十三.暗闇に迷う
新たな貞花として入宮したのは、王雅妃の遠縁にあたるという幽氏だった。
当世風の美貌を誇る十六歳の妃は、向こう見ずな野心を抱いた箱入り娘だ。実家から連れてきた、つんとすました表情の侍女たちを従え、司率局所属の女官である姷明とその同輩を、冷たい目で見下ろしていた。
そんな妃に姷明が与えられた仕事は、侍女の職務というよりは、下働きに近い雑務だった。婢女を指揮しながら、掃除や食事の片付けをこなす姷明を、幽氏は甲高い声で嘲笑した。
「貴女、貧しい商人の娘なんですって? どうやってあの残念妃に取り入ったわけ?」
幽氏の言葉に、彼女が連れて来た侍女だけでなく、同輩のはずの内廷女官も笑っていた。
幽氏は、隣の殿舎に住まう、中級官僚の娘の崔貞容には見向きもしなかった。血縁のある王雅妃を始め、彼女を慕う妃たちに取り入ることだけは熱心で、王雅妃が皇帝陛下から賜る寵愛のおこぼれに預かろうと四苦八苦していた。
後宮を威厳で治めてきた皇后陛下の実家で不祥事が相続き、その威光に陰りが見え始めたのも、この頃だった。
かつての、若い妃が好き放題に言いながらも、一定の秩序が保たれていた後宮は、少しずつ変化していく。沈貞花という、誰からも軽く見られながらも、周囲の度肝を抜く豪快さで悪意を受け流していた存在が居なくなったことも、大きいのだろう。
押さえ付けられていた不満、皇帝陛下の寵を得られない焦りが爆発し、損なわれた歪な自尊心が暴走していく。
後宮は少しずつ、閉じ込められた人間の陰湿さが目立つ場所になっていった。
妃も、妃が伴ってきた侍女も、内廷女官さえも。鬱屈した感情をぶつける相手を探し、隙を見せた相手に集団で襲いかかる。
重要な情報を共有しなかったり、陰で笑いものにしたりといった幼稚な嫌がらせが続き、標的にされた者は神経をすり減らした。
けれど、標的はすぐに移り変わる。自分が狙われることを恐れて、傍観していた者も次第にその輪に加わっていく。関わろうとしないのは、もはや、趙皇后と王雅妃、その腹心の配下のみであろう。
(沈貞花様が、生きていらっしゃったら……)
姷明は、何度思ったか知れなかった。
悪意の照準が一回りした結果、やがてその標的は、かつての嘲笑対象の娘──崔妃に引き取られた昭瑶皇女に定められた。
崔妃は沈妃亡きあとしばらくして、子を身ごもった。第三皇子となる男児を出産した後は、中級妃の最上位・媛儀に昇格していた。そんな崔媛儀への嫉妬も加わり、彼女の養娘となった昭瑶皇女は、格好の餌食となったのだ。
母を亡くした傷心の第二皇女を、皇帝陛下が一度も見舞うこともなく放置し続けたことも、事態に拍車をかけた。
両親に溺愛される昭琳皇女のような才にも恵まれず、養母の殿舎に引き籠もり続ける皇女。皇帝陛下の扱いの軽い昭瑶皇女に向かった悪感情は、一年も経つ頃には後宮中に蔓延した。
かつて、沈貞花を「皇帝陛下に忘れ去られた、女らしさの欠片もない妃」と蔑んだ人々が、陰湿さを増した声で、「本を読むことしか出来ない、無才の皇女」と忍び嗤う。
姷明はその空気に一人、抗おうとした。皇女の聡明さも、愛らしさも知らない者たちが、平然と皇帝陛下の息女を嘲っている現状が、我慢ならなかった。
けれども、自身も爪弾きにあっているような新人侍女が何を言おうと、後宮の大勢を変えることなど出来ない。姷明が張り上げた声は、誰にも届かぬまま、後宮に渦巻く嘲笑にかき消された。
少しずつ、姷明も自身の状況に疲弊していった。
私物を隠され、食事を減らされた。姷明が傍を通り掛かるとぴたりと話を止める同僚たちは、彼女が立ち去ると忍び笑いを漏らす。
彼らの輪の中に入りたいとは思わない。けれども、真っ直ぐに自分の意志を貫き通せるほど、姷明は強くなれなかった。
(申し訳ございません、沈貞花様……。ごめんなさい、杏姐、清姐……)
いつしか姷明は、昭瑶皇女を擁護する声を上げなくなった。
陰口に混ざることは決してしなかったが、飽きもせず「出来損ないの皇女」を嘲る同輩たちを、見ないふりで通り過ぎた。
不器用ながらも必死に職務に励む下位女官が、皇帝陛下の子を身ごもった妃が、優秀だが十人並の面差しの宦官が、容赦なく絶望の淵に突き落とされていく姿を、遠巻きに眺める集団の一員と成り果ててしまった。
三年も経てば、姷明が沈貞花の侍女であったことを覚えている者は、いなくなっていた。同じ穴の狢となった姷明を、周囲の侍女たちは気安く迎え入れた。腹立たしかったが、反感を買えば、次に標的になるのは姷明だ。
合わせる顔がないと一方的に交流を絶った、央廷に務める楊 鵬杏は、武官に見染められ、遅い結婚をして宮城を去ったと聞いていた。
頼る相手もなく、表面的には上手く付き合えるようになった同輩たちも、到底信用など出来ない。
心をすり減らし、宮城で生きる決意も情熱も見失ったまま、姷明は惰性だけで幽氏に仕え続けた。
幽氏は、従順になった姷明を気に入り、取り巻き侍女の一人として、彼女を扱うようになった。姷明の化粧の腕に、惚れ込んだこともあるのだろう。
朝礼への同行を命じることはなかったが、遠縁の従姉である王雅妃のご機嫌伺いには、よく彼女を連れて行った。
王妃は面会の場に、しばしば彼女の子である第二皇子と第一皇女を同席させた。幽氏が懇願したためだ。
入宮直後の幽氏は、己の容姿に絶対の自信を持ち、すぐに寵妃の仲間入りが出来ると信じていた。それから四年、数えるほどしか閨に呼ばれていない現状に、酷く焦っていた。
自慢の容色も、歳をとる毎に年々損なわれていく。王雅妃だけではなく、その子らとも親密であるという噂が広まれば、耳にした皇帝陛下の気を惹けると思い込んでいた。
(愚かな人。……そんな策略で皇帝陛下の気が惹けるなら、誰も苦労はしないのに)
いつの間にか心の中に戻っていた、冷めた怒りを持て余し、姷明は溜め息を懸命に堪えた。




