逃亡聖女と社畜
勢いだけで書きました。
ミュリエルは半年前までララサバル王国の王都バルにある神殿で、聖女として生活していた。聖女とは聖なる力を持つ女性のことで、神に選ばれた特別な存在とされている。
彼女は生まれたときから聖なる力を発現させたようで、赤ん坊の頃に神殿に預けられたという。だから両親の顔は遠い記憶の彼方にもない。
どうやら聖女となった娘を神殿に引き渡すと、多額の報奨金が与えられるらしい。神殿側が圧力をかけて聖女を引き渡すようにと言うときもあれば、親のほうから「娘を預かってくれ」という場合もあるし、娘本人から「国のために」と神殿で暮らすことを望む者もある。
ミュリエルにおいては力の発現が早すぎたがゆえ、わけのわからぬ力を持つ我が子をどうやって育てればいいのか悩むより、神殿に預け金をもらったほうが理にかなっていると考えるのも、親としては当然なのかもしれない。
合理的すぎる選択の背後にどんな思いがあったにせよ、ミュリエルにとって両親とは名前も姿も知らない人たちだった。
とにかく生まれてすぐから十八歳になるまで神殿で暮らしていたミュリエルだが、半年前に神殿から逃げ出した。
理由は、女官殺害の嫌疑をかけられたからだ。
必死に「自分ではない」と訴えたが、神官長も神官も聞く耳をもたない。あげく「身体検査の必要がある」とまで言われた。
(あっ。このままではヤられる――)
そう本能が悟ったため、逃げ出した。
そして神殿から逃げて十日目。北の国境の街のガルトンにたどり着いた。隣国へ逃れるためには煩雑な手続きが必要だとわかったミュリエルは、あえてガルトンに腰を落ち着けることにした。
ラベンダー色の髪を茶色に染めれば、ヘーゼルの瞳はそのままであっても、鏡に映る自分はまるで別人だった。もちろん、髪色を変えるのに染め粉なんて面倒なことはしない。聖なる力でちょいちょいと。
当分の生活資金は逃げ出すときに神殿から持ってきたが、盗んだわけではない。今までの聖女活動における正当な対価である。
必要なのは、新しい名前と身分。そして住むところ。
ミュリエルは「リエ」と名乗り、行商人の親とはぐれしまったため、国境のこの街で親を待つという微妙な設定を作ってみた。信じてもらえるかは賭けだったが、ガルトンの人々は素朴で優しく、彼女の話を疑うことなく受け入れてくれた。
リード商会という地元の商会が空き家を貸してくれたときは、思わず安堵の息が漏れた。いざとなれば聖なる力で何とかしようと考えていたが、案外あっさり事が運んだ。
もしかしたら、無意識に力を使って人心を掴んでいたのかもしれない、とミュリエルはふと思う。
こうしてガルトンの街は、逃亡者のミュリエルを温かく受け入れた。
さらにミュリエルが生活できるようにと、お金の稼ぎ方まで提案してくれたのだ。
それはリード商会長のプリオがミュリエルのショールを褒めたのがきっかけだった。
プリオは二十代で商会を立ち上げ、国境という立地を活かし、二つの国をまたぐ交易で成功を収めていた。そろそろ四十歳に手が届くという彼は、もしミュリエルに父親がいたなら同じくらいの年齢だろう。陽に焼けた顔と、笑うと目尻に刻まれる深いしわがどこか頼もしい。
「そのショール、素敵だね。どこで手に入れたか教えてくれないか? できればそれをうちの商会でも扱いたいんだ。隣国ではこういった繊細なものが好まれるからね。間違いなく売れる」
それはミュリエルが神殿にいたとき、暇をもてあましたときに編んでいたもの。
「これは、私が編んだものでして……」
恥ずかしくなりながらもミュリエルが答えれば、プリオは「素晴らしい、素晴らしい」と口にする。
「リエ。リード商会でレース編みをしてくれないか?」
彼の言葉はミュリエルにとって願ってもないものだった。これによって彼女は仕事を得た。
だからレース編みには神の加護があるようにと、祈りを込めることにした。つまり聖女の祈りである。
そうやって近所の人とリード商会に助けられながら、なんとか生活をして半年が経った。
神殿から追っ手がやってくる気配もなさそうだし、ここを終の棲家にしても悪くないなと思い始めた。
レース編みで得た収入は、一人で食べていくには十分なもの。そして小さな畑を耕し、自分で食べる分の野菜を作る。もちろん、ここも隠れて聖なる力を使っているので、不作知らず。これもうまくいけば、街の人に還元、すなわち街全体にこの術式を展開したい。
さらに近所の人からお裾分けやら何やらで、それなりに暮らしていけるのだ。
だからミュリエルは、そろそろ鶏が欲しいと思っていた。新鮮な卵を食べられたら、どんなに素敵だろう。
こつこつと鶏小屋を作っていたら(さすがにこれを聖なる力で一気に作ってしまえば、怪しまれると思った)、これも近所の人が「よし、手伝ってやるよ」と、難なく小屋を仕上げてしまった。その手際の良さは、まるで聖なる力を使ったかのようだった。
となれば、あとはこの中に入る鶏が必要だ。
鶏もリード商会に頼めば特別価格で譲ってもらえるだろう。
しかしミュリエルは聖女だ。聖なる力が使える。聖なる力は、魔法使いたちが持つ魔力とは少し異なる。魔法は魔力や聖なる力があれば発動できるが、召喚の術や治癒の術は聖なる力がないと使えない。つまり、ミュリエルは召喚の術が使える。
そんなわけで家畜召喚の術で鶏を手に入れることにしたのだ。
街の人やプリオには、馴染みの行商人からもらったとか、適当な言い訳を考えておく。
召喚の術には魔法陣を描く必要があり、魔法陣の中央部に召喚したものが現れる。
今回の召喚対象物は鶏だ。屋外で術を使ってそのまま逃げられたら困る。せっかくの卵が台なしになってしまう。
そのため、屋内で術を使うしかない。家の中で術を使える場所といったら、居間。
ミュリエルは狭い部屋の中でテーブルや椅子を壁際に寄せ、魔法陣を描くスペースを確保した。埃っぽい空気が鼻をくすぐり、少し鼻をすする。
魔法陣を描く道具は聖女の杖。杖といっても、ミュリエルが使っていた杖は小さなもの。万年筆くらいの大きさなので、魔法陣を描くにはもってこいだった。
床にしゃがみ込み、丁寧に魔法陣をなぞる。円と複雑な紋様が描き上がると、彼女は満足げに頷いた。
「ま、こんなもんね」
ミュリエルは手のひらについた埃を払うかのように、パンパンと手を打った。
久しぶりに魔法陣を描き、その出来に自己満足する。
召喚はどこかに存在する対象物を呼び出す術。ようは横取りである。そのため、それと引き換えにこちらも対価を差し出す必要があった。
考えた結果、ミュリエルは鶏の対価として金貨一枚を魔法陣の中央に置いた。鶏一羽の相場が銀貨二枚なので、五倍分の対価を支払うことになる。万が一、誰かが飼っていた鶏だった場合を考慮して、金貨一枚で鶏を買うイメージ。少し奮発しすぎたかもしれないが、迷惑料も込めて。
できれば野良鶏がいいなと思いながら、ミュリエルは術式を展開する。
「……いでよっ……ヘック……シャッ……畜」
肝心なところでくしゃみが飛び出した。魔法陣を描くために掃除をしたせいか、鼻がむずむずしていたのだ。ミュリエルは慌てて鼻をこすり、気を取り直した。
家畜召喚の儀式は簡単だ。
「いでよ、家畜召喚」と唱え、召喚したい家畜を頭に思い浮かべることで、対象を限定できる。
ミュリエルの頭の中は「鶏」「鶏」「鶏」「鶏」でいっぱいだった。今日の晩ご飯はふわふわのオムレツがいいなと、そんなことまで考えていた。
魔法陣内の金貨がまばゆい光を放つ。部屋が一瞬、黄金色の輝きに包まれる。この光が消えたら、鶏が「コケッ」と現れるはず。
ミュリエルは期待に胸を膨らませ、じっと光の収まるのを待った。
だが、光が消えた瞬間、予想外の光景が広がった。鶏にしては大きすぎる影。そして、「コケッ」という鳴き声は聞こえない。
代わりに、ドシンという重い音が部屋に響いた。
「いって……」
鶏がしゃべった。いや、鶏じゃない。なんだ、これは。
ミュリエルの脳内は混乱していた。
鶏だと思ったら、人間がいる。
「ここ……どこだ……?」
魔法陣の中央で尻餅をついているのは、成人男性だった。黒髪は短く、焦げ茶色の瞳がキョロキョロと辺りを見回している。
年齢はプリオと同じくらい、三十代後半から四十歳くらいだろうか。
シャツと黒いズボンを身に着けているが、そのデザインはララサバル王国のものとは微妙に異なる。首からぶら下がる紺色の縞模様の長い布も、クラヴァットとはどこか違う。
全体的にくたびれた雰囲気で、顔には疲労の影が色濃く浮かんでいた。
「あの……」
ミュリエルは恐る恐る声をかけた。彼の独り言をミュリエルは理解できたから、言葉は通じるはずと、変な自信があった。
「どちらさまでしょう?」
「いや。俺がそれを聞きたい」
男性と目が合い、ミュリエルは思わず息を呑んだ。彼の顔立ちは、ララサバル王国の人々とは微妙に異なる。肌の色や鼻の形、全体の雰囲気が、どこか異質だった。
「あ、はじめまして。私は聖女のミュリエルです」
男性は目を細くして、こちらを疑うかのような視線を向けてくる。
「せいじょ……? みゅりえる……? 舌を噛みそうな名前だ。いや……見るからに日本人じゃないし……だけど、日本語がうまい」
「日本人?」
知らない言葉に首を傾げつつ、ミュリエルは慌ててフォローした。
「あ。リエと呼んでください」
彼がミュリエルという名を言いにくそうだったのもあるが、ここではミュリエルはリエなのだ。
「リエ……」
「はい。あなたのお名前を聞いてもいいですか?」
「……しも……べっ……」
ミュリエルはよく聞き取れなかった。
「え? しもべ? もしかして、私。魔王の下僕を召喚しちゃった……?」
ミュリエルが慌てると、男は「違う!」と大きな声をあげる。
「俺の名前は下村別府。両親が新婚旅行で別府温泉に行き、そこを気に入ったからそんな名前がつけられた」
聞いたことのない言葉ばかり。だが、彼の名前が「しもむらべっぷ」というのだけは理解した。
「えぇと、しもむらべ……ぷさん?」
ミュリエルが呼びかけると「別府でいい」と、彼は少し疲れたようにため息をついた。
「えぇと、べべさん?」
「べっぷ、だ」
発音が難しい。ミュリエルが何度か口の中で繰り返すと、彼は諦めたように手を振った。
「もうそれでいい。っていうか、俺の名前なんてどうでもいい。ここはどこだ? いったいなんなんだ? 俺のパソコンは? 検証中のデータ……」
彼の焦った声に、ミュリエルは少し申し訳ない気持ちになった。
「ここは、ララサバル王国のガルトンという街です」
「は?」
別府の目が点になった。だが、すぐにそれはつり上がる。
「そんな国の名前は知らない。”ら”から始まる国の名前はラトビアとラオスしか知らん。なんなんだ? そのラララなんちゃらみたいな国の名は」
「ララサバル王国です」
ミュリエルは冷静に繰り返した。
「だから知らん」
「う~ん」とミュリエルは腕を組んで首をひねる。そしてポンと手を打った。
「べべさんは、違う世界からやってきたんですね」
「違う世界?」
「はい。私たちが存在する世界とは違う世界。異世界とも呼ばれておりまして、そちらの人間を、私たちは異界人と呼びます」
「異世界……? 漫画とかアニメの世界のあれか?」
別府がガクッと項垂れた。疲れた顔に、さらに深い困惑が刻まれる。
ミュリエルだって家畜を召喚したつもりだったのに、まさか異界人を呼びだすとは思ってもいなかった。
「俺。元の世界に帰れる?」
「う~ん。召喚の術式はわかるのですが、それを返す術式はわかっていなくて……」
「つまり、俺を呼び出したのは君だが、俺を帰すことはできないと?」
「はい。申し訳ありません……」
そもそも呼び出そうとしたのは鶏だ。家畜として飼う予定だったから、それを返すつもりはなかった。そのための金貨一枚でもあったのだが。
「ちょっと聞くが……もしかして、俺は勇者とかだったりするのか?」
別府がなぜそのようなことを尋ねたのか、ミュリエルには理解できなかった。だが即答する。
「しません」
「え? じゃ、なんで俺がこの世界に召喚されたわけ? ラララの国を救ってくれとか、そういうわけではない?」
「違いますね。そもそも私が召喚したのは家畜です。鶏です。それなのに、なぜか現れたのがべべさんで……」
だからミュリエルも困っているのだ。
彼女の話を聞いた別府は、ぶつぶつと呟いている。
「家畜……社畜……社畜、家畜?」
彼が何を言っているのかはわからない。だが、それはどこか遠い世界の愚痴のようにも聞こえた。
「あのぅ……一応、召喚した責任があるといますか。べべさん、こちらに知り合いって誰もいませんよね?」
「異世界に友達や親戚なんているわけないだろ」
「これからの生活は……」
「野垂れ死に。そして今から戻ったところで、検証終わらずでデモもパァ。上司に怒られ半殺し」
別府の口から出てくる言葉は物騒なものばかり。
「死んではダメです! べべさんを召喚したのは私です。この家で暮らしてください。そして私は、べべさんが元の世界に戻れるように……なんとかします?」
「そこ、疑問形かよ」
別府が呆れたように突っ込んだ。
「だから、召喚したものを元に戻す術式、使えないんです。そんなものがあるかどうかもわからない」
「だったら、いいよ」
別府がひらひらと手を振った。まるで、面倒な議論を切り上げるような仕草だが、それが妙にこなれている。
「悪いけど、俺にはここに知り合いが一人もいない。君の言葉に甘えて、この家に居候させてもらう。問題ないな?」
「はい、大丈夫です!」
「ところで君、他に家族は?」
「いません。私、一人で暮らしているので、べべさんが一人増えても問題ありません」
「いや、あるだろ!」
そこで別府が「よっこらしょ」と言いながら、やっと立ち上がった。召喚時に尻を打ったのか、「いててて……」と呟きながら腰をさする姿に、ミュリエルは少し申し訳なく思った。
あとで薬を塗ってあげよう。
別府がドンと一歩近づき、ミュリエルを見下ろした。
「男と女が一つ屋根の下。周りから変な噂を立てられるだろ? 俺は他に部屋を借りる。だが、そのためには君に協力してもらいたい」
「え? 一緒に暮らすのはダメなんですか?」
「俺が君に欲情したらどうする?」
威圧的な視線に、ミュリエルは一瞬たじろいだが、すぐに「なるほど」と頷いた。
「そういうことですか」
ミュリエルが納得したところで、小さな杖を「えいっ」と振り上げる。
杖の先から小さな光の玉が生まれ、ふわりと浮かんで別府の股間へと吸い込まれていく。
「は? なんだ、今の光は……?」
「はい。べべさんが私に欲情しない魔法をかけました」
この魔法は、神殿で貞操の危険を感じた後、「萎える魔法」を構築した。今のところ、ミュリエルしか使える者はいないと思っているし、実は人間にかけるのはこれが初めてだ。
「これで、欲情の心配はありません。だけど、他の人には反応すると思いますので、そこは責任を持ってくださいね」
別府は目をぱちぱちと瞬く。
「魔法……?」
「はい。べべさんは、異界人だし同居人になるから言いますけど。私、聖女なんですよ」
「それは、先ほども言っていたな」
「聖女って神殿で暮らすんですけど……」
ミュリエルは、赤ん坊の頃に神殿に預けられた経緯を簡単に説明した。話が進むにつれ、別府の眉が徐々に上がっていく。
「それって、人身売買に近いものを感じるな……」
彼がポツリと口にした。
「まぁ。とにかくそんなわけで、十八歳まで聖女として人々を癒しながら神殿にいたわけですが、突然、女官殺しの犯人にされたわけです」
「展開が早い。何かのミステリーか?」
「もちろん、私じゃないんですけど。なんか神官たちは、私を犯人に仕立て上げようとしていて……それで身体検査をするから脱げって……」
言葉をなくしたのか別府は押し黙る。
ミュリエルも少し気まずそうに続けた。
「これは、間違いなくヤられると思って、有り金全部持って逃げてきました」
「まぁ、身の危険を感じたら逃げ出すのは間違いではないな」
「そして、たどり着いたのがこの街で、こうやってのんびり暮らしています」
「のんびりねぇ……?」
別府は確認するかのように、室内をぐるりと見回した。
「まぁ。田舎の別荘みたいなところだな」
「あ、部屋はあまっていますので、べべさんのお部屋も準備できます」
「それは助かる」
「ところで、私とべべさんの関係はどうしましょう?」
ミュリエルは真っすぐに別府を見上げ、キラキラした目で訴えた。
「べべさんに魔法をかけたので、恋人の線はなしですね。婚約者とか夫婦とかもなし」
「失礼だが、君の年齢はいくつだ? 俺はこう見えても三十八だが……」
「十八です! 二十歳も違うんですね。となれば、兄妹にも無理がありますね」
そもそも似ていないのだから、いきなり「兄が来ました!」と言っても疑いの目を向けられ「恋人じゃないのか?」と言われるのがオチだろう。
となれば。
「べべさんは、私の父ということでいいですか?」
「やっぱり、そうなるか……」
ある程度、彼も予想はしていたのだろう。それでもガクッと肩を落とす。
「結婚していないのに、いきなり子持ちか……」
そんなぼやきが部屋に響く。
「私、ここに住むときに、行商人の親とはぐれたという設定にしてあるんですよ。で、その行商人の親がべべさん。べべさんは……異国の人ってことで。母親をこちらの国の人にします。うん、それでいこう」
さすがに異界人とは言えないし、服もこちらのものに着替えれば雰囲気もかわるだろう。
ミュリエルは頭の中で計画を立て始めた。
「じゃ、早速。べべさんの服を買いにいってきます。えぇと、身長はこのくらいで……幅はこのくらい」
服も召喚の術を使えば手っ取り早いが、この場合、召喚したい服やサイズをイメージするのが難しい。
だからリード商会に行き「父が帰ってきたので!」と報告しつつ、服を買うのが手っ取り早いと判断した。
「じゃ。いってきます! あ、もし喉が渇いた、お腹が空いたとかあれば、そのテーブルの上のものを適当につまんでください。私のおやつです」
ミュリエルは別府に手を振って、軽い足取りで家を出た。
ミュリエルの姿がドアの向こうに消え、部屋に一人残された別府は、途方に暮れたように呟く。
「どうしたものか……」
視線の先には、壁際に寄せられた簡素な木のテーブルと椅子。よろよろと立ち上がり、腰を押さえながらそこへ向かう。椅子にドサリと腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。
今日の午前中、顧客向けのデモンストレーションがあった。そのための検証データを準備するため、早朝から実験室にこもっていた。
誰もいない無機質な部屋で、パソコンのモニターと向き合い、ログを解析するいつものルーティン。
社会人になって十五年、中間管理職という名の雑用係だ。
部下が「できない」「無理です」と投げ出した仕事は、結局自分で引き受ける羽目になる。
会社に飼い慣らされ、いいように使われている自覚はある。独身で一人暮らし、家族のしがらみもないからと、つい業務を詰め込み、プロジェクトのスケジュール管理まで背負い込む。
三六協定なんてあってないような状態だった。昨年、労基署からの指導が入り、残業管理が厳しくなったせいで、仕事はさらにやりづらくなった。
だからこその早出だった。早朝なら出勤時間を誤魔化せる裏技がまだ残っていた。
始業の八時半まであと二時間。缶コーヒーでも買おうと立ち上がった瞬間、足がもつれて尻餅をついた。運動不足のツケが回ってきたらしい。
「いって……」と呻きながら顔を上げると、目の前の景色が一変していた。
実験室ではない。機械の無機質な唸りも、モニターの青白い光もない。代わりに、木の温もりに満ちた小さな部屋。窓から差し込む柔らかな光が、埃の粒子をキラキラと浮かび上がらせている。
ここはどこだと思うのは、自然な流れだろう。だが、そこで見知らぬ女性に声をかけられたのは完全に予想外だった。しかも見るからに日本人ではない。茶色の髪を背中に流し、ヘーゼルの瞳はどこからどう見ても外国人だった。
どこの国の人だと思ったら、ララララとか聞いたことのない国の名前を口にする。
夢かと思った。
だが、ぶつけた腰はじんじんと痛む。これほど痛むのに夢なわけがない。
目の前の女性はミュリエル――リエと名乗り、聖女だと言う。どうやら別府は異世界から呼ばれたらしい。
その時点で、別府の脳は処理能力の限界を超えそうだった。
まるで、若手社員たちが昼休みに盛り上がるアニメやライトノベルの世界だ。半ば反射的に、『もしかして、俺は勇者とかだったりするのか?』と聞いてみた。
異世界に召喚されたなら、国を救ったり魔王を倒したりする使命があるはず。
そう思ったのに、彼女はあっさり『しません』と切り捨てた。
だったらなんのために召喚されたのか。
彼女の答えはさらに衝撃的だった。
『そもそも私が召喚したのは家畜です』
つまり、家畜を呼ぼうとして、なぜか社畜の自分が現れたってことか?
別府は脱力するしかなかった。疲れ果てた心に苦笑する。
状況を整理し、なんとか受け入れたところで、喉の渇きと空腹が一気に襲ってきた。
そもそもコーヒーを飲もうとしていたのだ。はたして、この世界の生活水準はどのようなものか。その辺はおいおいと確認すればいいだろう。
テーブルの上に置かれている水差しと籠。籠をのぞくと、クッキーが無造作に入っていた。これが彼女が言っていたおやつのようだ。
水差しからグラスに水を注ぎ、飲んでみた。外国の生水は飲むなと教わったが、ここに用意されているなら大丈夫だろうと自分を納得させる。
味は普通の水だった。薬臭さもなければ、変な後味もない。とはいえ、この後に腹痛が襲ってくる可能性はゼロじゃない。油断は禁物だ。
おやつのクッキーの見た目は、クッキー専門店で売っているものに近い。プレーンな色のものを一つ選び、口へと運ぶ。
これも普通にクッキーだった。ほのかな甘味がちょうどいい。
となれば、もしかして、もしかしなくても、ここで生きていけるのではないだろうか。
気がかりなのは、今日の顧客デモンストレーションだ。実際のデモは企画部が担当するから、別府の役割は技術的な質問への回答役。同じプロジェクトのメンバーなら、代わりを務められるだろう。
解析中のデータは、誰かが気づいて引き継いでくれればいいが……まあ、もうどうでもいいか、と投げやりな気分になる。
静かな部屋に、実験室のファンの音はない。熱風も感じない。
代わりに、窓の外から鳥のさえずりが聞こえ、さわやかな風がカーテンを揺らす。
この穏やかな空間に、別府の身体は少しずつ沈み込んでいった。椅子に座ったまま、うつらうつらと瞼が重くなる。
やっぱり、これは夢なんじゃないか――そう思いながら、彼は眠りに落ちていった。
* * *
実験室では別府がデータを解析しているはず。
そう思った高橋は、朝八時前に実験室に足を踏み入れた。LED照明の白い光が、無機質な机と機械の並ぶ部屋を冷たく照らす。
今日の朝一の予定は、別府の解析データをグラフ化し、パワーポイントに貼り付けてプレゼン資料を仕上げること。
九時前に完成させれば、十時からの顧客デモに十分間に合う。
高橋は内心、いつも通り別府がデータを準備してくれているだろうと期待していた。
「おはようございます、別府さん」
だが、いつも別府が座っている席に、彼の姿はなかった。モニターは点灯したまま、画面には解析中のログデータが映っているから、休憩中だろうか。
いつもなら、別府の疲れた背中がそこにあるはずなのに。
しばらくここで待っていれば別府も戻ってくるだろうと、高橋は隣の椅子に座る。
「なんだ、これ……」
別府が使っていたキーボードの上に、見慣れない金貨が転がっていた。外国のコインか、それとも子どものおもちゃだろうか。
高橋はそれを手に取り、まじまじと眺めた。表面には、見たことのない紋様が刻まれ、ずっしりとした重みが手のひらに伝わる。
「どこのコインだろ?」
観察するかのように見ていたコインはすっと消えていく。まるで空気に溶けるように、跡形もなく。
高橋は一瞬、目をパチクリさせたが、すぐにハッと我に返った。
「やべっ。ログ解析して、資料にするんだった」
慌ててパソコンの前に座り、キーボードを叩き始めた。モニターの光が彼の顔を青白く照らし、キーボードのカタカタという音が静かな実験室に響く。
さっきまで手にしていた金貨のことなど、まるで最初から存在しなかったかのように頭から消えていた。
いや、それどころか、この席でいつもデータと格闘していた別府の存在すら、忘れたかのように。
高橋は資料作成に没頭し、朝の静かな実験室で、いつもの忙しさに飲み込まれていった。
【おわり】
最後までお読みくださり、ありがとうございます。
☆を押しての応援やブクマ、リアクションしていただけると喜びます。
本当は長編で考えていたのですが、挫折しました。
長編の場合は、女官殺しの真相とか解明しつつ、この二人のスローライフになる予定でした。
って、絶対にスローライフにならない!と思った方は、大爆笑のリアクションお願いします。
今後、機会があれば長編書きたい、です。
今年中はちょっと無理そうなのでここまでです。