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七.穏やかな日々

 貞花(ていか)の殿舎である玻鏡殿(はきょうでん)は、沈妃(しんひ)母娘(おやこ)のほか、下働きとして最低限の数の婢女(はしため)と三人の侍女、一人の宦官(かんがん)のみという人員の構成だった。

 故に、仕事か次から次へと降って湧いてくる。

 まずは鵬杏(ほうあん)のもとで、妃の日中の生活の補佐が出来るようになることを目標に、姷明(ゆうめい)は毎日走り回っていた。一日の終わりには疲労困憊(ひろうこんぱい)のあまり、床にへたりこんでしまう程だった。


 司率局(しそつきょく)で学んだことは最低限の基礎で、その殿舎独自のやり方もある。更に他宮からの来客の対応など、気を回すべきことは多岐にわたった。

 おまけに、三日に一度は日常業務のあとに、主に宮中行事に関する内容の追加講義を受けている。毎日、大小様々な宴や儀式が執り行われる宮中では、その意味や趣旨を理解しておくことはもちろんのこと、衣装などの細かな注意点や、侍女たる自身の立ち居振る舞いなども、完璧に把握しておかなければならない。

 侍女見習いとなってからの最初の半月は、飛ぶように過ぎていった。




 先任である鵬杏と清娘(せいじょう)は、時に厳しく時に優しく姷明を指導してくれた。


 沈貞花と同年代の、おっとりとした外見の鵬杏は、姷明の間違いや勘違いには寛容だったが、「これでいいか」というような手抜きは一切許さなかった。

 自身も三人の子を持つ母であり、主に昭瑶(しょうよう)皇女の養育を担う清娘は、大概の失敗は笑い飛ばしてくれるが、主の立場を危うくするような(あやま)ちには容赦(ようしゃ)なく雷を落とした。けれど、仕事を離れれば、二人とも気安い存在で、いまだ後宮での生活に慣れられない姷明をよく気にかけてくれた。


 玻鏡殿ただ一人の宦官である(でい)少監(しょうかん)は、常に忙しそうに書類に向かっていた。会話を交わす機会もあまりないが、(たま)に廊下で顔を合わせるとこちらを気遣ってくれるので、口下手だが面倒見の良い性格が見てとれた。


 殿舎の主である沈貞花は、良くも悪くも寛容だった。昭瑶皇女が不自由なく暮らせ、二人で本を楽しむことさえ出来ればそれ以外は特に気にしないとばかりに、何が起こっても鷹揚(おうよう)に笑っていた。

 一方で、殿舎の資金管理や運営については、よく泥少監を呼びつけて、真剣な面持ちで話をしている。難しいことは配下に任せ、着飾ることと皇帝陛下の(ちょう)を得ることにのみ執心する妃が多い中、沈貞花はこういった議論をことのほか楽しんでいるように見えた。


 昭瑶皇女も母譲りの本好きで、侍女たちにもしょっちゅう、「これはなに? これはなぜ?」と問い掛けて回っている。しかし、彼女たちが忙しそうだと見て取れば、すぐに「またこんど」と引き下がっる、気働きの出来る少女であった。

 新たに侍女となった姷明にもすぐに馴染み、彼女を見かけると嬉しそうに駆け寄って来てくれる。「ゆうゆう!」と愛称を呼ぶ無邪気な声に、姷明は顔を(ほころ)ばせていた。


 主母娘(おやこ)と使用人たちだけの、小さな世界。

 だが、隣の殿舎に暮らす(さい)貞容(ていよう)とだけは、頻繁に行き来があった。昭瑶皇女も彼女によく懐いており、三人が過ごす空間には、常に笑いが絶えなかった。

 姷明はまだ客の応対に出る許可が降りていないため、その声を遠くから聞いているだけだが、仲睦まじい様子は伝わってきていた。





 それ以外にも、(しん)貞花(ていか)は、ひっそりと届けられる文を受け取っては、しばしば出かけて行くことがあった。

 差出人も伏せられた文に目を通し、微笑む沈妃を姷明(ゆうめい)が不思議そうに見つめていると、気付いた主は悪戯っぽく笑って告げた。


「皇后陛下から。実は時々、こうして文をいただいて、酒宴に呼ばれるんだ」

「えっ……」


 沈貞花は(さい)貞容(ていよう)以外に交流を持つこともなく、皇帝陛下に忘れられた側妻(そばめ)であるというのが、宮城(きゅうじょう)に務める女官たちの常識だ。

 意外の念から、思わず声を上げてしまった姷明を、隣に立つ鵬杏(ほうあん)がじっとりとした目で睨み付けてくる。冷や汗を浮かべる姷明に、沈貞花は楽しそうに笑いながら声を掛けた。


「気持ちは分かるよ。私もなんでこんなことになってるのか、全然分かっていないし。──まあ、皇后様にも、色々あるんだろうね」


 そう言いながらも、出掛けていく沈貞花は楽しそうだった。



 皇后陛下からの呼び出しはどうやら、後宮で妃同士の揉め事が発生した直後が多いようだ。きっと、内密の憂さ晴らしなのだろう。酒宴のあと、侍女たちに下げ渡される残り物は、庶民には希少な料理や酒ばかり。普段生真面目な鵬杏ですら、膳を前にして笑み崩れていた。

 毎回、日持ちするものは清娘(せいじょう)に残し、足が早そうな料理や酒は、鵬杏と姷明でありがたくいただいている。

 酒に酔った鵬杏は、愚痴も言えば、見目の良い男性や流行りの衣服などにも興味を示す、親しみやすい年相応の女官といった雰囲気だった。

 侍女部屋で他愛もない会話を楽しみながら、膳をつつくこの時間を、姷明も何より楽しみにしていた。


 時折、沈貞花には、皇后陛下からのお誘い以外と思しき文が届くことはあったが、それに目を通す時の主は一転、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

 こちらは、内容も差し出し人も一切他言を禁じられているとかで、筆頭侍女である鵬杏すらも、誰からのものか知らないということだった。








 そうして、慌ただしく一ヶ月が過ぎた頃。

 姷明(ゆうめい)はかしこまった表情の鵬杏(ほうあん)に呼ばれて、侍女たちの控え室に腰を落ち着けた。緊張気味に鵬杏の様子を伺っていると、彼女は不意に表情を綻ばせる。


「明日からは、沈妃(しんひ)様の身の回りのお世話だけではなく、お客様のお迎えや、皇后陛下の宮での朝礼の随行(ずいこう)もやってみましょう。

……とても頑張ってくれている、姷明に化粧をしてもらうのが楽しいと、沈貞花様からもお褒めの言葉をいただいたわ」


 目を見開く姷明に、鵬杏は優しく微笑みながら頷き掛ける。


「あ、ありがとうございます……!」


 姷明は頬を紅潮させてそう言いながら、勢いよく頭を下げた。



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