第一章 フォックスの憂鬱 4
中心部からだいぶ離れた住宅街の一角に、老朽化が激しい二階建ての小さなホテルがあった。
元は明るいレンガ色と思われる外郭はヒビが入ってはげ落ち、一見あばら屋風だったが開け放たれた扉の中は掃除が行き届き、清潔感が漂っていた。
玄関マットを踏みしめたが、熱風機が作動しなかったのでそのまま中に入った。
そう広くない一階のロビーは、入ってすぐ左に受付、正面の階段脇にある小さな四角いテーブルと二脚の丸椅子。
客室は受付奥の三部屋と二階の三部屋の合計六部屋だけである。
リシューは、右奥にある小部屋をながめた。
そこが支配人の部屋兼調理室だろうと見当をつけたが、誰も出てこない様子に左上へゆるやかなカーブを描く階段をいつものように二段とびで駆け上がった。
すると天井からパラパラと白い粉が舞い、木の床がギィギィときしんだ。
軽くむせると、泊まるとわかった時の支配人の怪訝そうな顔が再び理解できた。
すぐ手前の茶色の扉をノックしようとした寸前
「おっ帰りぃ、リシュー!」と中からとびっきり明るい瞳をした少年が飛び出してきた。太陽みたいに丸い顔を輝かすとリシューに飛びつき、服の端をしっかりつかんだ。
呆れたようにリシューは、言った。
「パット! 何度言えばわかるんだ。誰だかわからないのに、勝手に扉を開けるなと言っただろう」
「う、うん。でも、足音がリシューのだったから。いつもの二段とびだったでしょう。でもここじゃやめたほうがいいと思うな。ボク、底が抜けるんじゃないかと思うんだ。階段の手すりもぐらぐらしてるの。ねぇ、リシュー、ここに泊まっているのボクたちだけっていうの、よくわかるね」
セルリアンブルーの大きな瞳をくるくる動かすと、背の高いリシューを見上げ一気にしゃべった。
「でもね、部屋の中にいたのにぬれたんだよ。ボク、びっくりしたな。見たらね、天井から雨もりしてるの。水たまりができてころんじゃった。うふふ」
「パット」
「ねぇ、リシュー、緑色の雨ってすっごくきれいだね。きらきらしてて、小さな森がたっくさんふってくるみたい。なのに、どうしてこの星の人たちは魔女の涙って言うの? さっきね、外に出てずーっと上からふってくるの見てたの。そうしたら、頭がくらくらしてきたんだよ。風に吹かれてくるくる回る木の枝を見てたせいもあるけど」
「パット、俺もくらくらしてきた」
「リシューも、木の枝見てたの?」
「違う。熱が出てきそうだ」
「えっ、どうしたの? カゼひいたの? わっ、ほんとだ。服がすごくぬれてる。雨にうたれたんだね」
「俺の服、しゃべる間中しっかりつかんでいたのに、今、わかったのか?」
「うん。リシューもやっぱり上からふってくる雨を見てたんだね」
「こ、このふあっくしょん! 本当にカゼをひきそうだ。いくら古くてもシャワーくらいあるだろう」
「うん、あるよ」
「うん、じゃない。はいと言え」
「は、はい」
「そういや、夕食はちゃんと食べたのか?」
「うん。おじさんが部屋まで持ってきてくれたの。たっくさんあって、とってもおいしかったよ。スープパスタの中にきらきらした星がいっぱいあって、すっごくきれかったよ。じゃなくて、はい」
「ふん。じゃ、これをやる」
窓際に並行に二つ並んだベッドの脇を抜け、奥のバスルームへ向かう時、銀紙にくるんだ棒キャンディーをさりげなく渡した。
「わっ、これボクにくれるの? ありがとう、リシュー」
「ああ。お前のお気に入りのビー玉を一つ使ったからな。コック長」
ドアノブを回しながらウィンクすると、鉄砲玉のような非難の声が聞こえないよう、大きな音をたてて閉めた。
「ねぇ、リシュー、ごはんは? ボク、船からピラフ持ってきたの。食べる?」
口笛を吹きながらタオルで髪を乾かしていたリシューは、不思議そうにたずねた。
「何だ、それは?」
「よく知らないけど、リシューの生まれた星の料理の本にのってたの。とってもおいしいよ。ちょっとこげたけど」と弁当箱を広げた。
「ふーん、いや、俺はいい。外ですましてきたからな」
「じゃあ、ほれい保冷パックに入れてしまっておくね」
「ねぇ、リシュー、今までどこに行ってたの? 人に会っていたんでしょう。また仕事の話なの?」
パットはリュックの中からいろいろな物を出しながらたずねたが、リシューはそれに答える様子もなく窓越しに降り続く雨を見ていた。
緑の星と呼ばれるロールは、雨の後、空に架かるゴールデンレインボーが最大の呼び物として多くの観光客を集めていた。しかし、その虹を生み出す一日中降る雨は皆の嫌われ者だった。
晴れる時はめったになく、常に灰色のどんよりした世界がこの星を支配していたのである。
雨に流されそうになる意識を戻すと、思い出したように
「俺がいない間、何か変わったことはなかったか?」
「あった。空港でひろったペンギン鳥の青い羽根。良かった。なくしたのかと思ったよ」
「おい」
「うふふ、パタパタとボクの目の前を飛んで行ったんだ。また会えるといいなあ。大事にしまっておこうっと。桜色のビー玉と真珠のボタンは一緒のふくろに入れてっと……」
「おい、パット」
「なあに? リシューもキャンディー食べる? あっ、その前に手洗わなくっちゃ」
赤と緑のチェック柄の丸いリュックの口をしぼると、うれしそうにベッドから飛びおりた。
テーブルの横にできた水たまりに再び足をとられ尻餅をついたが、今お気に入りの『月夜のラビットボーイ』を歌い始め、何事もなかったかのように洗面所へ駆けて行く。
「あの様子じゃ何もなかったみたいだな」
リシューは、ぼそっとつぶやいた。