五.侍女修行
異動初日から早速講義を始めたその女官は、侍女としての基礎を、文字通り姷明の身体に叩き込んだ。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、足音を立てずに歩く練習では、竹を背に括り付けられ、司率局の一番長い廊下の端から端までを歩かされた。給仕の訓練では、無様に手が震えないよう、石を入れた袋を両手首に巻き付けられた。食器を卓に置く際に、わずかでも音を立てると、容赦のない叱責が飛んで来た。
肉体を酷使する訓練のあとは、化粧や衣装の着付けといった、身支度の補佐の訓練だ。庶民には縁のない高価な化粧道具は、扱い方すら分からず、姷明は困惑し通しだった。
そして何より重要な任務として、主が皇帝陛下に召された時や、主の殿舎にお渡りがあった際の作法や対応については、最も多くの時間が割かれた。理解不能な程に細かく定められた手順や規則に、姷明はひたすら目を白黒させる。
その他にも大小様々な宮中行事の意味、主が出席する際の注意点など、覚えることは多岐に渡った。
必死に食らいついていくものの、習得すべき内容の膨大さに、姷明は目眩を覚えていた。
(あんな風に啖呵を切ったけれど、沈貞花の殿舎に行ける日なんて来るんだろうか……)
思わず、弱気が顔を覗かせる。
講義の開始から既に一旬が過ぎたが、特に化粧の腕はいつまで経っても向上しない。練習台になってくれている教官の悲惨な顔を見る度に、姷明は泣きそうになってしまった。今も、教官の肌は白粉を塗りすぎて家壁の様になり、口紅の線もがたがただ。
焦る姷明に、意外にも教官は穏やかな声で告げた。
「……まずは、落ち着いて基本を辿ること。焦るから、手つきが安定せずむらになり、それを何とかしようと塗り過ぎたり、線が歪んだりするのです。――貸してごらんなさい」
姷明の手から筆を取り上げた教官は、彼女を椅子に座らせ、彼女の顔を優しく拭った。教官はゆっくりと、姷明の顔に白粉を塗り広げていく。
「肌の状態を観察しなさい。全てを均等に塗り潰そうとせず、肌自体が薄いところには、筆に残った白粉をそっと叩く程度で良い。粗が見える箇所は、しっかりと隠したあと、周囲に合わせて丁寧にぼかす。
紅はまず、唇の形をくっきりと描いて、そこからはみ出さないように、外から内へ筆を動かすのです」
出来ました。
教官に促されて覗き込んだ鏡には、驚くほど滑らかな肌と、はっとするほど艶やなかな唇の年若い女官の姿があった。自分のものとは思えないその顔に、姷明が呆然としていると、教官と鏡越しに目線が合う。彼女は一つ頷いたあと、不意に表情を引き締めた。
「――さあ、もう一度です」
教わった内容を何度も反復し、姷明は少しずつ、侍女としての技能を身に着けていった。
あの日以降、教官の指導は再び容赦がなくなったが、姷明自身が過剰な気負いから解放されたためか、今度はすんなりと頭に入っていく。
そして、講義開始から二旬近く経ったその日。ついに姷明は見習侍女として、沈貞花の殿舎への配属を告げられた。
貞花の紋の入った佩玉と女官服を手渡され、顔を輝かせる姷明に釘を刺すように、しかめっ面を作った教官が口を開いた。
「貴女はあくまで、まだ見習いです。ここで学んだことは、侍女の職務の基礎中の基礎。
……今後も三日に一度、夕餉の時刻から就寝直前まで、司率局での講義は続きます。覚悟しておくように」
承知しました、と美しく頭を下げてみせ、姷明は弾む気持ちのまま、半ば駆け足で自室に戻った。
宛てがわれたその部屋は、侍女見習や、司率局に異動して日の浅い女官が、複数で利用する場所だ。姷明は明日に備えて、早々と床についた。
明日、目が覚めたら、いよいよ沈貞花の侍女となる。
自室への帰り道で見上げた星明かりのように、その思いは姷明の心の中で強く煌めいていた。
翌朝、まだ夜が明ける前から起き出し、沈貞花の紋入りの女官服に着替えた姷明は、薄暗い司率局の廊下を用心深く歩いていた。
姷明の教官は公平な人物であったが、皇帝の渡りのない沈妃を軽んじている者は多い。その妃の引き抜きで司率局入りした姷明にも、冷ややかな目を向けてくる者はいた。
そんな輩に邪魔をされては困ると、姷明は周囲を警戒しながら歩を進める。さすがに、早朝から嫌がらせを仕掛けられることはなかったが、姷明は案内の宦官との待ち合わせ場所である小部屋に滑り込むと、そこでじっと息を潜めていた。
やがて、刻番が卯の初刻を告げる頃、初老の弛んだ顔つきの宦官が、億劫そうな動作で部屋に入って来る。司率局所属の内廷女官の監察や配置を担う、内律署の宦官だろう。
彼はぞんざいに姷明を見下ろし、面倒さがありありと滲む声で告げた。
「……司率女、喬 姷明だな。参るぞ」
普段なら、内心でむっとしていただろう高圧的な物言いも、今朝ばかりは気にならない。無言で頭を下げた姷明は、ブツブツと文句を呟きながら前を歩き出した宦官の背を追った。
宦官は、当然ながら下働き用の隘路ではなく、貴人付きの宦官や女官に許された道を進んでいく。ずっと遠目に眺め、縁がないと思っていた道を今、自分が歩んでいることが、姷明には信じられない思いだった。
洗濯物を届ける時には、あれほど遠く感じられた沈貞花の殿舎も、この道であればすぐに辿り着けた。
普段は訪問の合図を鳴らして、侍女か宦官を呼んでいるが、今朝は門の前に佇む人影があっあ。その影は、案内の宦官に気付くと、恭しく頭を下げる。
案内の宦官と同じ、紺青の衣を身に着けた年若いその宦官は、沈貞花付きの泥少監だ。
「新たに配属となった、女官見習を連れて参った。筆頭侍女を呼べ」
位階は変わらないであろうに、随分と横柄な物言いに姷明は驚く。だが、泥少監は慣れているのか、黙って再び頭を下げたあと、足早に殿舎に戻って行った。
その後ろ姿を睥睨しながら、案内の宦官が吐き捨てるように言った。
「……移民の奴隷ごときが」
彼は確かに、一目で異国出身と分かる外見をしているが、中級妃付きの少監という職にある以上、宦官のための学問所を、規定期間内に優秀な成績で卒業しているはずだ。
この国では、生まれが全てといっても過言ではない。制度の上では正式な手順を経て得た職も、異国人というだけで物言いがつく。
姷明が内心で嘆息していると、軽やかな足音が重い空気の中に響いた。姿を見せたのは楊氏だった。
彼女の姿を認めた初老の宦官は、咳払いとともに告げる。
「……本日より玻鏡殿に配属となった、喬 姷明を連れて参った。こちらが辞令だ」
先程の悪態が嘘のような穏やかな声とともに差し出された辞令を受け取り、楊氏はざっと目を通した。そのままにこりと微笑んでみせる。
「――確かに。朝早くから、ご苦労様でした」
そのまま姷明を促し、彼女はさっさと殿舎へと戻っていく。ぴしゃりと閉じられた門の向こうでまごついているであろう宦官の様子を、姷明が気にしていると、楊氏は肩を竦めて小さく笑った。
「賄賂か何かを、期待していたのでしょう。……さあ、沈妃様がお目覚めになる前に、一通りこちらの殿舎について説明します。まずは貴女の部屋からね」
ついていらっしゃい、と微笑む楊氏の後を、姷明は慌てて追っていった。




