二.運命の出会い(前編)
ままならない人生への怒りをひた隠し、姷明は与えられた洗濯女官としての職務に没頭した。
容赦ない真夏の日差しで肌は焼け、凍るような真冬の水に数え切れないほどのあかぎれが出来たが、泣き言一つ漏らさなかった。
こんな風に生きることしか出来ない自分の身上や、生まれ育ちが全てだというこの国の制度。
たまたま良い家に生まれついたというだけで、地べたを這いずる姷明たちを嘲笑する、雲の上の立場である上級女官たち。
自身も姷明たちと同じ立場でありながら、憂さ晴らしのように下位の者たちをこき使い、いびり倒す上官たち。
あらゆるものに対する怒りを指先に込め、丹念に丁寧に、姷明は来る日も来る日も黙々と衣を洗い続けた。
転機が訪れたのは、出仕から一年と半年後。蒸し暑い、蘭月の終わり頃のことだった。
寡黙さと真面目な仕事ぶりを評価され、姷明は、ほんの僅かではあるが、出世が決まったのだ。姷明は、一番の苦行である洗濯を免除されることになった。
乾いた衣類を回収し、内廷の各所 に届けるのが、彼女の新たな役割だった。幾人かの同僚と手分けして荷物を届けたあと、その場で洗濯や修繕が必要な衣類を受け取り、司衣労に持ち帰る。
届け先で気の良い侍女に当たれば、休憩に誘ってもらえたり、駄賃として菓子などをもらえたりするので、下位女官の中では人気の役職だった。
叩き込まれた道順を慎重に歩き、姷明は後宮の様々な殿舎に、衣類を届けて歩いた。
下げ渡された菓子は丁重に礼を述べて受け取り、持ち帰って同輩や上官たちに分け与えた。姷明の株は更に上がった。
周囲への媚びや、博愛の精神からの行動ではない。姷明は単純に、腹を立てていただけだ。
菓子をくれた侍女たちは、必ずしも姷明の働きぶりに感心していたのではない。
それはまるで、仕込まれた芸を披露した珍獣に褒美をやるような、残酷なまでの上から目線の施し。
あるいは、自分の主の気前の良さと、自分が仕える宮の隆盛の喧伝のための、演出に過ぎなかった。
理解していたから、姷明もそれを自身のために利用したに過ぎない。
そして、それ以上に、下位の女官に対して、意地の悪い侍女は多かった。
洗濯物は紛れないよう、殿舎ごとに一纏めにして軽く紐で縛られ、各宮の紋を付けられる。腕の中の荷物を見た妃嬪に命じられた女官に、後ろから突き飛ばされたり、足を引っ掛けられたりするのは、もはや日常茶飯事だった。
衣を汚せば、叱られるのは運んでいる姷明たちだ。洗い直しになれば、余計な仕事を増やしたと自分より下位の者たちに睨まれる。一度派手に転ばされて以降、姷明の足取りはより慎重になった。
そんな日々の中、唯一気が休まったのは、崔貞容と沈貞花の殿舎の荷を運んでいる時だった。
中級官僚家の生まれの彼女たちの宮には、庶民的な侍女が多い。衣服を届けに行っても、あからさまな嫌がらせを受けたり、露骨に媚びられたりすることがなかった。
皇帝の渡りも少ない──沈貞花に至っては、皇女を授かった後、一度も夜伽をしていないそうだ──妃たちなので、他の宮の女官からちょっかいを出されることもなかった。侍女たちは淡々と荷を受け取り、無駄口を叩かず姷明を解放してくれた。
「吝嗇」と馬鹿にする同僚も多かったが、姷明には有難い届け先だった。
夏の終わりから毎日毎日衣を運び続けて、洗濯女官には何よりも辛い冬を何とか乗り越えた、春の頭。
十五歳になっていた姷明は、その日、沈貞花の殿舎の衣を足早に運んでいた。
中級妃の最下位である彼女の殿舎は、下級妃の宮にほど近い区画に立つ。そのすぐそばには、目立つ花々もなく、手入れの行き届いていない小さな庭園があった。
下級女官に許された庭園の脇の道を慎重に通り抜けていた姷明は、草陰にしゃがみ込んだ小さな影に気付き、ふと足を止めた。
(……子ども?)
地味だが、作りの丁寧な衣に身を包んでいたのは、まだ幼い子どものようだった。日も暮れかけたその折、供も連れず一人で、真剣な面持ちで小さな右手を汚しながら、草を一心不乱にかき分けている。その袖に施された紋の刺繍に気付き、姷明は目を瞬かせた。
(皇女の紋……。もしかして、この近くに住まう、沈貞花のご息女?)
確か、昭瑶皇女といっただろうか。
皇女がこんなところで、一人で何を。姷明は慌てて、少女のもとに駆け寄った。恐る恐る背後から声を掛ける。
「皇女……様? あの、こんなところで何を……」
「あなたは、このあたりにはくわしいですか?」
勢いよく振り返った少女は、姷明の緊張などものともせず、幼い口調で尋ねてくる。そして、その少女は、膝に載せていた書物を両手で姷明に差し出した。泥汚れを気にしてか、右手は袖に隠して、布越しに書物を掴んでいる。
(図鑑……?)
それは、植物の姿と詳細の解説が記された図面であった。
少女が開いて差し出してきた頁に描かれた植物に、姷明は目を凝らす。
「緑瑛草……?」
「とてもめずらしい、あざやかな青にそめられる草なのだそうです。さがしています」
頬を赤らめ、鼻息も荒く語る少女を見下ろし、姷明は大いに困惑した。
母妃の沈貞花は、宮城一の変わり者として知られているが、その娘も同様なのであろうか。
顔のあちこちに泥汚れをつけ、大人びた切れ長の瞳を爛々と輝かせている。その勢いに気圧されたように、姷明は視線を泳がせた。
「緑瑛草は、この皇都では育たたないはずです。もっと、寒冷な地域でないと……」
「そうなのですか……」
姷明の返答に、いかにも残念そうに呟き、皇女はふと首を傾げた。
「――ところで、ここはどこですか?」
姷明はがくりと項垂れる。
ここは、沈貞花の殿舎のすぐ近くの庭園だ。珍しい植物が生えていないかと、あちこち寄り道し歩き回っているうちに、方向感覚を失ったのだろうか。
厄介ごとに巻き込まれるのは御免だったのだが、そうはいかなくなってしまった。彼女一人で殿舎に戻ることは、どうやら難しそうだ。
姷明は、手に抱えた洗濯物に下げられた札を掲げて見せた。
「御母君の沈貞花の宮に、洗濯物を届けに参りました。……よろしければ、殿舎までお供いたします」
昭瑶皇女は、ぱちぱちと目を瞬かせている。再び首を傾げて何事かを考えたあと、皇女は不意に満面の笑みを浮かべ、泥だらけの右手を伸ばしてきた。
「おねがいします」
きらきらと輝くその瞳に、姷明は内心で溜息を吐いた。両手は洗濯物で塞がっている。
(非常事態だったと、言い訳は通るだろうか……)
自身の身体に汚れがないことを確かめ、姷明は、紐で纏めた洗濯物を右脇に抱えた。
皇女が小さな左手で胸元に抱える植物図鑑も、本来であれば、姷明が持つべきなのだろう。申し訳ないが、この状況では自分で持っていてもらうしかない。
姷明は覚悟を決めて、皇女の小さな右手を、そっと左手で捧げ持つように取った。
昭瑶皇女はその手をぶんぶんと振りながら、元気よく歩き出す。
慌てて足を動かして歩調を揃え、姷明は暗さを増しつつある細道を急いだ。




