4 思惑
エスティールが兄の部屋を覗くと、鮮やかな青い髪を魔法で金色に変えた姿で彼は外出の支度をしている。質の良いシャツにおしゃれなタイ、そして伝統の織り布で誂えたトラウザー。あとは同じ生地の上着を羽織るだけだ。
「お兄様、どこかへ行くの?」
夕飯を一緒に食べるって言っていたはずなのに。
寂しさを隠して尋ねると、兄は少し微笑んでエスティールを抱きしめる。
「そう不安な顔をするな。ここにはお前を一番に守るリュカがいる。そして私の完璧な魔法陣で侵入者を退ける。さっき採ってきたドラゴンもいるから、この青の魔術師の邸宅を襲えるやつなどまずいない」
そういう問題ではないのだけれど、とエスティールは兄の腕の中で安心しながらスンスンと兄の匂いを嗅ぐ。
「お前は犬なのか。犬なんだな。いつも人の匂いを嗅いでいる」
「べ、別にそんなことしてないし」
「いい。お前が嗅ぐのは私とリュカだけだからな。心の安寧を得るためなら致し方ない」
そう言って、兄はエスティールの顔を覗き込む。
「少し野暮用で王城へ行ってくる。心配はいらない。夕食の時間までには帰る。デザートは野いちごのムースらしいからな」
エスティールは誰と会うか言ってくれない兄に不満顔を見せる。ちなみに野いちごのムースは兄の好物だ。
「帰ったら話す」
そう言って、彼は柔らかな風と共に消えた。
さっきまで温かいものに包まれていたエスティールの体は急に冷気に当たったように寒く感じる。
兄が出かけるのを寂しい気持ちで見送るのは心配しているということの方が比重が大きい。兄は彩色の魔術師だが、その兄を倒せない存在がいない訳ではない。王宮から極秘の任務もたまにあり、そういう依頼は困難が付きまとうと相場が決まっている。となると、命を脅かす場面もあるわけで、エスティールがもう一度あの兄と会えるなどと無邪気に待つのは難しい。
『青の魔術師たる者、国と民のためにこの命を差し出す覚悟がなくて務まるものではない。心せよ』
これは先代の青の魔術師の言葉だ。先代の頃はまだ戦時中で、彩色の魔術師は戦争のために遠方へ派遣されていた。エスティールの両親も魔術師として戦争に参加していた。激闘の派遣先を知らされた時、父は彼ら兄妹に向かってそう言った。
例え任務で命を落とそうとも、誇りある青の魔術師の血族ならば拍手喝采でその死を受け入れろ。家族として嘆くことは許さない。
父の言葉によって幼い兄妹は魔術師としての矜持を植え付けられたのだ。
とはいえ、エスティールに魔法は使えない。青の魔術師の家系と言われても、なんだか他人事のように思えてくるのは僻みなのか。
彼女は兄が無事に帰ってくることを祈りながら、庭にいたドラゴンの説明を聞くのを忘れていたな、とぼんやり思った。
日が暮れても家に兄は戻ってこない。
エスティールは厩で寝ている仔馬くらいの大きさのドラゴンを撫でて物思いに耽る。ドラゴンの肌は意外に艶やかでキメが細かい。硬いのかと思っていた肌が柔らかかったのも不思議だ。この肌は鋼鉄さえ跳ね返すのに。
彼女の愛撫でドラゴンは心地よさそうに寝入った。不敵と呼ばれるドラゴンに対して不思議と恐れもなく愛着が湧く。
「お嬢様、先にお食事をお召し上がりになられますか」
音もなくやってきたリュカに問われて彼女は首を振る。
「お兄様と一緒に食べる」
「かしこまりました」
リュカはまた音もなくいなくなる。
大好きなリュカでも兄の不在を埋められない。
兄はエスティールの魂の片割れだから。
「え」
彼女は自分の思考に慌てて蓋をする。今、考えてはならないことを考えた気がする。
その瞬間、ふわりと頬を撫でる風が起こる。
それと同時に鮮やかな青い髪が視界に入る。
「ただいま、エス」
兄は行きとは違う格好で帰ってきた。一般に流用されている灰色の地味な生地にそれと分からない複雑な紋様の刺繍が施された魔術師のローブを着て。
「お帰りなさい、お兄様」
なんとも言えない安堵が広がる。
「夕食はまだか」
「うん。お腹ぺこぺこだよ」
「そうだな。私も腹が減りすぎて凶暴になっている」
兄の凶暴さは知らない方がいいヤツだ。
「ご飯、食べようか」
「ああ。おっと、忘れてたが、エス。そいつに名前をつけてやれ」
兄の言葉にエスティールは目を見開く。
魔法使いがドラゴンを従属させる最後の仕上げは名付けることだ。それをエスティールに譲る兄の思惑が分からない。
「驚くことではない。そいつはエスのものだ。ずっと昔から決まっている」
「どういう、こと?」
「今は分からないでいい。いずれ、認識する」
どこか遠くを見る兄の言葉にエスティールは歯噛みする。兄は隠し事が多い。
「分かった。じゃあ」
彼女はドラゴンを見つめる。
「お前の名前はグラディスタ」
彼女が宣言したと同時に光の輪がドラゴンを包み、彼の中に消える。
「お兄様、なんか光ったけど」
「ああ。良い名前だ」
返答がおかしい気がするがいつものことだ。
「さあ、食事にしよう」
何食わぬ顔で歩き出す兄の後ろに慌ててついて行くエスティールに脱いだローブを放り投げ、兄の姿が消える。
「ちょ、ずるい」
瞬間移動で食堂へ移動した兄の気配を感じて、彼女は走りだしたのだった。