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八.憂鬱な朝礼

 リンリン、と訪問を知らせる鈴が鳴り、姷明(ゆうめい)は慌てて殿舎の門へ向かった。


 侍女が一人増えたといっても人手不足なのは変わらず、門に取次ぎの下働きを置く余裕などもない。訪客には鈴を鳴らしてもらうという習慣は、今も続けられていた。




 足は最大限に急がせながら、呼吸も乱さず足音は立てず、あくまで密やかに淑やかに。


(華やかで優雅だと思っていた侍女の仕事が、こんなにも体力と根性勝負だったなんて……)


 姷明は内心で苦笑してしまう。


 殿舎の入り口にいたのは、遠目に見慣れた親しみやすい可憐な容貌の女性と、その侍女と思しき女性の二人。

 貞容(ていよう)として隣の殿舎に暮らす(さい) 芙澤(ふたく)と、彼女の筆頭侍女だった。


 見慣れない人間が、通い慣れた友人の殿舎から出てきたことに、崔貞容はわずかに驚いた様子を見せた。傍に控える彼女の侍女も、表情は変わらないものの目を瞬かせている。


 姷明がさっと頭を下げると、筆頭侍女が優美な足取りで歩み寄ってきた。彼女は姷明の腰元にちらっと目をやり──そこには玻鏡殿(はきょうでん)の侍女である証の佩玉(はいぎょく)が下がっている──、目礼を返すと、柔らかな声で告げた。


「……(しん)貞花様は、ご在舎(ざいしゃ)でしょうか?」

「はい。どうぞ、お上がりください」


 通常、他の殿舎に住まう妃を訪ねる際には、あらかじめ文を送るか、直前であっても使者を派遣し、伺いを立てるのが礼儀だ。

 だが、姷明たちは、余程の事態で立て込んでいない限り、崔貞容を迎えるようにと、沈貞花から言い含められている。崔貞容の殿舎でも、沈貞花は同じ扱いだそうだ。唯一無二の友人として、互いに信頼しあっているのが、よく分かる逸話(いつわ)だった。


 今日も、沈貞花は自室で本を読んだり、(でい)少監(しょうかん)と打ち合わせをしたりして過ごしているはずだ。

 崔貞容とその侍女を客間に通し、姷明は沈貞花の自室に向かった。

 鵬杏(ほうあん)は休暇日で、皇都(こうと)に暮らす妹夫婦を訪ねている。三月前に産まれた甥に会いに行くのだそうだ。昭瑶(しょうよう)皇女は感冒から快復したばかりで、清娘(せいじょう)は皇女に付きっきりだ。本日の沈貞花の身の回りの補佐は、姷明が一人で担わなければならない。


 取り澄ました表情を作っていたが、初めての来客対応、しかもいきなり一人でという状況に、姷明の鼓動は(にわか)に激しくなっていた。


 辿り着いた主の部屋の外から声を掛け、音を立てないようにそっと扉を開くと、沈妃(しんひ)は手にしていた書物から目線を上げた。


「どうしたの?」

「崔貞容がおみえです。客間にお通ししました」

「そう。ありがとう、すぐに行くね」


 書物を机に置いた沈貞花が立ち上がり、いそいそと客間に向かった。足早に進む主の後を追いながら、姷明はお茶の出し方や菓子の並べ方を、頭の中でなぞる。緊張のあまり、心臓が口から出てきそうだった。





 結論として、姷明(ゆうめい)の気負いも不安も、すべて取り越し苦労に終わった。

 (しん)貞花(ていか)と一言二言、言葉を交わした(さい)貞容(ていよう)が、突然表情を変えて玻鏡殿(はきょうでん)を後にしたためだ。


 華奢(きゃしゃ)な背中を呆然と見送りながら、姷明は次第に顔色を悪くしていった。崔貞容は沈貞花との会話の中で、姷明のことに言及した途端、何か思い詰めたように花のかんばせを曇らせた。

 焦燥に駆られ、思わず姷明は沈貞花に尋ねていた。


「申し訳ございません……。私の言動に至らぬ点があったのでしょうか……」

「そんなことはないよ。芙澤(ふたく)にもきっと、色々あるんだよ」


 崔貞容が去っていった方角をじっと見詰めていた沈貞花が姷明を振り返って言ったが、その瞳もどこか不安げに揺れていた。

 そのまま二人で顔を見合わせ、ぎこちなく微笑み合う。気持ちを切り替えるように、沈貞花が言った。


「昭瑶の様子を見てくるよ。姷明は少し休んでいて」

「承知いたしました。……ありがとうございます」


 頷き、部屋を出ていく沈貞花を見送りながら、姷明は崔貞容に出す予定であった茶を片付け始めた。







 中級以上の妃は毎朝、皇后陛下への挨拶と訓示を受ける、朝礼への出席が義務付けられている。その場で皇后陛下は、昨晩夜伽(よとぎ)役を務めた妃を労い、通達を行い、一通り話が終われば今度は全員で、央廷(おうてい)に住まう皇太后への挨拶に向かうのだ。

 妃は一名ずつ、自身の殿舎の侍女を伴うことが許されており、侍女たちは朝礼の間中、広間の外で(ひざまず)いて待つことになる。


 随行は自身の殿舎の格式高さや優美さ、有能さを誇示するため、大抵の妃は筆頭侍女を選ぶ。その筆頭侍女も多くは、妃が入宮の際実家から伴ってきた人員ばかりだ。家柄もよく、外見も衣装の着こなしも洗練されている。


 例外は(さい)貞容(ていよう)(しん)貞花(ていか)のみ。中級官僚の娘である彼女たちは、侍女の全てを司率局(しそつきょく)女官から(まかな)っており、当然、筆頭侍女の鵬杏(ほうあん)も内廷に籍を置く女官だ。玻鏡殿(はきょうでん)からは、彼女が随行することがほとんどであったが、沈貞花が見慣れない女官を連れてきたために、広間は少しざわついていた。




 居並ぶ妃も侍女も、礼国(れいこく)の歴史に燦然(さんぜん)と輝く新旧様々な名家やその分家、あるいは、国を支える豪商や豪農の令嬢ばかり。

 彼女たちの値踏みするような視線を一身に浴びた、貧乏商人の娘である姷明は、思わず全身を強ばらせた。

 それでも、内心の(おそ)れを悟られないよう、あえて顔を上げていると、複雑な表情で姷明をうかがう崔貞容と目線が合った。はっと息を飲んだ彼女は、慌てて前に向き直る。

 その左横に腰を落ち着けた沈貞花が、彼女に小声で短く何かを囁くと、崔妃はぎこちなく微笑んで頷いた。朝の挨拶か何かだろうか。

 皇后陛下の御成(おなり)を告げる声が響き渡り、妃たちは一斉に礼をとる。姷明たち侍女も妃たちに(なら)い、後宮の女主たる皇后陛下の入室を待った。







 初めての朝礼随行(ずいこう)姷明(ゆうめい)玻鏡殿(はきょうでん)の片隅で、ぐったりと座り込んでいた。


(胃に穴が開きそう……)


 遠目に初めて見た皇后陛下は、きりりとした眼差しが印象的な、落ち着いた雰囲気の女性だった。

 若い妃の中には跳ねっ返りもおり、姷明すらヒヤリとする無礼な発言を皇后陛下にぶつけていたが、彼女はそんな増長ぶりも悠々といなしていた。


 この方が、後宮で揉め事が起こる度に、主に酒席で(くだ)を巻いているのかと、姷明は不思議な思いで朝礼の様子を眺めていた。



 姷明を疲れさせたのは、央廷(おうてい)への移動や、そこからの帰り道の、同じ立場である侍女たちの反応だった。


 移動の際は、警護を兼ねた筆頭宦官と、侍女を脇に従えた皇后陛下を先頭に、四人の上級妃、六人の中級妃と続き、十名の侍女たちは最後尾について歩く。

 その侍女たちは、皇后陛下や上級妃の耳には入らないよう小声で、姷明にちらちらと目線をやっては、ひそひそと何かを囁きあっていた。

 漏れ聞こえてくるのは、「あの残念妃が侍女を新しく雇う余裕があるのか」だの、「どうせろくな身分ではない」だの、沈貞花と姷明を(おとし)め、揶揄(やゆ)する声ばかり。

 自身に関してはその通りなので怒りもないが、中級妃である主を馬鹿にされるのは大変不愉快で、姷明は必死で表情を殺していた。反抗的な様子で反感を買えば、面倒な立場に追いやられるのは、姷明だけではない。


 朝から真綿で絞めるような悪意に(さら)され、疲弊した姷明は、よろよろと厨房に水を貰いに向かった。そこで、沈貞花と昭瑶(しょうよう)皇女のお茶を準備していた清娘(せいじょう)と、偶然顔を合わせる。


「……早速、洗礼を浴びて来たようね」


 清娘は苦笑しながら、使用人用に沸かしてある白湯(さゆ)を茶杯に注ぎ、差し出してくれた。ありがたく受け取りながら、姷明(ゆうめい)憮然(ぶぜん)とした表情で唇を尖らせる。


「なんというか……。もっと、直接的にいびられた方が気が楽です」


 清娘はやさぐれた姷明の物言いに軽く噴き出し、答えた。


「表立って何かするには、皇后陛下や(おう)雅妃(がひ)様が恐ろしいのよ、皆。──ねちねち言われるあの陰湿な空気に慣れるまでは、私も鵬杏(ほうあん)も、姷姷(ゆうゆう)と同じようにうんざりしていたわ」


 彼女は昭瑶皇女にならい、姷明のことを愛称で呼んでくれていた。姷明も同じように、「清姐(せいねえ)」と呼ばせてもらっている。


「清姐たちもですか」


 姷明は目を瞬いた。


 それにしても、鵬杏も清娘も、姷明とは比べることも失礼な身の上であるのに、同じように言われていたのか。

 鵬杏は、上級貴族に愛好される皇都の仕立て屋の次女。清娘は、官僚である父と夫を持つ、中級貴族の出身だと聞いている。姷明のように、後ろ指をさされるような立場ではない。


 それだけ沈貞花が周囲に(あなど)られている証拠であり、その上姷明のような身分の者が加われば、より一層その空気が深まるのは自明のことだ。


 思わず表情を曇らせてしまった姷明の背中を、不意に清娘が豪快に叩く。


「──っ!?」

「気にするなとは言わない。息が詰まるし、憂鬱(ゆううつ)なのも当然。……でも、私も鵬杏も、貴女(あなた)が玻鏡殿の侍女に加わってくれて嬉しいし、心強いのよ。それは忘れないでね」


 からりとした笑顔でそう言った清娘は、「さ、お茶をお持ちしないと」と茶盆を持ち上げ、軽やかな足取りで厨房を出ていった。

 叩かれた背中がむず痒いような痛みを持ち、姷明は唇を引き結ぶ。そして、白湯を一息にあおり、今日も山積みとなっている筈の仕事を片付けに向かった。



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