”など本来あり得ぬのに、不思議なものだ。
重騎士は頷き、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「それは、とてもよきことでありますね。古巣を訪ねたということは……」
「ああ」
我は頷いた。
「色々決着がついたんじゃろうな」
思い出す。
新幹線の窓辺で、ミオが見せた表情。
家族と話し終えた後の、あの泣き笑いの顔。
「帰ってくるときのミオの表情は、とてもよかった」
胸がじんとする。
「我は、あの子が笑顔でいることがとても嬉しいのじゃ」
「それは、よいことですな」
重騎士の声も、ほんの少しだけ柔らかい。
我らは短く笑い合った。
だが、重騎士はすぐに話を戻す。
「では、バステト様もこちらに戻られる予定で?」
その問いに、我は首を横に振った。
「んや」
はっきりと。
「我はミオの傍におろうと思う」
玉座に深く腰を沈めながら、我は言った。
「あの子の傍には、我がいてやらねばならんのじゃ」
それは義務でも命令でもない。
我自身が、そうしたいのだ。
きっとそれは、ミオ自身も思っておることじゃろう。
あの子はまだ気づいていないふりをしているが、抱きしめる手はいつも真っ直ぐだ。
あの日。
我は傷ついていた。
血と泥にまみれ、息も弱く、ただ生きることだけに必死だった。
それなのにミオは、怖いはずなのに。
震えながらも我を抱き上げ、必死に助けてくれた。
あの優しい心に、我は報いねばならん。
命には命を。
我は必ずあの子を守り続ける。
例え種族が違えど、立場が違えど。
そんなことはどうでもいい。
「我は、好きなのじゃ」
ぽつりと漏れた言葉。
重騎士が、間の抜けた返事をする。
「キャットフードが、ですか?」
「そうそう、あの柔らかくて……って違うわッ!」
我は尻尾をびしりと床に打ちつけた。
「ミオのことがじゃ!」
「し、失礼しましたッ!」
重騎士は慌てて頭を下げる。
ったく、どうも調子が狂う。
我は小さく咳払いをし、気持ちを切り替える。
さて。
今のあの子に必要なものは、なんじゃろうな。
笑顔が戻ったとはいえ、未来はまだ長い。
薬師としての道も、クロとしての我の“正体”も、いずれは波紋を呼ぶ。
だからこそ、今は――守りを厚くする。
どんな“お土産”を持って帰ったら、ミオは喜んでくれるだろうか。
珍しい素材。
危険な呪いを祓う石。
あるいは、あの子が眠る夜のための、よく効く安らぎの香。
だが一番の土産は、きっと。
我が、変わらず傍にいること。
ミオが不安になったとき、膝に乗ってやること。
背中を押すように鳴いてやること。
怖い夢を見たとき、胸元に顔を埋めてやること。
そんな些細なことが、あの子には必要なのだ。
我は玉座から立ち上がり、群勢を見渡した。
「しばし、留守にする」
魔物たちは一斉に頭を垂れる。
「我が主は、今はあの子じゃ。守るべきは、ミオの笑顔じゃ」
言葉にした瞬間、胸の奥が温かくなる。
それは、ダンジョンの冷たい空気とは相容れぬ温度。
我は軽く手を振り、扉へ向かった。
洞窟を上り、階層を戻り、外の夜風を吸い込む。
星の匂いがする。
街の灯りが遠くに揺れている。
そして、我は再び“小さな黒猫”の姿へ戻った。
木々の間を駆け、枝を跳び、屋根を滑る。
ミオの窓が見えた時、胸が少しだけ高鳴った。
あの子が待っている。
我は、窓枠に着地し、そっと中を覗く。
ミオは机の上で、うとうとと頭を揺らしていた。
頬に髪がかかり、ペンが指先から落ちかけている。
「……まったく」
我は小さく鳴き、そっと窓から入った。
「にゃ」
起こさぬように、静かに近づき、ミオの膝に飛び乗る。
温かい。
この温度が、我は好きだ。
ミオが微かに目を開け、眠そうに笑った。
「……おかえり、クロ」
「にゃぁ」
ただいま、と喉の奥で返す。
我は目を細めた。
ミオ。
我は、必ずお前を守る。
次にお前が泣く時は、
もう独りでは泣かせぬように――。
そう心に誓いながら、我は静かに物思いに耽るのであった。
あとがき
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