第39話「本当の意味での一歩」
私は、埼玉県にある一軒家の前に立っていた。
駅から少し歩いた、静かな住宅街。手入れの行き届いた生垣と、白い外壁。どこにでもある、ごく普通の家。
なのに。
胸の奥が、やけにざわついている。
心臓が、ばくばくと早鐘を打つ。
手のひらが、じっとりと湿っているのが分かった。
ここに来るまでに、何度も頭の中で練習した言葉。
名乗り方も、伝えたいことも、全部決めてきたはずなのに。
いざ目の前に立つと、足がすくみそうになる。
私は、小さく息を吸って、ゆっくり吐いた。
「……大丈夫」
そう自分に言い聞かせる。
「にゃあ?」
足元から、心配そうな声が聞こえた。
クロがこちらを見上げている。
いつもより少しだけ、距離が近い。
「ありがとう。大丈夫だよ」
しゃがみ込んで、クロの頭をそっと撫でる。
柔らかな毛並みと、確かな温もり。
それだけで、ほんの少し、力が湧いてきた。
私は立ち上がり、門扉を越えて、玄関先に進む。
そして――。
インターホンのボタンに、指を伸ばした。
ピンポーン……。
乾いた音が、やけに大きく響いた気がした。
返事は、すぐには返ってこない。
沈黙。
秒針の音が聞こえてくるような、長い時間。
やっぱり……突然来るなんて、迷惑だったよね。
そう思い、もう一度鳴らすべきか迷いながら、指を引っ込めかけた、その時だった。
ガチャッ。
インターホンの向こうで、小さな音がする。
「はい~、どちらさまですか?」
女性の声。
私は、反射的に背筋を伸ばした。
「あ、あの……!」
声が、少しだけ裏返る。
「私、柊 澪と申します。娘さんが……ゆいかちゃんが、救急搬送されてきた時に対応していた研修医です……!」
一気に言い切った。
言葉が途中で途切れたら、もう続けられない気がしたから。
一瞬の沈黙。
そして――。
ガチャッ。
インターホンが切れる音。
「……」
胸の奥が、すっと冷えていく。
やっぱり。
そう簡単に会ってもらえるわけ、ないよね。
私は小さく息を吐き、肩を落とした。
「……また、今度こよっか……」
日を改めよう。
そう思って、踵を返した、その時だった。
「柊さん!」
勢いよく扉が開く音。
突然、名前を呼ばれ、私は驚いて振り返った。
そこにいたのは、息を切らしながら、乱れた髪を慌てて押さえる女性だった。
五十代くらいだろうか。
目は赤く、けれど真っ直ぐこちらを見ている。
その人は、足早にこちらへ来ると、門を開け――。
次の瞬間。
ぎゅっと、私を抱きしめた。
「――えっ!? あ、あの……?」
突然のことで、頭が真っ白になる。
どうしていいか分からず、私はただ立ち尽くしていた。
「……会いたかった」
震える声。
「ずっと……探していたの」
その言葉で、ようやく理解する。
この人が――。
「……ゆいかの、母です」
ゆっくりと、身体が離される。
目の前にいたのは、あの日、救急外来で泣き崩れていた女性だった。
「突然ごめんなさい。でも……本当に、会えてよかった」
私は、言葉が出なかった。
恨まれている。
責められる。
そう覚悟してきたはずなのに。
「……あの時は」
彼女は、深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「え……?」
「あなたに、酷い言葉を投げました。あの時はどうしても……受け止めきれなくて」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「でもね」
顔を上げた彼女の目は、はっきりと私を見ていた。
「あなたの処置は、間違っていなかったんです」
私は、息を止めた。
「あとから分かったの。看護師による医療過誤があって……それが、隠されていた」
静かな声で、事実が語られていく。
あの後、裁判を起こしたこと。
長い時間がかかったこと。
そして、ようやく責任の所在が明らかになったこと。
「私は、あなたを恨んでいません。それどころか……感謝してるんです」
涙を浮かべながら、彼女は言った。
「最後まで、必死に処置してくれたあの姿は……一生、忘れません」
視界が、滲んだ。
「……私は」
喉が、うまく動かない。
「私は……医者として、失格だって……」
言葉が、震える。
彼女は、首を振った。
「違います。あなたは、立派なお医者さんでした」
そして、そっと笑う。
「だから、ずっと探してたの。謝りたくて……それと、ありがとうを言いたくて」
その言葉が、胸の奥に溜まっていたものを、静かに溶かしていく――。
◆
しばらく、世間話をした。
あれから、どう過ごしていたか。
今は、何をしているのか。
クロを見て、少し驚いた顔をしたりもした。
「……あなたのことも」
帰り際、彼女はそう言った。
「娘だと思ってるからね」
私は、とうとう堪えきれず、涙を零した。
「……はい」
笑いながら、そう答えるのが精一杯だった。
「今度は、ゆいかにも会いに来てちょうだい。きっと、喜ぶわ」
「……はい。ぜひ」
家を後にし、夕暮れの道を歩く。
胸の奥が、不思議と軽い。
「クロ」
私は、クロに話しかける。
「私……今日、来れてよかった……。ついてきてくれて、ありがとうね」
「にゃーん!」
元気な返事。
私は空を見上げながら、心の中で呟いた。
次は――。
ゆいかちゃんにも、会いに行こう。
そう思いながら、私は新しい一歩を踏み出す。
ずっと曇っていた心がようやく晴れた気がした。
あとがき
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