点滴
大好きだった祖父へ。
私が育った町は大きな吉野川の北岸にあって、汽車が通って無い。
おばあちゃんの家がある南岸の半田町には通ってるのにどうしてこっちには無いのと寂しかった。
それでも汽車がコトコトと走る音は家にまで聞こえてきた。
「電車」ではなく「汽車」という響きに小学生の頃は幼稚に感じていた。高校生になり通学のため利用するようになると電車の通ってない唯一の県の鉄道であることが面白く好きになっていた。
汽車から見える風景はいつも飽きなかった。
下り列車で鴨島駅を過ぎると、トタンの家が並んでいるのがどこか懐かしさを感じさせてくれたし、石井町は田んぼの真ん中に石碑が大切に残されている。
夏の田んぼはどこを切り取って写真にしても美しいだろうと車窓から見蕩れていた。
それなのにいつも汽車に乗る時はいつも寂しい気持ちになる。小島駅から徳島駅までの一時間半。
軋む音を立てゆっくりと動き出した車内から駅舎を見て、もう帰れないのでは、このままどこの駅にもたどり着かないのではと切ない感覚に陥った。
どこにもたどり着けない。
幼い頃からずっと抱いてる気持ちで、歩いても歩いても勉強しようが何しようが地に足がつかない感覚があった。
これは私が小学校二年生の夏のお話。
「梨香子、おじいちゃんのお見舞いに行くけん支度しないよ」
母が慌ただしく荷物をまとめてるのを他所に、私は少女漫画雑誌を読み耽っていた。
「…うん」
雑誌を本棚に戻し小さな声で答える。
おじいちゃんは胃がんで香川の病院に入院している。阿讃山脈を突っ切って山道を走って走った先にある医大病院。
そこに向かうのはとても大変で、道中何度も車酔いで嘔吐をしていたけど、大好きなおじいちゃんに会いに行くために辛抱した。
美馬郡半田町、全国でも有名な半田素麺の名産地。冬が来るとあちこちの製麺所が素麺をハタに吊るして乾かしている。
そこの小さな商店や美容室や化粧品店が点々と並ぶ道沿いにおじいちゃんの家はある。
おばあちゃんを迎えに行きとりあえずお昼。
蝿避けの台所用の蚊帳を取るとコンニャクと人参の煮染めとプラスチックの平たいザルに山盛りになった半田素麺があった。
母とおばあちゃんと私の三人で素麺を啜る。
塩気が効いていて美味しい。細い素麺も好きだけど、一番好きなのはこの素麺。
北側の陽があまり入らない台所は涼しくて、風鈴がちりりんと鳴り響き気持ちが良い。
けたましく汽車が走る音も聞こえてくる。
それにしても、なぜこの場におじいちゃんは居ないのか。
去年まではこの家に居たのに。
なぜ病院にいるのか。
「なぜ」は思いつき出したらキリがない。
おじいちゃんの畑からは汽車が見えるのでいつも一緒に眺めていたのに。
なぜおじいちゃんは病気になったのか。
黙って素麺を口に入れて「なぜ」の雨にため息を着きそうになった。
母とおばあちゃんの顔を見ると疲れきっているものの、明るく振る舞おうとあれやこれやと話していた。
「なんちゃお菓子やないけん梨香子に氷砂糖でも持ってって食わせるで?」
「梨香子氷砂糖食べるで?お菓子ないんやって」
急に話しかけられ狼狽する。
「あっああ…食べれるよ…」
おじいちゃんの部屋にお見舞いに行ってる時はお菓子は食べられない。
おじいちゃんはもう食べられないから。
お医者さんが食べちゃダメと言ってるから、お腹空いたと泣きそうになってたとおばあちゃんは言ってた。
パンを一口でもと齧りたいと懇願していたと。
その事が悲しかった。一緒に素麺を食べてたおじいちゃんがもう何も食べられない。
お腹空いてるのに食べたいのに食べられない。
話を聞いてるだけで泣きそうになった。
それでも悲しい顔をせず、仕方ないよねと母もおばあちゃんも落ち着いた顔をしていた。
きっと心は私と同じく辛いだろう。
大人は大変だと思った。
植木鉢のアロエが騒がしい長屋の並ぶ道を歩いて、むわっと熱気が立ちこめる車内に入り冷房をつける。長い旅が始まる。
おじいちゃんお願い早く元気になって。
また一緒に素麺を食べようよ。
そう思いながら綿あめのような雲が高く上がる空を見上げた。
病室入ると点滴に繋がれ前より痩せたおじいちゃんが私の姿を見て無理して微笑んでいた。
「梨香子…来たんか…」
元々焦げ茶色だった肌はどす黒くなり血管が浮いていた。去年まで元気に鮎釣りをしていた人と本当に同じ人だろうか。
「おじいちゃん調子どうで?」
観察しながら話しかける。
「ほうやなあ…しんどいのに変わりはないんよなあ…」
胸を擦りながら呟いていた。その手の先は肉が無くなり骨の形が浮き出ていた。
「はよ帰れたらええわなあ」
おばあちゃんが荷物の整理をしながら呟く。
「帰れるかいな」
点滴の雫を眺めながらおじいちゃんとおばあちゃんの会話を聞く。
ふと母の姿が見えないことに気がつく。
「あれ母ちゃんどこ?」
おばあちゃんが「ああ」と言った感じで教えてくれる。
「先生の所に話聞きに行く言いよったで」
母は三加茂にある病院に入院していた時もおじいちゃんの病状をお医者さんに真剣に訪ねていた。
その姿を思い出して下を向く。
自分の親が病気になるってどんな感じだろう。私も大人になって父や母が病気になったらああやって病状を聞くのだろうか。
やっぱり大人は大変だと病室の窓の外を見た。
木の緑と青い空と蒸せ返るような熱気。蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
病室内は冷房が効いているけれどその光景にくらくらした。
「梨香子パン食べるか?」
おじいちゃんが棚からパンを出してきたので驚く。
「おじいちゃん食うたらあかんのちゃうの?」
彼は切なく微笑み話す。
「梨香子が来るなら思うて看護婦さんに頼んどったんや」
私のために自分が食べられないパンを買ってくれてたのか。確かに長旅で疲れてお腹が空いていたけれどおじいちゃんは食べられないのだ。
「おじいちゃんが食べられんのやったら梨香子も食わん」
泣きそうになるのを堪えながら言う。
震える私の手を取って話しかけられた。
「食べられるうちに食べないよ。食べられるって幸せやからなあ。」
返す言葉が見つからない、今にも目から雫が零れそうだった。どうしてどうしてなの。
「うん、梨香子このパン食べるわ…あんなおじいちゃん……」
「ん?どしたんな?」
俯いたまま続けて話した。
「はよ退院してまた素麺食べような……約束して」
そのまま頭を撫でられ抱き締められた。
「うん……」
本当はわんわんと泣きたかった。
なぜなのと沢山の問いが私の中にはあって。
答えは決まっているのにその事が悲しくて。
もう先のことは何となく予想が着いてるのにこんな約束をしようとする私自身が憎くて。
鼻水だけ流しておじいちゃんを抱き締め返した。
細い身体。私を軽々と抱き上げてくれた彼は何処に。
用事が終わった母に連れられて院内の喫茶店に連れて行かれる。
前々からパフェやメロンソーダのサンプルが並ぶガラスのショーケースに憧れていた場所だった。
「梨香子好きなの頼みな……」
母が泣き腫らした顔で呟く。
先生に何を言われたのだろう。
「じゃあチョコレートパフェ頼んでもええ?」
「ええよ」
ウエイトレスが来て注文を取る。
黙り込んでいた母はパフェが来ると話し出した。とりあえず私は甘いアイスクリームを口に運ぶ。
「梨香子……おじいちゃんね」
言いながら涙声になる母。
分かってる。分かってるよ。
私も泣きたい。その声でもう全て分かっちゃうよ。どうしてこんな悲しい事が分かっちゃうの。
「でもおじいちゃんは頑張ってるから...…」
スプーンを置いて母に言った。
母は目を拭きながら答えた。
「そうやな……」
毎年夏はいつもお泊まりに行って楽しかったのに、今年は海水浴くらいしか行けない。だっておじいちゃんと少しでも一緒にいたいから。
こんな思い知らなかった。こんな悲しい思い知らなかった。
初めての感情に掻き乱される夏。
夏休みが終わればまた学校が始まる。
そしたら同級生の男子にいじめられる日々が始まるだろう。
今年の四月に隣町から隣町へと引っ越したため、小学校も転校した。そこでは言葉遣いが変だのなんだのといちゃもんを付けられていじめられている。
いじめてる方は知らないだろう。
私がどこにも行けない思いで生きてることなど。辛いけど学校に行く他に選択肢のない私を。
夏が終わり、秋が来て、おじいちゃんは集中治療室に移った。私は子供という事で入れて貰えなかった。
それでも医大病院に通った。
行きたいと懇願したと言うよりも、両親だけで見舞いに行くと私と弟の面倒を見られる人が居ないので連れていかれるという形ではあったが、行かなくてはと思っていた。
師走の末のある日、学校に迎えに来た父からおじいちゃんが亡くなった事を聞いた。
「おじいちゃんな…」
目を白黒させながらどう伝えて良いものかと父が言う。
あの夏に堪えていたものが噴き出した。
どうしてどうしてなの。一緒に素麺食べようなって言ったのに。分かってる。分かってた。いつかこうなるって分かってた。
約束はしたけど分かってた。
声を上げて泣き続けた。連られて父も同じように泣いてくれた。
弟は何がなんだか分からないとぽかんとしていた。
おじいちゃんが戻った家に先に母は行ったという。喫茶店で涙声になった母を思い出して苦しくなる。
母は私よりもきっと悲しいはず。
おじいちゃんがこの世に居なくなったこと、母の気持ち、あの夏の約束。すべてが悲しく降りかかる。
あの日の空は青くて綿あめのような雲は真っ白だったのに。
今の空は灰色の雨雲が覆ってどんよりとしている。
おじいちゃんお疲れ様。
涙が止まらない目を伏せて思った。
お葬式の日、貞光の山にある焼き場の煙突から高く上がる煙をずっと見つめていた。冷たい風のおかげで鼻水は止まらなかった。
大人になった今でも思い出す。あの夏の感情。
食べたいのに食べられなかったおじいちゃん。
短大を出て栄養士になった私はおじいちゃんみたいな人のために、少しでも何か出来ないかと吉野川の南岸にある小さな病院で働いている。
「お素麺やったら食べられる?ほな半田素麺にするで?買うてくるわなあ」
入院している方に話しかけながら窓の外を見るとあの日と同じ変わらない空だった。
暑い暑い夏。おじいちゃんはこの世にいない。
半田町は隣の貞光町と一宇村と合併してつるぎ町となり消滅した。
けれど汽車は今日も走っていて、おじいちゃんの姿を見て色々感じた私がこうしてこの場所に立っている。
どこにもたどり着けない思いを抱えたまま大人になった。
病室の窓から勢い良く風が入ってきてカーテンが揺れていた。
ゴトゴトと鉄橋を走り抜ける汽車の走行音を聞きながら廊下を歩く。
「梨香子やー、はよ素麺食べよう」
どこからか、そんな声が聞こえた気がして振り返る。当直室へ続く廊下は薄暗く誰もいない。
だけどそれはきっとおじいちゃんの声だ。
幻聴かな。それでも嬉しい。ずっとどこにもたどり着けないと思ってたけど、少したどり着けそうだよ。
この場所で自分が進むべき何かが見つかっ気がした。
「うん食べよう」
誰もいない廊下で1人呟いた。
半田素麺は美味しいので是非食べてみてください。