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三.運命の出会い(後編)

 (しん)貞花(ていか)の電車の門の前で、姷明(ゆうめい)が訪問の合図の鈴を大きく鳴らすと、恰幅(かっぷく)の良い年嵩(としかさ)の侍女が姿を現した。

 人員の少ない沈貞花の宮では、婢女(はしため)もほとんど置いておらず、食事の支度や清掃以外のあらゆる業務を、彼女ともう一人の侍女で回しているそうだ。訪問の際には、軒先に置かれている鈴を鳴らすように言われている。

 彼女たち以外の従者は、貞花付きである宦官(かんがん)が一人のみ。その宦官も、弟子を取るほどの余裕がないそうで、門番は置けないと聞いていた。


「ご苦労さま」


 顔馴染みの姷明の姿に、その侍女さ気の良い笑顔を浮かべる。だが、つぎの瞬間、彼女の影に隠れてそっと顔を出している皇女に気付き、その場で動きを止めた。皇女と侍女の間で視線を何往復かさせたあと、姷明は恐る恐る、侍女に声を掛けた。


「近くの庭園で、迷子になっておられたようでしたので……。あと、洗濯物を届けに参りました」

「まあまあ、それは……。どうもありがとう」


 人懐っこい笑顔なのに、妙な迫力がある。


 皇女に左手を掴まれているままだったので、姷明は無作法を()び、冷や汗をかきながら片手で荷を渡した。

 にこやかに荷物を受け取った侍女は、洗濯物を胸の前で抱え、姷明の影から出た皇女の前にゆったりとしゃがみこむ。上目遣いに自分を見上げる皇女に、彼女はにっこりと微笑んだ。


「……あとでお説教ですからね、皇女様」


 昭瑶(しょうよう)皇女は口元をぎざぎざに歪めていたが、やがてしょんぼりと俯き、小さく「ごめんなさい」と呟く。

 その様子を受けて、仕方がないとばかりに苦笑した侍女は、ようやく姷明の手を離した皇女の汚れた手を躊躇いもなく優しく握る。立ち上がりざま、彼女は姷明に微笑みかけた。


「沈妃様に報告をしてまいります。ここで少し待っていてちょうだい」

「え、あの」


 戸惑う姷明の左手に目をとめ、侍女は穏やかな声で言った。


「どのみちその手、洗わないとでしょう? 他の殿舎にはこのあと寄るの?」


 そう言われて、改めて姷明は自身の手を見下ろす。乾いた灰色の泥が掌にこびりついていた。姷明はばつの悪い思いで応じる。


「いえ、こちらが最後です……」

「そう。なら悪いけれど、少し付き合ってね」


 パタパタと軽い足音を立て、侍女は皇女を連れて姿を消す。姷明は小さく溜息を吐いた。



 沈貞花か皇帝陛下に忘れ去られた妃嬪(ひひん)だと言うのは、下級女官の間でも広く知られた事実だ。この侍女は、「皇女を助けた女官を手厚くもてなした」という美談を仕立てあげ、主が皇帝陛下の気を惹くきっかけを作ろうとでも考えているのだろうか。姷明にはそれ以外に、引き留められる理由が思い当たらなかった。

 そんな茶番に付き合わされるのでは、たまったものではない。やはり彼女たちも、下位女官など「自身を引き立てるための道具」としてしか見ていないのだろうか。




 所在なくその場に(たたず)んでいると、濡れた手ぬぐいを手にした、別の侍女がやって来た。沈貞花が皇太子の側妃であった時分から、彼女に仕えているというその妙齢の侍女は、柔和な微笑を浮かべ、その手ぬぐいを姷明に差し出す。

 礼を述べて受け取り、左手を清めた姷明(ゆうめい)は、伺うように彼女に声を掛けた。


「あの……」

「お茶の支度が整ったわ。どうぞ、上がってちょうだいな」


 やはり、このままこの場を辞すという選択はさせてもらえないようだ。姷明は溜息をつき、彼女の後に続いた。






 てっきり、侍女たちの控室に通されるのだろうと思っていたが、通されたのは品の良い調度品に飾られた、小さな客間であった。施された細工は精緻(せいち)で、使い込まれた家具は重厚な(あめ)色に輝いている。


 奥の椅子に腰かけていた女性が立ち上がったのを見て、姷明は慌てて姿勢を低くした。


 すっきりとした鼻筋に、切れ長の瞳の涼しげな印象を与えるその女性は、思いがけず柔らかな笑みを浮かべた。席に着くよう穏やかな声で姷明に告げ、自身もゆったりと腰を下ろす。

 恐る恐る腰を落ち着けた姷明に、その女性――(しん)貞花(ていか)は、にこりと微笑みかけた。


「娘を助けてくれたそうですね。どうもありがとう」


 女性にしては低い、落ち着いた声で告げた妃は、目を細めて続ける。


「ぐっすりと昼寝をしていたから、私も侍女たちもつい、目を離してしまって。貴女(あなた)昭瑶(しょうよう)を連れて来てくれた時に初めて、部屋を抜け出していたことに気付いたの。……肝が冷えたわ。本当に感謝している」

「め、滅相もございません……」


 まさか妃直々に礼を言われるとは思っておらず、姷明は恐縮しきって頭を下げた。

 いち女官を客間にあげる妃など、普通はいない。このような場でどう振る舞うのが正解なのか、言葉遣いに間違いはないか、不安のあまり姷明は震える拳を握り締めていた。

 がちがちに固まっている姷明を不思議そうに見やり、沈貞花は、傍らに控えた妙齢の侍女に目線を向ける。茶を(きょう)し終えた彼女は、心得たように一つ頷き、姷明に向き直った。


「沈貞花様は、今回のことに関して、貴女に褒美(ほうび)を取らせたいとおっしゃっています。何か、望むものはありますか?」


 その言葉に、緊張に凝り固まっていた姷明(ゆうめい)の心は、不意に音を立ててひび割れた。


(やっぱり……)


 迷子を助けた程度でこの厚遇は、常識的に考えてあり得ない。やはり先ほど考えた通り、この機会を利用し、「子思いの母」、「下々の者に対しても寛容な妃」という虚像を周囲に売り込もうとする算段にしか思えない。姷明は一気に白けてしまった。


 いくら忘れられた中級妃とはいえ、直接褒美を(たまわ)ったとあっては、周囲は姷明を、沈妃(しんひ)派の人間であると見なす。沈妃を嫌っている妃や、有力な女官たちの派閥に属する者からは、下らない嫌がらせを受ける羽目になるだろう。

 そういった争いに関与しない下級女官たちからは、「自分たちと同じ立場のくせに、ずるい」と、()らぬやっかみを持たれる。

 真面目に仕事をこなし、誰にも肩入れしないことで保ってきた姷明の平穏は、浅はかな妃の見栄によって崩れ去るのだ。


 半ば自暴自棄になった姷明(ゆうめい)は、相手が絶対に応諾できないであろう「望み」を口にしてやろうと決めた。伏せた顔を上げ、正面の沈妃の顔に真っ直ぐ目線を据える。



「それならば──私を侍女にしてください」



 沈貞花と侍女は、驚愕(きょうがく)したように目を見開いた。





 ほら見ろ、と姷明は内心で吐き捨てる。

 菓子や布切れ程度で、十分だと思っていたのだろう。見栄を張ろうとするから、このような無礼なことを堂々と口に出されるのだ。


 叱責されるか嘲笑されるか。相手の出方を窺う姷明をしばらく無言で見詰め、沈貞花はおもむろに口を開いた。



「……鵬杏(ほうあん)。侍女って、どうやったらなれるの?」


 さばけた口調で尋ねる主に、鵬杏と呼ばれたその侍女も、あっさりと答えた。


司率局(しそつきょく)の所属女官として配されるか、沈妃様が自らお召しになるかですわ。宮中の規則では、中級妃以上の御身分の方が推薦なされば、同局への異動は叶うそうです。

……その場合は、推挙(すいきょ)なさったお妃様の宮に配属されることが一般的ですね」

「そうなの」


 当たり前のように答えた侍女に軽く頷き、(しん)貞花(ていか)は、唖然(あぜん)としてやり取りを聞いていた姷明(ゆうめい)に向き直った。


「どっちが良い? 私としては、私が何かやらかしてここを追い出される可能性も考えると、司率局に所属した方が良いと思うんだけれど」


 あっけらかんと告げる沈妃に、隣に立つ鵬杏と呼ばれた侍女は、「縁起でもないことをおっしゃらないでください」と顔を(しか)めている。しかしあくまで、姷明を侍女として受け入れようとする沈貞花に、何かを言うつもりはないようだ。

 そうしてその侍女は、呆然と固まっている姷明に苦笑し、沈貞花に助言した。


「そのようなおっしゃりようでは、彼女も決め辛いかと。私が詳しく話をしますわ。……そろそろ清娘(せいじょう)のお説教も終わった頃でしょうし、皇女様の顔を見に行かれてはいかがでしょう」

「そうだね、お願い」


 軽く告げて、沈貞花は立ち上がった。慌ててぎこちなく頭を下げた姷明に手を振り、彼女は扉の奥に消えた。


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