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四.怒りと祈り

 主の居ない客間に、侍女がいつまでも(たたず)んでいることは出来ない。

 茶を片付けた(よう) 鵬杏(ほうあん)は、殿舎の端、女官たちの控室へと姷明(ゆうめい)を誘った。

 申し訳程度の小さな机と椅子が置かれた狭い部屋に足を踏み入れた楊氏は、入り口で所在なさげに黙り込んでいる姷明に苦笑を向けた。


「……貴女(あなた)が、自分で言い出したことよ。責任は取りなさい」


 姷明は目を見開いて顔を上げる。視線が合うと、楊氏は肩を竦めて姷明に椅子を勧めた。

 気まずい空気の中、身体を小さくして椅子に腰かけた姷明に、楊氏は主によく似た穏やかな声で語りかけた。


「――沈妃(しんひ)様は裏表のない方よ。自分の仕事に真面目に向き合っている相手は、きちんと尊重なさる。純粋な厚意で何かをしてくれた相手には、その気持ちに真摯に向き合おうとなさる。本当に潔い方なの。

……私達も、それを身に染みて理解しているから、先ほどの清娘(せいじょう)も貴女を引き留めたのよ。それは、誤解しないでいてくれると嬉しいわ」

「申し訳ございません……」


 姷明が理不尽に抱いてしまった怒りは、目の前の楊氏にも、先ほどのもう一人の侍女、(りゅう) 清娘にも、もしかしたら沈妃にも、伝わってしまっていたのだろう。長くなった宮城勤めの日々の中で、知らぬうちに増長(ぞうちょう)していた自分自身に気付き、姷明はきゅっと唇を噛み締めた。


 怒りはいつだって、姷明を突き動かし、身を守る力になった。両親への、自身を取り巻く環境への怒りが、彼女をここまで導いてきた。だが、その「怒り」で他者を(おとし)めたり傷つけたりすることは、決して望んでいないのだ。


 項垂(うなだ)れた姷明に優しく笑いかけ、楊氏は話題を切り替えた。


「それで、どうする? 宮城勤めを辞めて、沈貞花様の専属侍女となるか、司率局(しそつきょく)への異動を推薦していただくか。

……沈妃様の不吉なお言葉を肯定したくはないけれど、宮城では何が起こるか分からない。何かあった時の手段は残しておく方が良いと、私も思っている」


 先ほど楊氏は「中級妃以上の推薦があれば、司率局への異動は可能」と言っていたが、あれは姷明への配慮だろう。

 厳密には、「奴婢(ぬひ)や貧民階級の生まれではなく、親子三代にわたって身内に罪人がいない者であれば」という条件が付く。

 ただの下働きの下位女官と違い、侍女は、皇帝や皇族に見染(みそ)められれば側妻(そばめ)として取り立てられる可能性がある。そのため、胡乱(うろん)な身元の者は()かせられず、その立場も明確に区分される。姷明のような貧しい商家出身であれば、異動が叶うかは微妙なところだろう。


 もし異動が叶ったのち、仕える主の身に万が一何かが起これば、司率局の女官であれば他の殿舎に移るほか、外廷(がいてい)の各(ろう)へ移動することも可能だ。ただし、一人の妃に肩入れすることは許されず、命令が下れば、途中で仕える主が変わってしまうこともあり得る。妃に伴って後宮にやって来た専属侍女に、必要な知識を伝授するという名目で、共働(きょうどう)する形だ。

 一方、専属侍女として仕えれば受ける恩恵も多いが、主が後宮から退(しりぞ)く際には、後宮に居られなくなる。そうなれば姷明は、生きる術を失ってしまうだろう。

 また、司率局(しそつきょく)所属の侍女であれば、その給金の出処(でどころ)内廷(ないてい)と妃の扶持(ふち)の折半となるが、専属侍女の生活費はすべて妃の持ち出しだ。

 姷明の子どもじみた嫌がらせによって、このような事態になった以上、この先妃に掛ける負担は少しでも減らしたかった。


 姷明(ゆうめい)は覚悟を決め、顔を上げた。


「──司率局への異動を、希望します」

「そう。では、沈妃様にもそうお伝えするわ」


 こともなげに応じた(よう)氏は、「長く引き留めて悪かったわね」と微笑んで、音もなく立ち上がる。姷明も後に続きながら、先ほどから抱いていた疑問を思い切って彼女にぶつけてみようと思い立った。


「……楊老嬤(ろうま)。質問をお許しいただけますか?」


 老嬤は、上級女官や侍女、年長者に対する敬称だ。急に(かしこ)まった姷明(ゆうめい)を可笑しそうに振り返り、楊氏は首を傾げてみせた。

 姷明は意を決して口を開く。


「――(しん)貞花(ていか)様はなぜ、私のような者の言うことを、聞き届けてくださったのでしょうか」


 先ほど、楊氏が沈妃の人となりを聞かせてくれていたが、一介の洗濯女官である姷明にとって、妃は遠くから眺めるだけの存在だ。皇帝の中級妃が、姷明の働きぶりを知ってくれていたなどと思うのは、自惚(うぬぼ)れも良いところだろう。

 それとも彼女は、誰にでも手を差し伸べるような博愛主義者なのだろうか。それにしては、この殿舎に仕える人数は少ないが。

 真剣な面持ちで自身を見上げる姷明にふっと微笑み、楊氏は空を見上げた。


「そうね……。まず言うならば、皇女様が、貴女(あなた)と手を繋いで帰っていらしたと、清娘(せいじょう)からお聞きになったことが大きいんじゃないかしら。皇女様は物怖じなさらない方だけど、聡明で、誰彼構わず気を許されるようなことはしない。

……それから、自惚れでなければ、私があの場で異を唱えなかったことも、一因だと思う。貴女の仕事ぶりは、私も清娘も、よく見ていたから」


 そう語った楊氏の表情は、誇らしげに輝いている。


(羨ましいな……)


 姷明は、心の底からそう思ってしまった。

 宮城(きゅうじょう)恙無(つつがな)く運営するための、使い捨ての道具の一つとして扱われるのではない。これほど主に信頼されて働けるのであれば、どれほどのやりがいを感じられるだろう。


(どうか……異動が叶いますように)


 祈るように内心で呟きながら、姷明は沈貞花の殿舎を後にした。







 (しん)貞花(ていか)は早々に、司率局(しそつきょく)に掛け合ってくれたようだった。

 姷明(ゆうめい)の無理をあっさりと引き受けてくれたあの日から、わずか六日後。姷明には、司率局への異動と、侍女見習いとして沈貞花の殿舎に仕えるようにとの辞令が下った。

 突然の栄転の知らせに、司衣労(しいろう)の同僚たちが騒然(そうぜん)とする中、姷明は心を躍らせながら、急いで数少ない私物を纏めた。

 案内役である司率補(しそつほ)──司率局の第三層の位にある女官は、姷明を連れて足早に内廷(ないてい)に向かった。ちなみに、姷明は言うまでもなく、最下位である第五層の「司率(じょ)」だ。


 道すがら受けた説明によると、まずは司率局で侍女としての作法や、宮中行事についての基本的な講義を受けた後、沈貞花の殿舎での見習いが始まるということだった。

 司率局での講義の修了時期は、姷明次第。

 そのまま姷明の指導役となるという案内の女官の冷ややかなその言葉に、姷明の闘争心に(にわか)に火が着いた。

 先を行く女官の美しく伸びた背に向かって、姷明は挑むように告げる。


「……最短で終わらせてみせます」


 姷明の言葉に、斜め前を歩く女官は立ち止まり、驚いたような顔で振り返った。

 真っ直ぐに見上げてくる姷明をまじまじと見つめたあと、不意に女官は表情を緩めた。完璧な化粧のおかげで年齢不詳だと思っていたが、力の抜けた目尻には細かに皺が寄っている。実家の母と、同年代ぐらいであろうか。

 その目元を微かに綻ばせ、女官は口元に小さく笑みを浮かべて言った。


「心意気は買いましょう。──ですが、侍女に求められるのは、何よりも優美さと、主を立てる謙虚さです。この場合、用いるべき言葉は……」


 前に向き直った女官は、歩きながら『侍女の心得』を語り始める。姷明は慌てて袖から帳面を取り出し、彼女の教えを書き付けながら、その背中を追った。



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