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りんどう  作者: ハッカビ
7/15

「寺ちゃんってさ、なんで新宿でバイトしようと思ったの? 家、別に新宿に近くないよね」

 店長が抹茶ラテのベースを仕込みながら、レジの前に立つ私に聞いてきた。

夜の八時、お客さんの出入りは落ち着いていた。

 今日は店長と二人だけの店番だった。

いつもは三人の店員でお店を回している。しかし最近は、人手不足のために二人で店番することも多かった。

 私は返事に詰まった。どうして新宿でバイトしたいと思ったのか。

 単純に言えば、それは新宿が好きだからであった。でも、私は自分が新宿が好きだということを人に知られるのは嫌だった。

 「なんとなく、何となく新宿でバイトしたいと思ったんですよね。もう直感です。時給もいいですし」

 と言って、私は店長にへへっと笑ってごまかした。


 このカフェで働く多くのバイトの学生は、大学が新宿に近いか、新宿を乗り換え駅として利用している。だから彼らは通学のついでに、ここでバイトをしていた。しかし、私は大学は都心から離れているし、乗り換えでも新宿駅は利用しなかった。新宿にはバイトのためにわざわざ来ていた。

 地元や大学の友達にも、新宿でバイトをしていると言うと「なんで」と言われる。バイトのためにわざわざ新宿まで通っているなんて、時間と手間の無駄ではないかといわれる。「カフェなんてありふれたバイトだし、実家の近くか、大学の近くでバイトすればいいじゃん」と大抵の友達は口々に言った。

 でも私は新宿で働きたかった。私は新宿が好きだった。どうして新宿が好きなのかと真正面から見つめられたら言葉なんて出てこない。でも私は新宿が好きだ。


 新宿は驚くほど雑多な街だ。世界中から物が、人が集まってきている。物が無造作に投げ込まれた箱のような街だ。トモヤの宝物箱以上に謎と興味深さで溢れている。まさに大量消費社会を象徴する街だ。世界中で複製されている物がひしめき、輝いている。そして、それに群がるように人が集まる。まるで彼らも世界中の複製品のようだ。澄ました顔をしている高貴そうな人も、毎日飲んだくれているような与太者も、みんな同じだ。みんな同じで世界を反映している。

 私は新宿が好きだ。私も、そこにいる彼らも、例外なくみんなまるでバウムクーヘンのようだ。あのお菓子のように芯なんてないのだ。左右から押されれば簡単に押しつぶされてしまう。私達は単純で、もろくて、愛しいものなのだ。この弱い心を隠すために、みんな自分の身の周りを甘くし、着飾る。他に負けないようにと、甘ったるく、きらびやかになる。時代とともに複雑肥大化していくバウムクーヘン。自分は他の人とは違うと思い込む。他人とは違うんだ、だから私を愛してくれ。どんどんと見栄と虚栄心だけが肥えていく。これは青年期特有の病なのか? あらゆる保護から離れ、自由に見える世界へと孤独に放り出される青年期から発症する、普遍的な病である。

 そんな石ころのようにひしめく彼らを、新宿は色とりどりのネオンを以て照らす。彼らのぽっかりと空いた部分をモノや光や色で埋めて癒す。人、物、物。欠落している愛しき者に、モノが飽和するこの街が幻想を抱かせる。

 私はそんな新宿が大好きだ。私も例外なくバウムクーヘン的人間である。欠落した芯に一層新宿は入り込んでくれる。私は新宿が大好きだ。寒々と風が吹き抜ける穴が埋められ、私も一人前になったような気分になる。新宿が愛おしい。バイトのために新宿に私は向かうのではない。私は新宿に行くためにバイトに行くのである。


 お店の扉が開く音がする。

 「いらっしゃいませ」

 私と店長は挨拶をする。

 「アイスコーヒー、ハムと卵のサンドイッチをください」

 「かしこまりました。お会計は七百五十円です。」

 レジの前に立つお客さんは三十代後半くらいの女性。長い黒髪は頭の後ろで、紺色のバナナクリップで綺麗に束ねられていた。年齢は違えど、そのきちんとした姿は、自然と私の母の姿と重なった。彼女はベージュの大きめのバックを肩にかけ、青地に白のストライプがはいったブラウスに紺色のパンツを履いていた。ブランドものの長財布の中から小銭を探し出している彼女の目には、少し焦りが浮かんでいた。

 私はレジを打ち、店長にサンドイッチのオーダーを通し、そしてアイスコーヒーの準備をする。決められたいつもの手順を踏む。私は正確にダンスする。いつも通り精緻で合理的なダンスに私の身体は喜び震える。隣では、注文通りのサンドイッチが一切の余分な時間の添加物を含まずに作り出されていく。

 ドリンクとサンドイッチが出来上がる。彼女は慌ただしくカバンを肩にかけなおすと、それらがのったトレーを両手で持ち、そして店内の奥の方へと向かっていった。その背中はどこか頼りなげに見えた。


 その背中姿を見ていると、私は初めて新宿に来た時のことを思い出した。母に連れられて初めて新宿駅に降り立った時、狭いプラットホームの上で動きひしめく大量の人の群れに圧倒された。まるで人々が、小さい水槽に入れられたメダカの大群のようだった。駅構内でも、彼らはメダカのようにうつろな目で一点を見つめ、きょろきょろとすることはない。彼らは何を考えているのだろう? 彼らは流れるように集団の中を常にどこかへと移動していた。

 メダカになりきれない当時の幼い私は、沢山の人とぶつかった。一瞬のうちに母とはぐれてしまいそうで、はぐれてしまったら最後、この大量のメダカに黙殺されてしまいそうで、必死に母の腕を掴んだ。恐ろしい。新宿って恐ろしい。それが私の新宿の第一印象だった。新宿を歩く彼らと私は、メダカとタニシほどに違う気がした。

 しかし、今では私は彼らの仲間入りを果たしていた。完璧に、といったらおごりがあるかもしれない。けれど、私はちゃんと、他のメダカたちのように新宿駅を泳げるようになっていた。

 こんな奇妙な私達、バウムクーヘン的メダカは至って()()()()だ。愛しい私達は素早く社会を泳げる世界屈指の肉体を持っている。何故なのか、それは簡単である。

 私達の食べ物には一切の時間的無駄が入っていない。このカフェで先ほどのお客さんが注文したサンドイッチみたいに。この時間無添加食品は、私たちの心の贅肉をそぎ落としてくれるヘルシーな食べ物である。恐らくこの人気食品が新宿ほど溢れている街は他にはあるまい。


 「ふう」

 と店長がサンドイッチを切ったナイフを拭きながらため息をついた。客入りも落ち着いていて、少しぼうっとしてしまっていた私はふと我にかえった。

 店長の方を見た。彼が仕事中にため息をつくことは滅多になかった。

 改めて店長の顔をよく見る。彼の顔はいつもより青白くみえた。今日は体調でも悪いのだろうか。

私の心配そうな視線に気づき、店長はこっちをみて弱弱しく微笑んだ。

 「今日ちょっと身体がだるくてね」

 と彼は言った。

 「大丈夫ですか」

 「うん、大丈夫。最近寝不足気味のせいなだけだから。ありがとう、平気平気」

 と彼はまた弱弱しく笑って言った。

 レジ横に置かれた今月のシフト表に目をやる。店長の名前がいやというほど目についた。彼はもう今日で二十日間休みがなかった。休みがないどころか、朝六時のオープンから夜十一時のクローズまで、ずっとシフトに入っている日もあった。

毎日の長時間労働。この生活で体調を崩さない人がいるはずがない。


 人手不足。新聞やニュースで目にするだけの、大きな枠の中で生まれた単語が、ありふれたカフェチェーン店で働く真面目な三十歳を苦しめていた。

体調が悪かろうとなんだろうと、ステップを踏みはずさない、完璧な店長に巨大な何かが鞭を打ち続けていた。彼を苦しめていた。

 どうしようもないやるせない気持ちが私の全身を巡る。まるで従順な聖犬のように働く店長を苦しめるなんて、神はあまりにも無慈悲ではないのか? この楽園のようなカフェでの苦しみは、私は許さない。ここはユートピアであるべきなのだ。それに値するはずなのだ。 

お客さんは今日もこの店で笑っている。火を吹かない戦場へと向かう英気を養っている。万人の万人に対する闘争。

 目に見えぬ神を心の中でののしりながら、私はステップを乱して店長に負担がかからなぬように、いつも以上に気を使ってダンスすることしか出来なかった。


 店の時計は午後九時五十三分をさしていた。お店を閉める十時まであともう少しで、店内にはもうお客さんは二、三人しかいなかった。店長がなるべく早くに帰れるようにと、私は早めに店締めの準備に取り掛かる。

 その時、お店のドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

 と私は顔をあげると、例の迷彩柄のハイキング帽を目深にかぶったおじさんがレジに向かって歩いてきていた。

 ああ、また会えた! 喜びと同時に不安が私の中で生まれた。彼は深々と生い茂る緑の中を流れる濁流のようだった。私の胸はドキドキと高鳴っていた。その鼓動はうるさいくらい私の耳に鳴り響いていた。

 

 彼のスーツは以前会ったときと同じものだった。枯葉色。彼はレジの前に立った。しかし、何も注文する素振りをみせず、黙ったままだった。

 「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりでしたらお伺いします」

 と私は彼に言った。なるべく声が緊張しないように努めたつもりだったが、ほんの少しだけ声が震えた。相変わらず目深にかぶられた帽子のせいで、彼の視線や表情は読み取れなかった。彼の持つ異様な雰囲気が、そっとカウンター内に入ってくるようだった。

 少し間をおいたあとで彼は口を開いた。


 「見るということは受動的な行為ではないんだ。それは極めて能動的な行為なんだ。人間はみな、大抵のものを見ている。でも無意識に、潜在的に見るものを選択してしまっている。君たちは生まれた時から見るものを選択して、時に選択させられて、見て見ぬ振りをずっと断続的に繰り返している。君たちは全てを視てはいない。そうしないと情報量が多すぎるからね。でもそれに慣れてしまっている。視るモノを固定化させてしまっている。何を視ればいいか、分からなくなってしまっている。いや、視るべきものをあえて見逃しているんだ。それでいいのかい。()()()()()()()()()()()()()()()


 重苦しい機械音。

 彼の声は人間の喉から発生せられたようには思えなかった。それはあまりにも乾いていて無機質だった。

 私と彼の間の空気は薄くなっているようだった。私は息苦しさを感じた。しかし、まず空気を震わせるはずの彼の声は私に向かってまっすぐに届いた。まるで私の身体を突き刺すように届いた。

 彼はそう言うとそのまま店の出口へと向かい、出ていった。彼は、数え切れないほどみた大人の歩き方とはどことなく違う歩き方だった。

 私の心臓はドクドクとなっていた。彼の姿が店の外の人波に消えるまで、私は彼の後ろ姿を目で追っていた。

 彼の周りもまた、時間の流れが違う気がした。彼のいる空間では不気味なほどに時の流れが遅く感じられた。

 その後、私はいつもは犯さない仕事のミスを多発させてしまった。いつもより気をつけて踊ろうと思っていたのに、私の調子は完全に狂い、ステップは滑稽な程に乱れていた。


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