第一章 フォックスの憂鬱 7
「今からお発ちになる……少々お待ちください」
パットが階段を駆け下りると、扉越しにちょうどリシューと支配人が立ち話をしているところだった。
パジャマ姿の支配人はきびすを返すと、狭い厨房を横切り、質素な自室を通って裏口へと続く階段を降りて行った。
さびついた扉を開けるとひゅっと湿った風が入りこみ、小雨にぬれながら石段を五段降り、川岸に立った。そして、大きく円を描くようにろうそくをゆっくり回すと腰を下ろし、ヨーデルを歌い始めたのである。
彼は、じっと水面を見つめたまま動かなかった。
リシューの後ろにいたパットが
「ねぇ、リシュー。あれは、何? おじさんの声なの? とってもきれいだね。でも、おじさん何してるのかな? じっとかがんでたら雨にぬれるよ。自分の顔見てるのかなあ。ボク、夜はやめたほうがいいと思うな。ねぇ、リシュー、おじさんの持っているろうそく真ん中のところヒモで巻いてたみたいだね。どうしたんだろう」
中から様子をうかがっていたリシューは風で扉がきしんで閉まるのを足で押さえつけ、片手を壁の端にもたれさせながら静かに言った。
「しっ、何かを待っているみたいだ」
「えーっ、ま、まさかサメじゃないよね。海坊主じゃないよね。ねぇ、リシュー」
ブルーの瞳を不安そうに動かし、リシューの袖を引っ張った。
「おい、寝ぼけているのか。それは、全部海の……はっ!」
突如、水しぶきを上げ黒い物体が水中から踊るように跳ねた
リシューは、迷うことなく支配人の側へ駆け寄った。
激しく揺れる波間から次々と愛嬌ある顔をのぞかせたのは、イルカに似た動物だった。全身は濃い青磁色をしており、くりくりした大きなエメラルドの目をしばたたかすと、支配人の周りに集まり、うれしそうに声を合わせて鳴き始めた。
「わーっ、イルカさんだ! ほら、リシュー、動物ずかんにのってるイルカさんだよ。ボク、はじめて見たよ」
こわごわと奥のほうから眺めていたパットは、狂喜すると顔を輝かせながら走ってきた。勢いあまって岸から足を踏み外しかけたが、支配人が手を引っ張って助けてくれたのである。
「ありがとう、おじさん。おじさんってやさしいんだね。ボク、最初フランケンシュタインみたいな顔だから、こわい人かなと思ってたの。うふっ、ごめんね。おじさん、イルカさんとも仲良しなんだね。ねぇ食べ物は何をやってるの? 名前は全員についてるの?」
リシューはため息をつくと片手で顔をおおい、殴る真似をしたが、当のパットはにこにこしながら支配人に笑いかけていた。
支配人は大きな手でブロンドの頭をなでると、無言のまま笑った。
決して愛敬があるとは言えなかったが、誠実な者だけが持つあたたかみと穏やかさにあふれたものだった。
「ええ、ついていますよ。一から七までの数字が名前なんです。七頭いますからね。呼んでみてください。返事をするはずです」
「わーっ、ほんと。じゃ、一」
「キキキ」
「二」
「ギギッ、ギギッ」
「三」
「キキッ、キキッ」
次々と顔を出すと、愛想良く鳴いた。
(ん、と。何かと似てるな)
パットは、首をかしげた。
支配人が立ち上がって中に入ると、リシューもそれに続いた。
「あれは、スモーラだな。イルカに似ているが性格はまるっきり正反対の動物だ。狂暴で、気が荒く、時には人間を襲う。言わば、この星の嫌われ者。魔女の涙とは雨のことだが、本当は雨を糧として繫殖するスモーラを指すんだ」
「旅の方なのに、よくご存知ですね」
「だが、あれは滅多に人になつかないと聞いたが」
ちらと、パットがイルカもどきとふざけているのを見ながら、声をひそめた。
「はい。数年前、川に落ちた私を彼らが救ってくれたのです。命の恩人ですよ。それ以来の付き合いです。彼らは――おとなしくて、賢い生き物なのです。残念なことですが、誰もこの事実に気づいていないのです。スモーラは、好意を持ってくれる人を敏感に察するのです。ほとんどの人間が彼らを嫌っているので、人になつかないのです――スモーラのことになると見境がつかず、おしゃべりが過ぎました。お許しください」
「いや。スモーラに対して偏見を持っていたようだ。これからは友として、つき合うようにするよ」
支配人は、リシューの言葉にうれしそうに笑った。
「今からですと、この雨でエア・カーもパトロール・カーも滅多に通りません。呼び出しても時間がかかるでしょう。陸路は、良からぬ者が出没して何かと物騒です。水路のほうがまだ安全でしょう。彼らに送ってもらいます」と壁にかかった丸い形のロープを外した。
すっかりスモーラと仲良くなったパットは、二人が近づいてくるのを見て喜々として言った。
「うふふ、かわいいなあ。あっ、リシュー。あのね、このイルカさんたちね、とっても頭がいいんだよ。ボクが回転するの見たいって言ったらね、ちゃんとくるくる回ってくれるんだよ。ボクの言うことわかるんだね。だから、ボク、自分の名前教えたの。ねぇ、リシュー……おじさん何してるのかな。おじさん、イルカさんの口にロープ引っかけてるよ」
リシューはブーツを脱ぎながら、地面に転がっていたパットのリュックを投げ渡した。
「ねぇ、リシュー、どうして靴ぬいでるの?」
「ふん、あれはくつわらしい。お前のお友だちが空港近くの川まで送ってくれるんだと……おい、騒がずによく聞け。だいぶ前に馬に乗ったことがあっただろう。あれと同じ要領で……こりゃ、今何を言っても無理だな」
支配人が一頭のスモーラにくつわをセットするその横で、パットはぴょんぴょん跳びながら大騒ぎしていた。ふと気づけば、人の倍くらいある大きなスモーラがじっと動かずにリシューを見上げていた。
腰をかがめると
「もし、お前さんが俺を気に入ってくれたのなら、その大きな背中に乗せてくれるかい? 俺は、リシューだ」
スモーラは独特のプヮプヮプヮと口を開けて鳴くと、宙返りを始めた。
「はん、支配人。俺の相棒はこの大きいのに決まったぜ」
水しぶきを頭からかぶりながら苦笑いをした。
「大事なお客さまだから、失礼のないように。ちゃんと空港近くまでお送りするのだよ」
支配人はつるつるの青磁色の胴体をなで、人に接するようにやさしく言い聞かせた。
「支配人、いろいろ世話になった。ありがとう。これを。確か一泊で銀貨二枚だったな」
「何をおっしゃいます。お客さまはお泊まりになりませんでした。どうかお気をつけて。良い旅を――」
差し出された宿泊代はがんとして受け取らず、かわりに深々と頭を下げた。
「そうか……わかった。おい、パット。早く乗れ」
「う、うん。じゃない。はい」
荷物を全部リュックに詰めこみ不格好のまま背負ったパットは、初めて乗るうれしさと恐ろしさでためらっていた。そんなパットを急き立てて乗せると、左肩にリュックと紐で結わえたブーツをひょいと担ぎ、立ったままロープをつかんだ。
リシューのリュックもコートを丸めて入れた分ボールのようにふくらんでいた。
「あっ、そうだ。ちょっとまってて」
スモーラの背から岸へ移る時パットは片足を川につっこんだが、そのまま支配人に抱きつき
「おじさん、ありがとう。そして、さよなら。また会おうね」といかつい顔にキスをした。
裸足のまま駆け、急いで背にまたがった。
波が高く半ズボンの上のほうまでぬれたが、笑いながら大きく手を振った。
支配人は照れ笑いを隠すように頭を下げ、二人が遠去かるまで上げなかった。
そして、ゆっくり上げた時まるでそれを待っていたかのように大声がひびいた。
「支配人、あの部屋の永久宿泊代だ。また会おうぜ!」
リシューは、ザラザラする小さな袋を銃口の先に取りつけた。
それは、熱によって六面体の固い物体に変化し、強い衝撃を与えれば自然に消えて無くなる代物だった。
銃をかまえ、ろうそくのぼうっと灯る位置からだいぶ離れた場所に狙いを定めて撃った。
灰色の闇夜に、赤い光が舞う。
風を切る鋭い音の次に、ゴンと壁にあたってはね返る音が起こり、支配人は薄汚れた外壁をいぶかしげに照らした。地面に転がる小さな丸い塊。
「こ、これは……!?」
透明な膜にくるまれたその中には、ろうそくの明かりでも煌々と輝く、小指の爪ほどのイエローダイヤモンドがあった。
その膜もやがてシュワシュワと溶けるようになくなった。
銃口を右に回し定位置に戻すと、腰にさし、スモーラの背をやさしくたたいた
「さっ、行こう。お前さんたちの御主人にお礼ができたから」
「ねぇ、リシュー、何をしたの? 何をうったの? ボク、流れる波を見てたから、わからなかったの。もう一度やって見せて」
「ふん、破産するからやらん」
パットは首をかしげ、振り返った。ほの暗い明かりだけが、高い建物の間でゆらゆらと揺らめいていた。
雨は小降りになったが、時折吹く風は強かった。
「ねぇ、リシュー、おじさんの姿が見えなくなるよ。あの角を曲がったら、ろうそくも見えなくなるね……ねぇ、リシュー、水の中ってあったかいんだね。まるで水面をとんでるみたい。ボク、鳥の気持ちがよくわかるな」
パットは足を動かすと速いスピードで水が泡のように舞い散り、何事もなく進んでゆく感触が心地良いと、わざと水をけった。
その通りだなと立ったままの姿勢で乗っていたリシューは、裸足にかかるしぶきを感じながら、乱れ髪を後ろになでつけた。
両側の岸辺に置かれた街灯の明かりだけが道標のように前方を指し示し、動く人影もなかった。
広い橋の下を通り抜け、川はビル街の側を流れていた。
スモーラは歌うように鳴くと、尾ひれを動かし軽快に泳いでいる。
そのたび波がざわめき、どこか海を思い出させた。
記憶の片隅に今と似た景色があった。その糸をたぐり寄せ、ほっと安堵の吐息をついた。
(パルといたんだ)
(一緒に海を見ていた。もうずいぶん遠い昔の出来事のように思える)
肩に担いでいたブーツの紐がずれ、直そうと手を伸ばしたとたん、静けさを切り裂いてパットの泣き声がひびき渡った。
驚いて振り返ったと同時に紐が手を離れ、ブーツは空しく川に落ちた。
「俺の……」
叫ぶ間もなく、突然ぐんと水中に引きずりこまれ、ロープをしっかりつかんでいなければ、振り落とされるところだった。水泡が目の前いっぱいに広がり、気がつくとスローモーションのように空中に跳び上がっていた。
再び、激しい衝撃とともに水中深く沈み、浮上した時には顔をスモーラの胴体に強くぶつけて停止した。
全身ずぶぬれで髪をかきあげると、スモーラの口にくわえられたブーツを見つけ
「あっは、素敵な水中ショーだったぜ。ありがとよ。少しばかり驚いたが」
大笑いすると、使命を果たしてうれしそうに鳴くつるつるの頭をなでた。
後ろからついてきているパットは、今、リシューの身に何が起こったのか知らない様子で泣き続けていた。
「おじさんの姿が見えなくなって、ボ、ボク、今までがまんしてたんだけど、も、もうできないよお。おじさん、これからひとりぼっちなんだね。そう思うと涙がとまらないの。ボク、人と別れるのがきらいなの」
背びれにつかまりながら、涙をいくつかこぼした。
二人の周りをかこむように泳いでいた他の五頭は、心配そうにパットのかたわらに集まってきた。
リシューはぐっしょりぬれた髪を絞ると、ゆっくり立ち上がった。
「パット。支配人には、こんな素敵な仲間がたくさんいるんだぜ。ひとりぼっちじゃないさ」
パットは、人懐っこい顔を近づけてくるスモーラをながめ
「そ、そうだね。おじさんには、イルカさんたちがいるんだ。ひとりぼっちじゃないんだ」
「ああ、そうとわかったら、男がいつまでもめそめそ泣くんじゃない」
「う、うん。じゃない。はい。ねぇ、リシュー、今気づいたんだけど、どうして船に戻るの? シルバー号が呼んでたのはなぜなの? も、もしかして急用の仕事なの?」
「ふん、今頃わかったのか」
パットはうれしそうに笑いながら、手をたたいて喜んだ。
「ねぇ、リシュー、それでどこに行くの? いつ行くの? いい仕事なの?」
いつものように首をかしげてたずねた。
「リラ星。詳しい事情は船に戻らないとわからない」
「リシュー、早く船に戻ろう!」
「ははん、げんきんな奴だな。では、リクエストにお応えして、フルスピードで帰るとするか。頼むぜ、相棒。水中ショーでも、空中ショーでもいいから張り切って行こうぜ」