十八.解放、そして決断
長く続く過酷な取り調べの果てに、侍女たちの中には、精神を病む者も出てきた。
二年前、司率局に配属された直後に澄蘭公主付きとなった、一番年少の侍女の正気がまず、最初に怪しくなった。
彼女は軟禁部屋の片隅で、壊れたように日夜、何かを囁き続けている。その口元に耳を寄せ、姷明は瞑目した。
「おねがいしますいえにかえらせて……わたしはなにもしらないかんけいない……たすけておとうさまおかあさまもうなぐらないでもういや……」
実家が中級官僚で、後宮には良縁を得ることを求めて親が送り込んだと、いつか恥ずかしげに笑っていた少女だ。
食事をとることも出来なくなり、幽鬼のように痩せ細り、ぼさぼさの髪を振り乱す彼女の世話を、姷明は黙って焼き続けた。
残りの三人も、些細な物音で飛び起きたり、日に一度の粥を飲み下すことも出来ず、嘔吐するなど、日に日に心身を弱らせていく。
精神に異常を来たした娘の発する言葉に涙を零したり、突如激高して暴れ出す者もいた。
その度に姷明は骨の浮いた背をさすり、震える身体を抱き締めながら、じっと宙を睨み据えていた。
そうして、冬の間中軟禁され続けた彼女たちは、春を目前にしたある日、突如解放された。
精神を病んだ侍女は数日前、弱った身体が冬の最後の名残の極寒に耐え切れず、粗末な藁の寝具の上で冷たくなっていた。
耐え抜いた残りの者も皆骨と皮ばかりになり、中には凍傷で足指を腐らせたり、取調官に殴られた際に当たり所が悪かったのか、片目の視力を失った者もいた。
幾度も殴られ、顔中痣だらけになったものの、五体満足で外に出られただけ、姷明は幸運だった。
彼女たちは、垢じみて薄汚れた姿のまま、牢の外に放り出されて呆然としていた。
傍を通りがかった最下位の宦官や婢女ですら、すえた臭いを発するボロボロの侍女たちを、塵でも見るかのような目を向けて通り過ぎていく。
足の指が幾つか欠損し、満足に歩けなくなっていた一人の侍女が、地面にへたりこんで泣き出した。つられるように、残りの二人もその横に膝をついて、嗚咽を零す。
姷明は黙って、三人の肩を代わる代わる抱き締めた。胸に縋り付いてきたその内の一人、幽氏付き時代からの同輩の背を、懸命に宥める。
女たちの泣き声に混じって、不意にいくつかの足音が響いた。
はっと息を飲んで姷明が振り返ると、そこには、痛ましそうに顔を歪めた、崔媛儀の侍女の姿が複数あった。
彼女たちは清潔な衣を差し出しながら、静かに微笑む。
「――翠流殿に戻って手当てを受けるようにと、媛儀様から言付かっております。まずは、湯で身体を温めましょう」
立てますか、と差し出された手を見つめ、姷明の瞳にもようやく涙が浮かんだ。
脂で固まった髪を丁寧に洗い流し、身体の隅々に入り込んだ垢を、何度も肌を擦って落とす。
温かな湯と柔らかな布、何より清潔な新しい衣は、姷明たちの心を優しく癒してくれた。
崔媛儀は特別に内廷医を呼んでくれており、姷明は恐縮しながら手当を受けた。痣はいくつかは残るだろうが、ゆっくり食事をとっていけば、体力は回復するだろうとのことだった。
けれど、残りの三人、特に凍傷で指を腐らせてしまった者と、片目の視力を失ってしまった者は、宮仕えを続けることは難しいとの診断だった。
彼女たちの身柄は、体調が幾らか落ち着いた直後、家族が引き受けて行った。
後のもう一名、かつて姷明と共に幽氏に仕えていた侍女は、体力がどれだけ戻るかによるとのことだ。
「もう少しここで身体を休めて、ゆっくり今後のことを考えなさい」
崔媛儀は二人に、温かな言葉を掛けてくれた。
七日ほどの療養を経て、起き上がれるようになった姷明は、崔媛儀の筆頭侍女に呼ばれ、媛儀の侍女たちの控え部屋に腰を下ろしていた。
彼女は、崔妃が貞容として入内した頃からの筆頭侍女で、崔媛儀の信頼の篤い人物だ。
暖かな茶を姷明に供した筆頭侍女は、まずは姷明を柔らかな声で気遣ってくれる。
「……具合はどう?」
「お陰様で、この通り問題ございません。崔媛儀様には格別のご配慮を賜り、また皆様にも多大なお気遣いをいただきましたこと、改めて御礼申し上げます」
かしこまってお辞儀をする姷明に頷き、彼女はやがて姷明が頭を上げるのを待って切り出した。
「今回のことは、温家の台頭をよく思わず、また、かつて温家によって罪を暴かれた一族が、彼らに復讐することを企んで起こしたそうよ。
真相を見抜かれた陛下が下手人を既に処分し、国賊とされた温家の身分は回復された。
……澄蘭様は、その騒動に巻き込まれてしまっただけ。飢えに苦しむ貧民を思うあまり、不用意に行動を起こされ、付け込まれたとのことだったわ。――貴女たちも、災難だったわね」
優しく労ってくれる彼女にぎこちない笑みを浮かべ、姷明は曖昧に笑った。
しかし、すぐに真顔に戻り、身を乗り出して尋ねる。
「あの、澄蘭公主様は今……?」
「そうそう。その話もしなくてはね」
困ったように右手を右頬に当て、彼女は眉を曇らせながら首を傾げた。
「実は先程、宮城内に通達があったわ。今後の友好の証にと、隣国が降嫁を求めていて……。それに、澄蘭公主様が名乗りを上げられたの。
皇帝陛下は、『婚約者の遺志を継ぎ、両国の平和的交流に尽力したい』という公主様の願いをお聞きになり、それをお認めになったそうなの。……出立は、二旬ほど先よ」
「そんな……!」
何がなんだか、姷明には急転した事態がまるで理解出来ない。
あれほど、その罪は確定しているとばかりに自信ありげだった宦官たち。彼らが姷明たちに課した過酷な取り調べは、いったい何だったのか。それに何より、疑惑を一身に集め、婚約者を亡くした公主が一転、両国の仲立ちのために隣国へ出立するなど、訳が分からない。
この騒動は何だったのか。誰が考え、誰が演じ、誰が途中で覆したのか。
そしてそれ以上に、澄蘭公主があとわずか二旬で隣国へ旅立たれてしまうことに、姷明は動揺していた。
姷明は、血相を変えて叫ぶように尋ねた。
「どなたか……どなたか、公主様に随行なさるのですか!?」
「実は、それも通達の中に含まれていたの。今回、色々あったから……侍女として随行を申し出る者がいれば、その者を優先にするって。道行きの警護の武官と違って、随身はまず帰って来られないでしょう? だから……」
気まずい表情で、崔媛儀の侍女は視線を卓の上の湯呑に落とした。
元々人、望があったとは言い難い澄蘭公主だ。
更に、この度の騒動を受け、娘を宮中に出仕させている貴族たちが、実態も分からない異国への随行を認めるとは思えない。彼女たちは、掌中の珠であると同時に、政略や立身出世のための重要な道具だ。
侍女は、目を伏せたまま小声で続ける。
「もし随身に名乗りをあげるのであれば、司率局へ申し出るようにとのことだったけれど……」
姷明はその言葉に、じっと宙を見据えて黙り込んだ。




