十二.別れ
内廷医の診断結果は、何とか立ち直った鵬杏の口から、泥少監と清娘にも共有された。
その間、姷明は別室で昭瑶皇女を見ていたため、三人の間でどのような会話が交わされたのかは分からない。殿舎に漂う空気に怯、泣きじゃくる皇女を抱き締めるのに手いっぱいで、あちらの様子を伺う余裕はなかった。
いつの間にか日が暮れ、泣き疲れて眠ってしまった昭瑶皇女を寝台に運びながら、姷明はじっと自責の念に耐えていた。
自分があの日、侍女にしてくれなどと言わなければ。
(私を、雇いなんてしなければ……。化粧料にもう少し余裕があれば、沈妃様は気兼ねなく、投薬治療を受けられたのかも知れない……)
その思いは、縄のように姷明の身体を縛り付け、いつまでも離れなかった。
翌日、沈貞花は皇帝陛下の勅旨を賜った。
皇帝付きの宦官が病床で読み上げた勅には、玻鏡殿での療養を許可すること、治療に必要な費用は全て自身で賄うことといった旨が記されていた。また、そのために、他の妃から借金をすることは禁ずるとも。
冷たい文言に姷明は内心憤ったが、鵬杏に支えられて地に跪いていた沈貞花が安堵したように微笑んだのを見て、ぐっと言葉を堪えた。
それ以降の日々は、意外なほどに穏やかだったと、姷明は後になって振り返る。
泥少監の力を借り、沈妃の寝台を窓のすぐ近くに移動させた。そこから見えるのは、一本の貧相な梅の木のみだったが、葉の色の微かな変化や風に流れる様を見ていたいと、沈貞花が強く望んだためだ。
侍女たちは交代で、沈貞花の傍に侍った。清娘は再び通いの生活に戻ったものの、休みを返上して日中の昭瑶皇女の世話と沈妃の看病を担った。それ以外の時間を、鵬杏と姷明が分担した。
昭瑶皇女には、母である沈貞花の口から事情が伝えられた。
母の命がもう長くないことを理解した齢七つの皇女は、ぽろぽろと涙を零してその場に俯いていた。癇癪を起こして母を困らせることなく、静かに母の言葉を噛み締めるその様を、姷明は黙って見守っていた。
伝染る恐れはないとの内廷医の診断だったが、万が一のことを考え、沈貞花は娘に、「母に会いに来てはいけない。どうしてもの時は、必ず侍女の皆に相談すること」と言い含めた。
「おてがみは、書いても良いですか……?」
ぽつりとそう尋ねた皇女を愛おしげに見つめ、沈貞花は破顔した。
「嬉しい。……母妃はお返事を書くのが難しいかも知れないけれど、昭瑶のお手紙を楽しみに待っている」
昭瑶皇女は黙って頷き、最後に母妃の衣の袖を力いっぱい握り締めたあと、姷明に促されて出口に向かった。
遠ざかる娘の小さな背中に、沈貞花が掠れた声を精一杯張り上げる。
「昭瑶。大好きだよ」
目いっぱいに涙を浮かべる母に、同じような表情で昭瑶皇女は頷いて手を振った。
昭瑶皇女は毎日懸命に文を書いては、侍女に託した。
病床で沈貞花は何度も何度も目を通し、侍女に返事を書き取らせていた。けれど、病状は日に日に悪化していく。幾度も嘔吐と吐血を繰り返したために喉が焼け、声を出すのも困難になっていった。寝込んだ当初は粥や、胃に優しい少量の菜を何とか口にしていたが、その量も次第に減っていき、重湯を飲み込むのが精一杯になってしまった。
沈妃はみるみるうちに痩せ衰え、すぐに、文を持ち上げることも困難になった。侍女に掲げてもらった、愛娘の手蹟を懸命に目で追っていたが、次第に目の焦点も合わなくなる。やがて、侍女が読み上げる文の内容を、うつらうつらしながら聞くだけとなった。
時折覚醒した沈貞花は、ぼんやりと窓の外に目を向けることが多くなった。霞んだ視界の中、梅の木の様子を窺っているようにも、あるいは誰かを待っているようにも見え、侍女たちは首を傾げていた。
その答えは、とある人物の来訪を告げた時に判明した。
「芙澤……が……?」
カサカサに萎んだ唇を懸命に動かし、瞳ばかりが目立つ顔を動かして、沈貞花は姷明を見上げて言った。濁っていた目にも、光が戻る。
主が待ち侘びていたのは、親友である崔貞容だったのだと、姷明はようやく悟った。
「お会いになりますか?」
「ん……。ふた、り、きりで」
一瞬の懸念に眉を曇らせたものの、姷明はすぐに頷いた。
来客を主の寝室に通すと、夜を徹しての看病から起きてきた鵬杏が、もの問いたげに姷明を見ていた。姷明が事情を説明すると、僅かに逡巡したのち、彼女は主の部屋の外で待機することを決めた。姷明もそれに倣った。
発することすら困難な主のか細い声は、部屋の外には届かない。崔妃の涙混じりの声も要領を得ず、中でどういった会話がなされているのかは伺い知れなかった。
けれど、しばらくして、崔貞容の慟哭が響き渡った瞬間。
「蕙蘭様……」
主の名を囁き、鵬杏は静かに目を閉じる。姷明は顔を覆い、後から後から溢れてくる涙を必死に隠した。
端明二年。
皇帝陛下に忘れ去られた中級妃、沈蕙蘭は、親友に見送られて息を引き取った。
後宮に、死の気配はご法度だ。
皇帝の妾である妃の死に際しては、葬儀も執り行われない。死因に不審がないと判明すればすぐに、その亡骸を後宮の片隅に葬られ、殿舎は迅速に片付けられる。彼女たちが皇帝陛下の正式な妻でない以上、それは寵妃であろうと、冷遇された妃であろうと同じことだ。
それでも、長年に渡って共に夫に仕えた妃を、皇后陛下は哀れみ、最大の配慮をしてくれた。遺族である沈妃の父が同意してくれるのであれば、彼女と縁深い者たちが形見の品を手元に残すことを許してくれたのだ。
妻と若くして死別し、たった一人の愛娘をも喪った男は、疲れ切った笑顔で一も二もなく頷いたという。
昭瑶皇女は母の愛読書を、崔貞容は沈妃の愛用していた衣を望んだそうだ。
沈統業は、姷明たち侍女や泥少監にも声を掛けてくれた。鵬杏は身支度に用いていた櫛を、清娘は沈妃と代わる代わる昭瑶皇女に読み聞かせた、子ども向けの書物を、泥少監は硯を申し出た。
そして姷明は、迷った末、白粉用の化粧筆を賜った。
形見分けが終わり、沈 蕙蘭が主を務めた玻鏡殿は、次の主を迎えるために容赦なく片付けられていく。運び込んだ私物や調度品は、父である沈 如松のもとに戻され、下賜品は全て燃やされ灰になった。病の匂いが染み付いた部屋は厳重に換気され、不浄避けの香がたかれた。
沈貞花の逝去後、一旬ほどでがらんとしてしまった殿舎を見上げ、姷明はぼんやりと立ち尽くしていた。
(皆、ばらばらになってしまった……)
泥少監は一旦、侍奉局にその身を戻されることになった。次の配属は未定だが、他局に異動する可能性が高いそうだ。
清娘は、宮仕えを辞することになった。長年宮中に仕え続けた彼女は、乳母という職務柄、主人やその子らと死に別れる経験が幾度かあった。「もうこれ以上は耐えられない」と、恰幅のよい気丈な侍女は力なく笑っていた。
鵬杏と姷明は、侍女として後宮に残ることに決めた。
二人とも、崔貞容に引き取られた昭瑶皇女の傍で働くことを望んでいたが、鵬杏は央廷の皇太后陛下の侍女の後釜へ、姷明は新しく貞花となる妃のもとへ、それぞれ配属が決まった。
隣の殿舎にいれば、昭瑶皇女の様子を耳にすることは出来るかも知れない。
わずかな期待を胸に、新たな主を迎えた姷明は、しかし、すぐに失望に打ちひしがれた。




