六.玻鏡殿(はきょうでん)の主
中級妃の殿舎は後宮内に六つあり、どれも造りは共通している。
主である妃の居室、皇子皇女の部屋、食事をとる部屋、客間、浴室と化粧部屋、住み込みの侍女の居室や、婢女の雑居房だ。
妃嬪付きの宦官は原則、侍奉局の寮か、皇都に構えた自邸からの通いを義務付けられているため、彼らの日中の執務室も別途、各殿舎に設けられている。
通常、筆頭侍女は個室、それ以外の侍女は複数人部屋となるが、玻鏡殿の侍女は楊氏──鵬杏の他には、主に皇女に付いている柳 清娘のみである。姷明も、個室の使用を許可された。
ちなみに、鵬杏と姷明は殿舎に住み込む常侍、清娘は自宅から通う外侍女である。今までも鵬杏の休暇日には清娘が泊まり込みで対応をしていて、姷明が加わったあとも、その体制は引き継がれるそうだ。
各殿舎の周囲には、位階に応じた広さの庭園があるほか、貞位と媛位、それぞれで共有する離れもあった。こちらは、皇帝専用のものだ。後宮の規則上、正妻である皇后以外は、皇帝と朝餉を共にすることは許されないため、中級妃とのの夜伽のあと、皇帝はこの離れに移って休む。こちらの清掃は宦官が担い、後宮の女性が近づくことは固く禁じられているそうだ。
各殿舎の清掃は婢女が、食事の支度は司食労の女官が、それぞれ行うことになっている。とはいえ、外廷にある司食労から料理を運んで来るのでは冷めてしまうし、毒物や異物混入の機会を増やしてしまうことになる。そのため、内廷には専用の厨房が三つ置かれており、調理と配膳を担当する女官が、外廷からそこに通う形を取られている。朝夕の食事以外で軽食を望む場合は、厨房の女官に、別途調理を依頼する必要がある。
鵬杏は、手際よく殿舎を案内してくれた。その途中で改めて、沈貞花付きの泥少監にも引き合わされる。
妃や皇子、皇女の身の回りの世話をするのが侍女だとすれば、宦官は妃の化粧料の出入りの管理や、必要品の購入手配といった、殿舎全体の運営を担っている。
本来であれば弟子に任せるはずの、書類の清書や計算といった仕事も、彼は全て一人でこなしているようた。
沈貞花や昭瑶皇女は、朝が弱いようで、起床はいつも辰の初刻が過ぎだそうだ。侍女たちは沈妃の目覚めまでに、洗顔や化粧の支度を整え、朝餉のために食堂の準備を終えておく。鵬杏が沈貞花に、清娘が昭瑶皇女にそれぞれついているそうで、姷明はまずは鵬杏の指導のもと、業務を覚えることになった。
二人して妃の居室の前に控えていると、盛大な欠伸ともに扉が開く。普通であれば、起床と共に侍女を部屋に呼び寄せるのだろうが、この殿舎はとにかく人手がない。そのため、沈妃は目を覚ますと自ら化粧部屋に移動し、化粧部屋に置かれた鈴を鳴らすのだそうだ。さすがに、皇女に同じことをさせるわけにはいかないので、清娘は辰の初刻の直前に、皇女の部屋の前で待機する。
眠い目をこすりながら部屋から出てきた沈貞花は、頭を垂れた二つの人影に目を瞬かせた。だが、すぐに得心がいったとばかりに、素顔のままだとより鋭さを増した美貌を綻ばせる。
「おはよう。そうか、今日からだったね。……よろしくお願いします」
気さくなその言葉に、姷明はパッと表情を輝かせる。
精一杯丁寧に頭を下げる姷明を、隣で微笑ましそうに見やった鵬杏が、沈貞花を化粧部屋へと誘った。姷明も二人の後に続く。
妃の主室のそばに立つ湯殿と化粧部屋はこじんまりとしており、部屋の奥に置かれた鏡台も派手さはない。
それでも、鏡面は美しく磨かれ、使い込まれた筆先は艶やかな輝きを帯びている。それらの前に置かれた椅子に腰掛けた沈貞花に、鵬杏が傍らの湯桶を差し出した。眠たげな沈貞花が顔を洗い終えると布を差し出し、鵬杏はふと、首を傾げる。
「沈貞花様。どこか、お加減でも悪いのでしょうか? お顔の色が、あまりよろしくないような……」
「え? そう? ……本の読み過ぎかなぁ。昨日も夜更かししてしまったし」
不思議そうに首を傾げる沈貞花に、「またですか」と顔を顰めた鵬杏だが、すぐに心配そうに眉根を寄せた。
「長雨の季節に入りますもの。あまり無理はなさらないでくださいね。昨年も榴月に、体調を崩していらしたでしょう?」
「そうだったっけ? あのジメジメした空気がどうも苦手なんだよねぇ」
「でしたら尚のこと、夜更かしは厳禁ですわよ」
軽く笑い飛ばす主を諌めながらも、鵬杏はてきぱきと沈貞花に化粧を施し、衣装を整えていく。姷明は、彼女の手際の良さに圧倒される。その指示に従って動くのに精一杯で、主の顔色の悪さまでは見てとることが出来なかった。
身支度を終えた沈貞花は、待ってましたとばかりに弾む足取りで食堂へ向かった。後に続いた二人の侍女が部屋に入ると同時に、清娘に連れられた昭瑶皇女が姿を見せた。
皇女は不思議そうに姷明を見上げ、ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせた。
「……だあれ?」
生憎、彼女のことは記憶にないようだった。
(まあ、一瞬手を繋いで歩いただけだものね……)
自身の運命を大きく変える契機をくれたと言っても過言ではない、幼い皇女殿下。
自身でも想像以上に、再会を心待ちにし、舞い上がっていたことに気付き、姷明は内心、気恥しさを覚えた。
鵬杏に促されるまま膝を折り、皇族やその配偶者に対する礼として最上の、万福を行う。
下位の者たちは許可がなければ、延々と頭を下げ続けなければならない。だが、まだ七歳だという幼い皇女は、戸惑ったように沈黙したままだ。母である沈貞花が苦笑した。
「ごめんね。頭を上げて」
姷明はそっと身体を起こした。
「皇女様。今日からこの宮で、お世話になる者ですよ」
腰を落とした清娘が、自身を見上げている皇女にそう囁く。皇族に仕える者は、許可がなければ声を発することも、皇族の姿を視界に収めることも、名乗ることすらも許されない。目を伏せている姷明に、皇女は不意にとてとてと近付いてきた。
「……お名前は、なんというの?」
鈴を転がすような愛らしい声に、姷明は思わず顔を上げてしまう。慌てて頭を下げ、姷明は答えた。
「喬 姷明と申します」
「ゆうめい……」
たどたどしく繰り返した昭瑶皇女は、不意にぱっと目を輝かせる。
「じゃあ、――ゆうゆう!」
驚いて固まる姷明を他所に、昭瑶皇女が嬉しそうに笑いながら沈貞花のもとへ駆けてくる。そのまま母妃の足にしがみつき、はしゃぎ声を上げる愛娘の頭を撫でながら、沈貞花が苦笑と共に姷明を見上げた。
「……この子、この間読んだ小説の影響なのか、家族はあだ名で呼ぶんだって聞かなくて。嫌じゃなかったら、そう呼ばせてやってもらえるかな?」
ちなみに二人のことも、「清姐、杏姐」と呼ぶんだって、聞かなくてね。
困ったものだと言いながらも、娘である皇女の顔を覗き込む沈妃の顔は、慈愛に満ちている。微笑ましい母娘の姿に、いまだ緊張に冷や汗を浮かべ固まっていた姷明の表情も、ようやく綻んだ。
「ありがとうございます、皇女様。……光栄です」
昭瑶皇女の笑顔が一層輝き、姷明はこそばゆさを感じながらも微笑みを浮かべた。




