十六.悪夢の再来
底なし沼に全員で足を取られていくような、重苦しく無為な日々の中。
降って湧いたように唐突に、澄蘭公主に縁談話が持ち上がった。
相手は、礼の長年に渡る食糧不足問題の解決の糸口とするべく、隣国・錚雲との国交を実現させた若手官僚、温 遠珂だという。
温家は建国以来の由緒を持つものの、隣国に起源を持ち、降嫁を賜れるほどの身上ではない。それでも、この度の件の褒賞にと、皇帝陛下の一声で決定した縁組だった。
澄蘭公主の周囲は、皆の憧れの的の琴華公主よりも先に縁談が纏まったことに驚愕し、その相手が一風変わった経歴の持ち主であることに安堵し、嘲笑した。澄蘭公主自身も、青天の霹靂である婚姻話に戸惑い、相手との距離を測りかねているように見えた。
そんな中、今までほとんど交流を絶っていた第二皇子の穏翊殿下――かつての熙衡皇子が、澄蘭公主に近付いてきた。
姷明は、言いようのない不安を覚える。
彼はかつて、澄蘭公主のことを「女の嗜も理解出来ない、論外の存在」だと、陰で酷評していたはずだ。
しかし、不意に澄蘭公主の前に現れた皇子は、彼女が難解な学術書に熱心に目を通している様を、肯定するような素振りを見せた。
年齢を重ね、宗旨替えをしたのだろうか。
いや、十を幾らか過ぎた子どもが、あれ程に明確な言葉で、理想の女性像について口にしていたのだ。そんなに簡単に主張を変えるとは、姷明には信じられなかった。実際に、彼の理想に叶ったであろう行氏の令嬢が自死した六年前、皇子の取り乱しようは、後宮の片隅にいた姷明ですら耳にした程だ。
(何を、企んでおられるの……?)
いやに親密な様子で言葉を交わす皇子と澄蘭公主の間に、姷明は眉目秀麗な彼に熱を上げる女官の一人を装って、割って入った。皇子は礼儀のなっていない侍女に、冷ややかな笑顔で対応し、去っていく。
姷明が、かつては母妃の遠縁にあたる幽氏の侍女をしており、度々皇子との交流の場の隅にいたことには、気付いていないようだった。
警戒する姷明の心を知らず、澄蘭公主は瞬く間に、義兄の穏翊殿下に傾倒していった。
まさか義兄妹である以上、胡乱な関係に陥るはずはないが、婚約者である温忠業よりも遥かに親密な空気感で、義兄を迎える澄蘭公主は、また悪い意味で周囲の耳目を集めた。
憧れの貴公子と、これまで馬鹿にしてきた冴えない公主が近付いていく様に、後宮の若い女たちは、更に苛立ちを募らせた。
今日も飽きもせず、仕事を終えたあとの控え室で、同僚の侍女は澄蘭公主を扱き下ろす。
「穏翊様はお優しいから、どんくさい義妹を哀れんでらっしゃるんじゃないの?」
「――ねえ、姷姷はどう思う?」
同意を求めて、姷明に水を向けた同僚の一人に、姷明は束の間逡巡した。
不敬だと咎めたり、分からないと逃げることは、出来そうにない雰囲気だった。姷明は袖の中でぐっと両の拳を握り締める。
「何か勘違いをしてるんだと思うわ。……女として評価されない公主に、穏翊殿下が目をかけるはずないもの」
誰の、何の勘違いか、とは、言わなかった。
礼国の伝統の女性らしさを重視する皇子が、対局に位置すると目される公主に近付くのには、何か思惑があるはずだ。
姷明の本心はそこにあったが、侍女たちは「女として評価されない」という部分にのみ反応し、笑い転げる。
盛り上がる集団を後目に、姷明は「疲れているから」と断って、重い身体を寝具に横たえた。
部屋の外で、床の軋む微かな音が聞こえた気がしたが、確かめに行く気力すら残っていなかった。
翌朝、いつもの時刻を過ぎても、澄蘭公主が起き出してくる気配はなかった。
今日は、婚約者である温忠業との面会が予定されている。近頃、彼と会うことを、澄蘭公主も楽しみにしている様子だったので、支度にも公主の意向を確認しながら、時間を掛けた方が良いだろう。
そう判断した姷明は、部屋の外から声を張り上げた。
しかし、室内の空気はしんと静まり返っている。
(まさか……)
姷明は、血の気を引かせる。
十年前のあの日。前日まで元気に過ごしていた沈貞花は、突如体調を崩し、そのまま病に斃れた。当時の様子が姷明の頭を過ぎり、心臓が音を立てて脈打つ。居ても立ってもいられず、姷明は澄蘭公主の部屋へ駆け込んだ。
衾を無理矢理にめくると、澄蘭公主は真っ赤な顔を苦しそうに歪めていた。
発熱、それもかなり高い熱に苦しんでいることは明白だった。
「……すぐに、医官を呼んでまいります」
慌てて踵を返した姷明の背中に、鋭く尖った声音が叩き付けられた。
「放っておいて」
驚いて振り返った姷明を、身体を起こした澄蘭公主が昏い瞳で睨み付けている。その目に浮かぶのはいつもの疑心暗鬼ではなく、もっと激しい憎しみや反感だった。その瞳のあまりの迫力に、姷明は息を飲む。
(まさか……昨夜のあの音……。聞いて、いらしたの……?)
あれは、思わず身体に力が入り、床が軋んだ音だったのか。力が入ったのは、侍女たちの姦しい悪口を、姷明の自己保身のための曖昧な発言を、部屋の外で耳にしたから──
よろめきながら、姷明は、澄蘭公主の部屋を出る。取り返しのつかない、決定的な亀裂が公主との間に生じてしまったことに気付き、呆然としながら。
澄蘭公主の様子が、日に日におかしくなっていく。
侮りの態度を隠さない侍女、彼女たちに混じって思慮の足らない言葉を発した姷明だけでなく、養母の崔媛儀、義姉の琴華公主にまで、拒絶の対象が拡大して行った。
そしてついには、婚約者である温忠業との間にすら、隙間風が吹き始めたように見えた。
対照的に、義兄の穏翊殿下には、もはや依存に近いような親密さを見せていく。
二人は数日おきに顔を合わせ、どこかに消えて行った。姷明が、行く先を皇子の近侍にどれほど問おうと、答えはいつも「答えられない」、「知らない」のみ。婚約者を持つ女性としては、非常に危険な行動だった。
何かがおかしい。
そう思うのに、明確な根拠はなく、信用も何もかも失くした姷明に、出来ることなどない。
そうしてついに、あの日が来てしまった。




