十五.失望の再会
澄蘭公主付きとなった侍女たちは、まずは殿舎の主である、崔媛儀へ挨拶に向かった。
柔和な面差しに滲んだ陰が、何とも言えない魅力と危うさを感じさせるかの妃は、「あの子をよろしくお願いします」と、静かな声で告げた。
鼻白む同輩たちを横目に、姷明は深く頭を下げる。
侍女たちをここまで率いてきた案内役の宦官は、崔媛儀の前ではへりくだっていたが、彼女の侍女の先導で澄蘭公主の自室へ向かう頃には、露骨にやる気のない表情を見せていた。
中級妃の最上位である、媛儀の翠流殿は、姷明が長年勤めた玻鏡殿と建物の構成は同じであるものの、ほぼ倍近くの広さだ。
身綺麗な婢女が、丁寧に庭や廊下を掃除し、いかにも優秀そうな侍女たちが、隅々にまで目を凝らしている。
間もなく辿り着いた、澄蘭公主の部屋だという場所も、廊下や建具が美しく磨き上げられ、清潔な雰囲気が保たれている。姷明は安堵した。
案内の侍女が部屋の外から声を掛けると、しばらくして、細い声が扉越しに応えた。
「……どうぞ」
入室を促すその声に、宦官が扉を開けて部屋に入っていった。喉から心臓が飛び出てきそうな緊張とともに、筆頭侍女の位を賜った姷明が、その後に続く。役目を終えた案内役の侍女は、黙礼と共にその場を去った。
澄蘭公主は部屋の奥で、こちらに背を向け、書物に目を通しているようだった。
机や床の上には、数多の書物や書巻が積み上がり、その無秩序さに皆が閉口する中、姷明は懐かしさに目を潤ませていた。
(沈妃様……)
彼女の母の部屋も、侍女が片付けたそばから書物に侵食され、至る所で雪崩を起こしていた。当時、同じように書物を愛する皇女の部屋だけは死守しようと、清娘が躍起になっていたが、やはり血は争えないのか。
やがて澄蘭公主は書物を脇に起き、ゆっくりとこちらを振り返る気配を見せた。
宦官は、両手を胸の前で重ね頭を下げる揖礼を、姷明たちは、腰に両手を添えて膝を折る万福を行いながら、公主の言葉を待った。
「……顔を上げてください」
淡々とした声音に頭を上げると、八年ぶりに間近に見る公主の顔がそこにあった。
呼吸が止まりそうになる。
幼い頃の面影を残しながらも、端正な面差しの美しい少女に育った姫君は、じっとこちらを見つめていた。
涼やかな切れ長の瞳や、すっと通った鼻筋は、母である沈貞花によく似ていた。だが、鋭さを感じさせた沈妃とは違い、どこか古風な淑やかさを纏う、深窓の令嬢といった印象だ。
ひたすら黙り込んでいる公主に、宦官が舌打ちしたのを、姷明は聞き逃さなかった。彼は無礼なほどの慇懃な口調で、口上を述べた。
「澄蘭公主様におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。
……いやはや、凡人には理解出来ない難読本も、たちどころに読み解かれてしまうと噂に聞く、ご聡明な公主様にお目にかかれて、恐悦至極に存じます」
分かりやすいほどの見事な嫌味であったが、澄蘭公主は口元を歪めるような笑みを浮かべ、謙遜の言葉を返した。
それを耳にした侍女たちは一斉に俯き、忍び笑いを漏らし始める。
戸惑ったように澄蘭公主が視線を彷徨わせると、その笑いはいよいよ無視できない大きさになり、堪らず姷明は無礼を承知で、一歩前に踏み出した。
卑屈な色を帯びていた澄蘭公主の視線が姷明に留まり、彼女は警戒した様子で尋ねた。
「……貴女は?」
「公主様の筆頭侍女を拝命しました、司率局の連、喬 姷明と申します」
(今までどんな思いで過ごされてきたのか……、強いられたであろう辛苦を労いたいと思うのは、不敬だろうか。
今は、どんな本を読まれているんだろう。
かつてのように、「姷姷」と呼んでくださるだろうか)
頭の中で渦巻く思いを押し止め、緊張で掠れた声で姷明は名乗る。
しかし、澄蘭公主は淀んだ目で、無感動に姷明を見た。
「……初めまして。よろしくお願いします」
乾いた声が告げたその言葉に、姷明は息が止まりそうになった。
(覚えていて……くださらなかった……)
冷静に考えれば、当時七つだった子どもが、たった二月あまり共に暮らしただけの侍女を覚えていないのは、当然のことだった。
あれから八年も経っている。母を亡くした衝撃と混乱で、前後の記憶があやふやになることも有り得るだろう。
しかし、この時姷明を襲ったのは、言いようのない悲しみだった。
再会に浮き足立ち、何を伝えようと考えていた想いが、裏切られたような感覚。
否、それ以上に、この八年ずっとその身を案じ、悩み続けた時間が全て無駄だったという、途方もない徒労感が、姷明の気負いも矜持も粉々に叩き壊していた。
姷明の全身を、覚えのある苛立ちが襲う。
ままならない人生の中、それでも自分を守るため抱き続けた怒りが鎌首をもたげ、じわりと澄蘭公主へと向かっていく。
古い思い出に拘っていたのは自分だけだと突き付けられた、羞恥心、やるせなさ、虚しさ。怒りに紛れたそれらは、「報われたかった」という、姷明の甘えに他ならない。
自覚してもなお抑えきれない感情にかき乱され、姷明はきつく目を瞑って、頭を下げた。
「──よろしくお願いいたします、公主様」
自分が発したとは信じられないほど、冷えた声だった。
澄蘭公主は、悪い意味で噂どおりの、人付き合いの難しい少女だった。
母を亡くした直後に拠り所となるはずだった崔妃とは、彼女の懐妊時の療養と命懸けの出産、生まれた皇子の病弱さのため、何年も引き離されて育ったのだという。その不幸には、姷明も心を痛めた。その間に幼い皇女を襲った悪意に負った心の痛みは、姷明にも、痛いほどに想像出来る。
それでも。
(公主様は……あの方の血を引く娘なのに……)
沈貞花だって、心無い嫌味をぶつけられることは多々あったが、毅然と背筋を伸ばして一顧だにしていなかった。
澄蘭公主と同じく、女性の嗜みとされる芸事は苦手としていたが、それでも、宮中行事に備えて自分なりに努力していた。自分にない才を持つ相手を素直に賞賛し、努力する者を心から讃えた。
澄蘭公主の傍に控える間、どうしてもかつての主と比較してしまうのを、姷明は止められなかった。
成人した皇族として、出席を義務付けられた行事以外には、ほぼ自室で書物を読み耽る毎日。
他者との接触を煩わしがる一方で、気安い雰囲気で盛り上がる集団を、羨ましそうに眺めている。
姷明が、不敬ながら第三皇子の心境を案じてしまうほど、養娘を気にかけている崔媛儀の目には気付かず、分かりやすく仲睦まじい王雅妃母子を、妬ましそうに見つめている。
常に人に囲まれていながらも、一人きりでいる義妹を案じ、輪に引き込もうと気遣う琴華公主を、嫉妬から遠ざける。
その姿は、かつての姷明自身を思い起こさせた。その苦悩と、後悔とともに。
差し出されていた手が、これまでにも、どこかにあったのかも知れない。それに気付かず、手に入らないものばかりを睨んでいた。
沈貞花の意図を曲解し、勝手に腹を立て、よく考えずに浅はかな考えを口にした。
(あの時、あんなことを口にしていなければ──)
沈貞花と昭瑶皇女に仕え、鵬杏と清娘に師事した日々は、かけがえのない思い出だ。だが一方で、自分がいなければ、彼女たちに待ち受ける結末は違ったものになっていたのではと、今でもずっと悔いている。
だからこそ、苦しい。だからこそ、見ていられない。
目の前にある幸せを、簡単に見逃してしまう澄蘭公主がもどかしい。琴華公主と自身を比べては、自らを卑下する姿を見ているのが辛い。
澄蘭公主には、澄蘭公主の魅力がある。それを受け入れ、武器とすれば良いのに、周囲の目を気にしてしまう弱さと、一方でそれを誇らずにはいられない矜持の高さの、危うい均衡が不安になる。
頑なに自分の世界に閉じこもり続ける澄蘭公主との接し方に悩み、筆頭侍女である姷明は、気がつけば無愛想な物言いを繰り返してしまった。
澄蘭公主はますます心を閉ざし、同僚の侍女たちは、姷明を自分たちの側と判断して調子に乗る。姷明は何も出来ず、ただ無力感を募らせていく。
全てが、悪循環だった。




