表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/20

十二.別れ

 内廷医(ないていい)の診断結果は、何とか立ち直った鵬杏(ほうあん)の口から、(でい)少監(しょうかん)清娘(せいじょう)にも共有された。

 その間、姷明(ゆうめい)は別室で昭瑶(しょうよう)皇女を見ていたため、三人の間でどのような会話が交わされたのかは分からない。殿舎に漂う空気に(おび)、泣きじゃくる皇女を抱き締めるのに手いっぱいで、あちらの様子を伺う余裕はなかった。


 いつの間にか日が暮れ、泣き疲れて眠ってしまった昭瑶皇女を寝台に運びながら、姷明はじっと自責の念に耐えていた。


 自分があの日、侍女にしてくれなどと言わなければ。


(私を、雇いなんてしなければ……。化粧料にもう少し余裕があれば、沈妃様は気兼ねなく、投薬治療を受けられたのかも知れない……)


 その思いは、縄のように姷明の身体を縛り付け、いつまでも離れなかった。








 翌日、(しん)貞花(ていか)は皇帝陛下の勅旨(ちょくし)(たまわ)った。

 皇帝付きの宦官(かんがん)病床(びょうしょう)で読み上げた勅には、玻鏡殿(はきょうでん)での療養を許可すること、治療に必要な費用は全て自身で賄うことといった旨が記されていた。また、そのために、他の妃から借金をすることは禁ずるとも。

 冷たい文言に姷明(ゆうめい)は内心(いきどお)ったが、鵬杏(ほうあん)に支えられて地に(ひざまず)いていた沈貞花が安堵(あんど)したように微笑んだのを見て、ぐっと言葉を(こら)えた。





 それ以降の日々は、意外なほどに穏やかだったと、姷明は後になって振り返る。





 (でい)少監(しょうかん)の力を借り、沈妃(しんひ)の寝台を窓のすぐ近くに移動させた。そこから見えるのは、一本の貧相な梅の木のみだったが、葉の色の微かな変化や風に流れる様を見ていたいと、沈貞花(ていか)が強く望んだためだ。


 侍女たちは交代で、沈貞花の傍に(はべ)った。清娘(せいじょう)は再び通いの生活に戻ったものの、休みを返上して日中の昭瑶(しょうよう)皇女の世話と沈妃の看病を担った。それ以外の時間を、鵬杏(ほうあん)姷明(ゆうめい)が分担した。


 昭瑶皇女には、母である沈貞花の口から事情が伝えられた。

 母の命がもう長くないことを理解した(よわい)七つの皇女は、ぽろぽろと涙を(こぼ)してその場に(うつむ)いていた。癇癪(かんしゃく)を起こして母を困らせることなく、静かに母の言葉を噛み締めるその様を、姷明は黙って見守っていた。

 伝染(うつ)る恐れはないとの内廷医(ないていい)の診断だったが、万が一のことを考え、沈貞花は娘に、「母に会いに来てはいけない。どうしてもの時は、必ず侍女の皆に相談すること」と言い含めた。


「おてがみは、書いても良いですか……?」


 ぽつりとそう尋ねた皇女を愛おしげに見つめ、沈貞花は破顔した。


「嬉しい。……母妃(ははうえ)はお返事を書くのが難しいかも知れないけれど、昭瑶のお手紙を楽しみに待っている」


 昭瑶皇女は黙って頷き、最後に母妃の衣の袖を力いっぱい握り締めたあと、姷明に促されて出口に向かった。

 遠ざかる娘の小さな背中に、沈貞花が掠れた声を精一杯張り上げる。


「昭瑶。大好きだよ」


 目いっぱいに涙を浮かべる母に、同じような表情で昭瑶皇女は頷いて手を振った。





 昭瑶(しょうよう)皇女は毎日懸命に文を書いては、侍女に託した。

 病床で(しん)貞花(ていか)は何度も何度も目を通し、侍女に返事を書き取らせていた。けれど、病状は日に日に悪化していく。幾度も嘔吐と吐血を繰り返したために喉が焼け、声を出すのも困難になっていった。寝込んだ当初は粥や、胃に優しい少量の(おかず)を何とか口にしていたが、その量も次第に減っていき、重湯(おもゆ)を飲み込むのが精一杯になってしまった。

 沈妃はみるみるうちに痩せ衰え、すぐに、文を持ち上げることも困難になった。侍女に掲げてもらった、愛娘の手蹟()を懸命に目で追っていたが、次第に目の焦点も合わなくなる。やがて、侍女が読み上げる文の内容を、うつらうつらしながら聞くだけとなった。


 時折覚醒した沈貞花は、ぼんやりと窓の外に目を向けることが多くなった。霞んだ視界の中、梅の木の様子を窺っているようにも、あるいは誰かを待っているようにも見え、侍女たちは首を傾げていた。




 その答えは、とある人物の来訪を告げた時に判明した。


芙澤(ふたく)……が……?」


 カサカサに萎んだ唇を懸命に動かし、瞳ばかりが目立つ顔を動かして、(しん)貞花(ていか)姷明(ゆうめい)を見上げて言った。濁っていた目にも、光が戻る。

 主が待ち侘びていたのは、親友である(さい)貞容(ていよう)だったのだと、姷明はようやく悟った。


「お会いになりますか?」

「ん……。ふた、り、きりで」


 一瞬の懸念(けねん)に眉を曇らせたものの、姷明はすぐに頷いた。

 来客を主の寝室に通すと、夜を徹しての看病から起きてきた鵬杏(ほうあん)が、もの問いたげに姷明を見ていた。姷明が事情を説明すると、僅かに逡巡したのち、彼女は主の部屋の外で待機することを決めた。姷明もそれに(なら)った。






 発することすら困難な主のか細い声は、部屋の外には届かない。崔妃の涙混じりの声も要領を得ず、中でどういった会話がなされているのかは伺い知れなかった。





 けれど、しばらくして、崔貞容の慟哭(どうこく)が響き渡った瞬間。





蕙蘭(けいらん)様……」


 主の名を(ささや)き、鵬杏は静かに目を閉じる。姷明は顔を覆い、後から後から溢れてくる涙を必死に隠した。




 端明(たんめい)二年。

 皇帝陛下に忘れ去られた中級妃、沈蕙蘭は、親友に見送られて息を引き取った。








 後宮に、死の気配はご法度(はっと)だ。


 皇帝の(めかけ)である妃の死に際しては、葬儀も執り行われない。死因に不審がないと判明すればすぐに、その亡骸を後宮の片隅に葬られ、殿舎は迅速に片付けられる。彼女たちが皇帝陛下の正式な妻でない以上、それは寵妃であろうと、冷遇された妃であろうと同じことだ。


 それでも、長年に渡って共に夫に仕えた妃を、皇后陛下は哀れみ、最大の配慮をしてくれた。遺族である沈妃(しんひ)の父が同意してくれるのであれば、彼女と縁深い者たちが形見の品を手元に残すことを許してくれたのだ。

 妻と若くして死別し、たった一人の愛娘をも(うしな)った男は、疲れ切った笑顔で一も二もなく頷いたという。



 昭瑶(しょうよう)皇女は母の愛読書を、(さい)貞容(ていよう)は沈妃の愛用していた衣を望んだそうだ。

 沈統業(とうぎょう)は、姷明(ゆうめい)たち侍女や(でい)少監(しょうかん)にも声を掛けてくれた。鵬杏(ほうあん)は身支度に用いていた櫛を、清娘(せいじょう)は沈妃と代わる代わる昭瑶皇女に読み聞かせた、子ども向けの書物を、泥少監は(すずり)を申し出た。


 そして姷明(ゆうめい)は、迷った末、白粉用の化粧筆を(たまわ)った。


 形見分けが終わり、沈 蕙蘭(けいらん)が主を務めた玻鏡殿(はきょうでん)は、次の主を迎えるために容赦なく片付けられていく。運び込んだ私物や調度品は、父である沈 如松(じょしょう)のもとに戻され、下賜品(かしひん)は全て燃やされ灰になった。病の匂いが染み付いた部屋は厳重に換気され、不浄避(ふじょうよ)けの香がたかれた。


 沈貞花の逝去後、一旬(いちじゅん)ほどでがらんとしてしまった殿舎を見上げ、姷明はぼんやりと立ち尽くしていた。


 



(皆、ばらばらになってしまった……)





 泥少監は一旦、侍奉局(じほうきょく)にその身を戻されることになった。次の配属は未定だが、他局に異動する可能性が高いそうだ。


 清娘は、宮仕えを辞することになった。長年宮中に仕え続けた彼女は、乳母という職務柄、主人やその子らと死に別れる経験が幾度かあった。「もうこれ以上は耐えられない」と、恰幅(かっぷく)のよい気丈な侍女は力なく笑っていた。


 鵬杏と姷明は、侍女として後宮に残ることに決めた。

 二人とも、崔貞容に引き取られた昭瑶皇女の傍で働くことを望んでいたが、鵬杏は央廷(おうてい)の皇太后陛下の侍女の後釜へ、姷明は新しく貞花となる妃のもとへ、それぞれ配属が決まった。


 隣の殿舎にいれば、昭瑶皇女の様子を耳にすることは出来るかも知れない。



 わずかな期待を胸に、新たな主を迎えた姷明は、しかし、すぐに失望に打ちひしがれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ