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十.不安と罪悪感

 広大な殿舎を囲う塀の中心、表門には見張りと取次を兼ねた宦官(かんがん)が二人、立っていた。

 彼らは、汗だくの険しい形相で駆けて来た二人組、特に口布で半顔を覆った姷明(ゆうめい)にぎょっとしたが、すぐに表情を取り繕って尋ねてきた。


「――何用か? まだ(たつ)初刻(しょこく)、皇后陛下は朝のお支度でお忙しい。()く去れ」


 取り付く島もない物言いに、(でい)少監(しょうかん)はその場に(ひざまず)いた。姷明も急いで彼に(なら)う。泥少監は重々しい声音で、閉口した様子で見下ろしてくる見張りに告げた。


「無礼は承知で参りました。皇后陛下の侍女のどなた様かに、お時間をいただくわけには参りませんか」

「くどい、今は──」

「我らが主、(しん)貞花(ていか)様の体調が思わしくありません。内廷医(ないていい)を呼ぼうにも、主は昏倒(こんとう)してしまい、我らは動けず。……どうか皇后陛下より、いくばくかのご慈悲をいただけないかと」


 内廷医の診察を頼むことが出来るのは、原則、皇帝陛下とその側仕えの宦官、后妃(こうひ)のみだ。もちろん、実際に内廷医を呼びに向かうのは侍女や后妃つきの宦官だが、主の命であると分かる書面を持参しなくてはならない。主が命令書を書き起こせる状況にない今、彼らは後宮の権力者に縋るしかない。

 何より、建前を無視して駆け込んだところで、後宮で力を持たない妃の侍女の言葉に、内廷医が動くとも思えなかった。

 泥少監は雨上がりで濡れた地面で汚れることも(いと)わず、深く平伏(へいふく)した。姷明も彼に並んで、地面に膝を着く。

 宦官たちは、険しい顔で問い掛けた。


「体調不良と言ったが……。具体的な症状は?」


 頑なさがわずかに消えたその声に、姷明は慎重に言葉を連ねた。


「咳などの症状もなく、突然血を吐きました。私はこの一旬(いちじゅん)ほど、常に口布をして傍についておりましたが、自身に一切不調はなく、伝染(うつ)る類の病ではないと思っています」


 膝と指先は地に着いたまま、真っ直ぐに宦官を見上げ、姷明はあえて強い調子で訴えかけた。流行病を疑われては、皇后陛下の侍女への目通りはおろか、内廷医の派遣すら断られるかも知れない。

 姷明の言葉に、互いに顔を見合せた見張りの宦官たちは、不意に真剣な顔で頷き合った。目を見開く泥少監と姷明に、彼らのうちの一人が険しい顔で告げる。


「……それならば尚のこと、お前たちを皇后陛下の宮に近付ける訳にはいかない」

「そんな、」

「……事情は私たちから、皇后陛下の侍女に伝える。玻鏡殿(はきょうでん)で待て」


 ぐっと息を飲み、姷明(ゆうめい)は頭を下げた。本当に伝えてもらえるのかは半信半疑だが、抗っては、伝言の申し出すらも取り下げられるだろう。ここは、彼らを信じるしかなかった。

 大人しくその場を引き下がった姷明は、泥少監と共に鳳晶殿を後にした。








 (しん)貞花(ていか)の殿舎に戻った姷明(ゆうめい)は、(でい)少監(しょうかん)と別れ、自室に戻った。地面に膝を着いため、汚してしまった衣服を着替え、再び主の寝室へ足を向ける。


「……戻りました」


 そっと声を掛け、扉を開けると、泣き腫らした目をした鵬杏(ほうあん)が振り向いた。眠り続ける主のもとへ無言で足を運ぶ姷明に、彼女は祈るような眼差しを向ける。姷明はぎこちなく微笑んだ。


「……皇后陛下の宦官に、事態を報告しました。彼らが、皇后様に奏上(そうじょう)してくれるそうです」


 確実に、とは言えないが。


 言葉を濁す姷明の手を、鵬杏がぎゅっと握り締めた。冷え切った手は、かつてないほどに荒れている。


「ありがとう、姷明」


 微笑む鵬杏から視線を逸らす。

 その時、ふと目に入った沈貞花の身体は、清潔さを取り戻していた。鵬杏が着せ替えたのであろう、血に汚れた寝装束は、寝台の脇に畳まれて置かれている。こうした血痕も診察には必要かも知れないと、鵬杏が気を回したのだろう。


 やはり彼女は、どれ程取り乱していようと機転が利く、頼りになる侍女だ。


 姷明は鵬杏の手を握り返し、彼女に看病の交代を申し出る。驚いた鵬杏は、とんでもないと首を振った。


「貴女、昨夜から寝てないでしょう? 大丈夫よ、もう落ち着いたわ」

「いえ……どのみち眠れそうにないですし。もし皇后陛下の使いの方がみえられても、今の私では、ちゃんとお迎え出来る自信がないです」


 苦笑気味に告げる姷明に、鵬杏はしばし逡巡(しゅんじゅん)する様子を見せるが、最終的には頷いた。


「――何かあったら、すぐに呼んでね」


 そう告げた鵬杏は、沈貞花の部屋を後にした。


 姷明は笑顔で、そんな鵬杏を見送る。




 やがて、彼女の足音が聞こえなくなった頃。 


 ずるずると、その場に崩れ落ちた。





「──、ふ、うぅっ……!」





 呻きのような泣き声を漏らし、姷明(ゆうめい)は自身の膝を抱き締める。彼女の主はぴくりとも動かず、規則的ではあるものの、弱々しい呼吸音を立てて眠っていた。


 (しん)貞花(ていか)の、急激な体調悪化の原因は分からない。


 けれど、姷明が来て直ぐに、沈妃がこのような状態になってしまったことが、どうしても心に引っかかってしまう。




(私が……、この宮に来たから。私が、不幸を運んできたのかも知れない……)




 そんなことは有り得ない。偶然が重なってしまっただけだ。

 けれど、理屈が通らないその不安は、いつまでも姷明を苛み続ける。血を吐いた主の姿を見た瞬間に抱いた恐れが、今も消えない。


 気丈に振る舞っていても、姷明はまだ十五歳の小娘だった。

 言いようのない罪悪感に襲われ、彼女は一人、部屋の片隅で啜り泣き続けた。








(今日中に皇后陛下が内廷医(ないていい)を遣わしてくれなければ。懲罰(ちょうばつ)を覚悟で、直接、内廷医局に乗り込もう)


 落ち着きを取り戻した姷明(ゆうめい)は、密かにそう考えていた。だが、その日の(うま)終刻(しゅうこく)頃には早くも、様々な器具を抱えた老年の従看(じゅうかん)が、鵬杏(ほうあん)に連れられてやって来た。後には、すりこぎやすり鉢といった道具を抱えた若い宦官と、大量の薬種(くすりだね)を入れていると(おぼ)しき箱を背負った、小宦官が続く。


 内廷医は、姷明を押し退けて沈妃(しんひ)の寝台近くに陣取ると、弟子たちに次々と何事かを命じながら、沈貞花(ていか)の様子を観察した。瞼を開け目を観察し、口を開け舌を摘み出してじっくりと眺め、首筋のあちこちに触れる。手首に触れて脈を取る。


 従看がおもむろに(ふすま)(めく)り、沈妃の寝装束を(くつろ)げる。姷明は声を上げそうになったが、鵬杏に押しとどめられて、なんとか口を(つぐ)んだ。

 彼は内衣越しに沈貞花の胸元や腹部、(すね)などに触れたあとは、腕を組んでじっと考え込んでいる。

 不安に駆られた姷明は、思わず声を掛けた。


「あの……志看(しかん)……」


 志看は、すぐれた宦官医に対する尊称だ。そう呼ばれた彼は、(しか)めっ面で振り向いたあと、矢継ぎ早に問いかけて来た。


「異変は、いつ頃からみられた?」

「はじめにおかしいと感じたのは、一月と少し前です。顔色が優れませんでした」

「このような症状が出始めたのは?」

「顔色の異変を感じてから、一月ほど……。一旬(いちじゅん)あまり前のことです」


 鵬杏が端的に答えていく。彼は質問の相手を鵬杏に定めたようで、鋭い目を彼女に()えた。


「症状を、具体的に」

「まずは、異様な倦怠感(けんたいかん)で起き上がれず、そこから眩暈や頭痛、吐き気や腹痛と、細部に異変が広がっていって……。ついに血を吐かれたのが今朝のことです。辰の初刻になろうかという頃でした」

「その間、内廷医には」


 その問いには、ぐっと拳を握り締め、鵬杏が声を絞り出すようにして答えた。


「一度、見ていただきましたが。……『たちの悪い感冒でしょうか』とだけ」


 内廷医は肩を竦める。


 後宮での医療行為を唯一許されている内廷医には、二種類の人間がいる。熱心に職務に励み、絶えず知識と技術の探求に明け暮れる者と、虚栄心や卑屈な承認欲求、或いは自信のなさから、腕を磨くことから逃げる者とだ。中級妃の最下位である貞花を担当するのは、当然、後者の医局員ばかりだ。




 姷明は複雑な心境で内廷医を見つめる。


 その時、思いがけない静かな声が、その場の沈黙を破った。


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