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九.暗雲

「……(しん)貞花(ていか)様? お目覚めですか?」


 朝礼への初めての随行(ずいこう)から、しばらく経ったある日。

 朝が苦手な主は今日も起きてくる気配がなく、鵬杏(ほうあん)の指示を受けた姷明(ゆうめい)は、沈妃の部屋に向かった。本を読み過ぎての寝坊であれば、こうして声を掛ければ妃からの要領を得ない返答があるのが常だが、今朝はしんと静まり返っている。

 僅かに逡巡(しゅんじゅん)し、姷明は主の居室の扉に思い切って手をかけた。そろそろ起きて準備を始めなければ、朝礼に遅刻してしまう。


「沈妃様、失礼いたします。そろそろお支度を始めませんと、朝礼に遅れてしまいます」


 扉を開けてそう声を張るが、やはり(こた)えはない。まだ眠っているのだろうか。姷明は(つか)の間悩んだが、思い切って主の部屋に足を踏み入れた。


「沈妃様、──沈妃様?」


 姷明の予想に反して、沈貞花は目を開いて寝台に横たわっていた。

 けれども、その顔色は真っ青で、呼吸は不規則に荒い。


「……沈貞花様、いかがされましたか!?」


 慌てて姷明が駆け寄ると、沈貞花は紫色になった唇を何とか微笑みの形に動かし、苦しそうに言った。


「朝起きたら急に、全身が怠くて、動けなくてさ……。昨日は何ともなかったのに」


 時折、皇后陛下との酒宴が原因で、翌朝も頭痛や嘔気(おうき)に悩まされることもあったが、沈貞花はふらふらになりながらも起き出して、朝礼に向かっていた。読書に夢中になると寝食を忘れることは多々あるものの、元々が健啖家(けんたんか)で、これまで大きな病気など一つもしてこなかったそうだ。

 その沈貞花が、「動けない」と弱音を吐くなど、尋常ではない。


「っ、お熱などは……」

「……なさそう。ただ、起き上がれなくて」

「失礼いたします」


 断りを入れて触れた額には、熱さは感じない。しかし、沈貞花は視線を巡らせるのも億劫(おっくう)そうに、きつく眉根を寄せている。


「……本日は、朝礼はお休みなさった方が良いかと」


 思わずそう言ってしまった姷明に、沈妃は申し訳なさそうな表情を浮かべる。欠席すれば、口うるさく言う者が出てくるだろうが、姷明たちには主の健康の方が大切だった。姷明は首を振り、珍しく気弱げな表情を浮かべた沈貞花を、励ますように微笑んだ。


「一日休まれて、しっかり体調を治して、また明日から出席いたしましょう」

「……うん。ありがとう」


 か細い声でそう答え、沈貞花は吸い込まれるように眠りに落ちる。(ふすま)を直し、(ぬる)くなっていた枕元の水差しを取り上げ、姷明は部屋を後にした。






 しかし、翌日以降も、(しん)貞花(ていか)の容態は快復しなかった。

 それどころか日に日に、具合の悪い部分が増えていく。異常な倦怠感から始まった症状は、頭痛、眩暈、吐き気、腹痛、発熱、節々の痛みと、健康だった妃に次々と襲いかかった。

 熱冷ましや吐き気止めを飲ませても、症状は一向に良くならない。朝礼も欠席し続け、気付けば沈妃が伏せってから一旬(いちじゅん)が経過していた。

 流行病を警戒したものの、侍女たちや昭瑶(しょうよう)皇女に、同様の症状が現れることはない。

 それでも侍女たちは、皇女を母妃から遠ざけることを決めた。

 急に母親から引き離され、様子がおかしい侍女たちを前に、昭瑶皇女は珍しく声を上げて泣きじゃくった。彼女の傍には、沈妃の回復まで殿舎に泊まり込むことを決めた清娘(せいじょう)がつきっきりとなり、鵬杏(ほうあん)姷明(ゆうめい)は交代で沈貞花の看護に明け暮れた。






 最初のうちに一度、内廷医(ないていい)の診察を受けたが、老齢の従看(じゅうかん)は「たちの悪い感冒でしょうか」と首を傾げるばかり。それ以降は、(しん)貞花(ていか)往診(おうしん)を渋ったのだ。従看の中には、知識が豊富で志の高い者もいるが、一方で、楽をすることと賄賂を得ることにのみ熱心な者も一定数いる。そして、位の低い妃に()てがわれるのは、後者の方だ。

 診察を受けること自体は無料であるものの、薬代などは自己負担となる。暮らし向きの楽ではない玻鏡殿(はきょうでん)の主は、無駄な出費を嫌った。



 その日も、夜を徹して沈貞花の看病をし続けた姷明(ゆうめい)は、朝日が昇る前に起き出してきた鵬杏(ほうあん)にあとを託し、自室に戻った。

 看病時には必ず身に着けている口布をむしり取り、倒れ込むようにして小さな寝台に潜り込む。

 一晩中降り注ぎ、姷明の気を重くしていた雨は、ようやく上がったようだ。しんと静まり返った空間で、姷明はゆっくりと目を閉じた。


 しかし、束の間の睡眠は、取り乱した鵬杏の悲鳴によってすぐに中断される。






「誰か、誰か……!」






 常に冷静沈着な鵬杏の切羽詰まった悲鳴に、姷明は飛び起きる。新しい口布を掴み、顔の下半分を覆いながら、血相を変えて沈貞花の部屋に駆け込んだ。

 鵬杏はこちらに背を向けたままだ。姷明は恐る恐る近付き、同じく口布に覆われたその顔を覗き込む。鵬杏に駆け寄る直前、部屋の扉を閉めたのは、無意識の行動だった。


杏姐(あんねえ)、どう、……っ!!」


 目の前に広がった光景に、姷明は途中で声を失った。


 起こした身体を力なく鵬杏に預け、沈貞花が気を失っていた。皺の寄った沈妃の白色の寝装束の胸元と、呆然としながら主の身体を抱き留めている鵬杏の腹のあたりが、どす黒い何かで汚れている。真っ青を通り越して土気色になった沈妃の顔、その口元にも同じ色の汚れがついていた。


 つんと金臭いそれは、血としか思えなかった。


 震える手を鵬杏の方に伸ばしかけ、熱湯にでも触れたように瞬時に引っ込めた姷明は、目を見開いた。


「沈……貞花、様……」


 姷明の震えた呟きは、しかし、突如部屋の外から響いた涙声にかき消された。


「──清娘(せいじょう)、はなして! ……母妃(ははうえ)様、ははうえさま、どうしたの!?」


 悲鳴を聞きつけて駆けつけてきたのだろう、昭瑶(しょうよう)皇女が扉の向こうで泣き叫んでいる。

 姷明ははっと我に返った。慌てて扉に走り、懸命に皇女を押しとどめているであろう清娘に呼び掛ける。


清姐(せいねえ)、皇女様をお願いします! 報告はあとで!」

「分かったわ!」


 力強い清娘の返答が、全身を恐怖と焦燥に震わせている姷明を、わずかに落ち着かせてくれた。

 両手で自身の頬を張った姷明は、一つ大きく息を吸う。そして、未だ沈妃の身体を抱き竦めて固まっている鵬杏のもとに駆け戻り、その顔を至近距離で覗き込んだ。

 茫洋(ぼうよう)としていた鵬杏の瞳が、間近で姷明を捉えた途端に、大粒の涙を流し始める。ひくりと喉を鳴らした彼女に頷き、代わりに沈貞花の身体を寝台に横たえていると、鵬杏が子どものような頼りない声音で訴えかけてきた。


「ゆ、姷明(ゆうめい)……っ。沈妃(しんひ)様が、」

「落ち着いてください、杏姐(あんねえ)。沈貞花(ていか)様も、気を失われているだけです。

私が、内廷医を呼びに行ってきます。貴女は引き続き、沈貞花様の傍に。また血を吐かれてしまったら、窒息しないように、顔を横向かせて」

「でも……っ!」


 鵬杏(ほうあん)は大粒の涙を零し、がたがたと全身を震わせている。彼女の言いたいことを悟り、姷明はぎゅっと両の拳を握り締めた。


「……皇后陛下の侍女に、助けを求めようと思います。かの方のお言葉があれば、内廷医局も、まともな従看(じゅうかん)を寄越してくれるはず」


 鵬杏が息を飲む。

 次代の皇族を産み育てる場である後宮では、病の(けが)れは何よりも忌避される。他の后妃(こうひ)に体調に関する情報を握られることが、妃として死活問題であるのは、姷明とて重々承知だ。


 けれども、玻鏡殿(はきょうでん)には、優秀な内廷医を秘密裏に呼ぶ力も、資金もない。主を死なせないためには、後宮の統治者である皇后陛下の慈悲に縋るしか、方法がないのだ。


 それとて、不確実な希望的観測に過ぎないが、何もしないでは居られなかった。


 腹を括って告げた姷明に、鵬杏も端麗な相貌を濡らす涙を乱暴に拭い去り、しっかりとした眼差しで頷いてみせた。

 姷明はその場を駆け出した。そして、部屋を出た途端、誰かの肩口に突っ込んだ。


「姷明!」


 顔を上げると、その場に立っていたのは、玻鏡殿ただ一人の宦官である(でい)少監(しょうかん)だった。慌てて姷明が口を開きかけると、彼は左右で色の違う瞳を(すが)めて頷いた。


「話は外で聞いていた。私も行こう。……しがない使用人風情でも、二人で向かえば多少は何か変わるかも知れない」

「っ、お願いします!」


 叫んだ姷明はその場を再び駆け出した。今日だけは司率局の教官や、鵬杏と清娘に教わった侍女の礼儀作法はかなぐり捨てた。


 途中、気が急くあまり姷明は何度も道を間違えかけたが、その度泥少監に引き戻された。おかげで最短距離で、皇后陛下の殿舎である鳳晶殿(ほうしょうでん)に辿り着くことが出来た。

 乱れた呼吸を僅かに整え、姷明は泥少監の後に続いて、目の前に(そび)え立つ皇后陛下の住まいへと小走りで駆け寄った。


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