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今日は一日何も予定がない日だった。
だからカーテンの向こう側が明るくなっても、私は何度も、何度も眠ろうとした。
しかし、いくら試みても、目の奥が冴えていてどうも眠ることができない。
私は仕方がなく起きてリビングに降りた。
私が寝ている間にこの世界の重力加速度が変化したのではないか、そう疑うほど、身体はひどく重たかった。Tシャツは汗が乾ききっておらず、べっとりと気持ち悪かった。
早朝に父、そしてその後に母とトモヤが朝ご飯を食べ、家を出ていく音がしていた。だから、リビングには当然誰もいなかった。
なんだか不思議な夢をみたな。
私は先ほど見た夢のことを考えようとした。
しかし睡眠不足のせいなのか、頭がひどく痛い。
冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出し、コップに注いだ。とぽとぽと水を注ぐ優しい音が響く。そして、冷蔵庫の前に立ったまま、私はゆっくりとそれを飲みくだした。
よく冷えた水が確かにゆっくりと身体の中に落ちていく。
キーンコーンカーンコーン。
遠くから小学校のチャイムの音が聞こえた。
炊飯器を開けると、朝に母が炊いたご飯が少し残っていた。
しゃもじでつつくと、それは弾力を帯びていて、冷たく、固くなっていた。食器棚からお茶碗を取り出す。ご飯を少しそれによそう。よそい終わった後で、それが自分のお茶碗でないことに気がついた。
うっかりしていた。白いつややかな陶器に、淡い青紫色の花びらのお花が大きく描かれているお茶碗。それはトモヤのお茶碗だった。有田焼で、父が佐賀県に出張の時に買ってきたものだ。私のはトモヤと色違いで赤色だった。
私は急にご飯が食べたくなくなった。手に持ったよそったばかりの冷えたご飯を見つめる。温かい炊き立ての時よりも、一粒一粒の輪郭がはっきりとして見える。
別にトモヤのお茶椀でご飯を食べたって構わない。でも何故だか急に、喉につかえを感じた。何だかご飯が到底喉を通らなさそうだった。喉に蓋が閉じてしまったかのようだった。
私はよそったばかりのご飯を炊飯器の中にそのまま戻した。ご飯粒がいくつかついたままのトモヤのお茶碗を流しにおく。
そのままよろよろとソファへと向かった。そしてどさっとソファに寝っころがった。
頭はズキズキと痛み、私はひどく疲れていた。
そのまま目をつぶってソファに横になっていたら、次第に眠気がやってきた。
ああ、ありがたい。私は心の底からそう思った。眠りはこの頭痛と身体の重さをどこかへと持ち去ってくれる。
私は穏やかに眠りに落ちていった。雪がどこまでも自然に大地に降りそそぐように、私の意識も眠りの世界へと舞い落ちていった。今度は何も夢をみなかった。
目が覚めると、壁の時計は十二時を回っていた。体を起こすと、眠る前とくらべ、身体はだいぶ軽く感じた。頭痛も消え去っていた。私の心は眠る前とうって変わって、ひどく晴れやかだった。
ソファから勢いよく立ち上がり、大きく伸びをした。こんなにも大きく伸びをしたのは久しぶりだった。伸びをすることはこんなにもすがすがしく、気持ちのいいことだったのか! どうして今までもっと伸びをしなかったのだろう。秋のふきぬけた高い青空が、私の中に入り込んでくるようだった。
ああ気持ちがいい。私の身体が元気に満ちるようだ。私は透き通る満足感を感じながら一通り節々をストレッチした。
ストレッチを終えると、私はお腹が空いていることに気がつく。
何か食べようと、キッチンへと向かう。炊飯器に残っているご飯を食べる気にはならなかった。もっと、するすると楽に食べれるものが食べたい。
何かを自分で作る気も起きないので、私は缶詰やカップ麺をストックしてある棚をあさり、その中からシーフード味のカップラーメンを手にとった。
コンロに火をつけ、やかんでお湯をわかした。ごとごととお湯を沸かす音が響く。
その音は、穏やかなリビングの静けさをより一層鎮めるようだった。
お湯が沸くと、カップに適量をそそいだ。麺が十分にほぐれるまでの三分間が待ち遠しく、二分と経たないうちに私は食べ始めた。
するすると食べた。
特に味は感じなかった。
カップラーメンを食べ終えると私は何だかひどく満足した。
食卓の椅子に座ったまま、しばらくぼんやりと、食べ終えたばかりの空のカップラーメンの容器をみつめていた。辺りは至って静かだった。
「散歩でもしようかな」
私は空の容器を持って素早く立ち上がった。
流しに容器を置いて、二階の自室へと向かう。
そして、Tシャツとジーンズに着替え、黒いショルダーバックを手に取り、リビングへと戻った。水筒にお茶をいれ、鞄にしまう。携帯、ハンカチ、そこらへんに置いてあった小説を鞄に突っ込み、ウォークマンを持って外に出た。
ドアを開けた瞬間、刺すような日差しと騒がしいセミの声が一気に迫ってきて、思わず目を伏せた。
リビングにいた時はこんなにも外は賑やかなことに気がつかなかった。空は雲ひとつなく、どこまでも高かった。
辺りを盛り上げるセミの大合唱をろくに聞かず、私は歩きながらイヤホンを耳にはめた。手に持ったウォークマンの画面をスクロールする。今日はあまり激しい曲を聞く気分にはなれない。
何の重みもなく流れるその文字たちを漫然と眺めていると、懐かしい文字の連なりが目に飛び込んできた。スクロールさせていた指を止める。昔、何度も再生ボタンを押した曲名がそこにはあった。
中学生の頃に好きだったバンドの曲。優しいブルース。
再生ボタンを押す。最後にこの曲を聞いたのはいつだっただろうか。
何年も前に、何度も何度も繰り返し聞いたこの曲は、とても心地よく私に染みわたった。
この曲は、当時同じクラスだった男の子がよく口ずさんでいた曲だった。彼は教室のロッカーから次の授業で使う教科書を取り出しながら、この曲のAメロをいつも歌っていた。
当時よっぽどその曲が好きだったのか、彼は一年間ずっとこの曲ばかりを歌っていた。そして歌うのは、いつも決まってAメロだけだった。
Aメロが終わると、またAメロの頭から歌い始める。
彼は変な奴だった。クラスの中心人物でもなんでもない、特別かっこいい人でも、頭がいい人でもない。ただひたすらにこの曲のAメロを歌う人。そんな彼のことが私は何だか気にかかった。
授業中も、休み時間も、無意識に彼の方を見てしまっていた。あのAメロがどこかからか聞こえてくると、すぐに辺りを見回して彼を探した。彼を見つけても、別段彼は何も面白いことをしていないのに。私も変だった。そして登下校中はその曲を何度も何度も繰り返し聞いた。
高校が離れ離れになり、彼とはそれっきりだった。
今彼は何しているのだろう。私と同じように、大学生になっているのだろうか。今でも彼はこのAメロを歌っているのだろうか。
別段彼とは「ただのクラスメイト」以上には仲良くはなかったので、連絡先も知らなかった。もし知っていたとしても、連絡することはなかったとは思う。
今思い返すと、多分当時の私は彼を好きだったのだと思う。当時は微塵もそうとは思わなかった。友達との恋バナの中で意気揚々と語る自分の理想のタイプと、彼はかなりかけ離れていた。けれど、この曲を聞くと、Aメロを静かに口ずさむ彼を盗み見る私の視点に戻る。心臓がどきっと高鳴って彼を振り向く私に戻る。何だか今この曲を聞くとこっぱずかしい。
あの時から、この曲は私の一部分だったのだ。
私はなんのあてもなく、最寄り駅に向かって歩いていた。
道には、どこかへとむかう大学生くらいの男女か、買い物袋を下げたおじいちゃんおばあちゃん、ママチャリに乗って颯爽と走る主婦っぽい人ばかりだった。
野良猫が私の前を早足で横切っていく。
とても真っ白な猫だった。
私は駅についた。どこへいこうかとしばらく駅の前で立ちつくしたが、私はなんとなく高円寺に行くことにした。
高円寺につき、周囲をぶらついた。歩いている途中に見つけた古着屋さんに適当に立ち寄ったり、ふらっと古本屋さんを物色したりして時間の中を泳いだ。
何かを買う訳でもなく、柄や色が個性的な洋服を眺めたり、薄く鉛筆で書き込みがある年季の入った古本を手に取っては棚に戻した。そして、店を後にし、またふらふらと歩き始める。その繰り返し。
照りつける日差し。私は途中疲れ果ててしまい、カフェで休憩を取ることにした。
洒落たカフェに一人でいくほどの金銭的余裕はないため、近くにあった安さが売りの大手カフェチェーン店に入った。
人工的な涼しさが私を迎え入れた。ちょうど昼下がりのティータイムの時間らしく、店内は混みあっていた。
楽しそうになにやらスマートフォンの画面をみせあう女子高生グループ。彼女達が座っているテーブル席の隣席がたまたま空いていた。
そこにカバンを置いて席をとり、私は財布だけを持ってカウンターへと向かった。
「Sサイズのアイスコーヒーを下さい」
と私は言う。
「店内でお召し上がりですか」
と彼は言う。
「はい」
「四百五十円です」
思わずまじまじと、彼の顔や行動を目ざとく見てしまう。そんな私に彼は居心地が悪そうだった。店員をこんなに注視する客は早々いないだろう。
私もカフェでバイトをしているためか、彼や彼の動きに注目してしまうのだった。どんな人が、どのように働いているか、興味があった。彼はちゃんとマニュアル通りである。
その店員は、はきはきと話すがたいの良い男の人だった。年は二十代半ば頃だろうか。しっかりした彼の雰囲気から、学生には見えなかった。
学生時代は、スポーツをやっていたに違いない。胸元の名前が書かれたバッジをみると、苗字の横にバイトリーダーと書かれていた。
彼によって風のように提供されたアイスコーヒーを受け取り、私は席へと戻った。
自分達の話に盛り上がっている女子高生グループの話を時折盗み聞きしながら、持ってきた小説を開く。
女子高生の話はいつだって面白い。彼女たちはいつだって例外なく、彼女達の世界の主人公だ。面白くて眩しい。
盗み聞きしながら、思わずふふっとこらえず笑ってしまった。慌てて咳をしてごまかす。彼女達はそんな私には気がついていないようだった。
おしゃべりは続いていく。私は本を持ち直し、小説の世界へと戻った。
小説の途中でふと、私は暫く携帯をチェックしていないことに気がついた。
小説を置いて携帯を見た。誰からもメッセージは届いていない。
SNSを開くと、タイムラインは絶えず寄せては返す波のように流れていた。私はろくにチェックすることもなく、そのまま携帯の画面を切った。
キリが良い所まで小説を読み終えると、それを鞄にしまった。
そのまま私は暫くぼんやりと座っていた。
周囲の楽しそうなおしゃべりが、溶かされ形を失って私の耳に届く。とても心地いい。
私は三分の一ほど残ったアイスコーヒーを一気に飲み干すと、席を立った。隣の女子高生グループはまだしゃべり続けていた。
「ありがとうございました」
店員達の声に押されながら店を出る。あのがたいのいい彼の声も混じっていた。
店を出る前にちらりと彼を振り返ると、彼はカウンター内で、手際よくコーヒーを入れていた。頑張れ、私の同志よ。
カフェに入る前より、日差しはいくぶんか弱まっていた。
鞄にしまっていたウォークマンを取り出し、私はまたあてもなく歩き始めた。
ハンドメイドのアクセサリーを扱うお店を出ると、辺りが暗くなり始めていた。何時だろうか。ショルダーバッグから携帯を取り出す。
小さめのショルダーバックに六百ミリリットルの水筒を半ば無理矢理入れているため、一旦水筒を取り出してからではないと携帯が出せない。
携帯をつけると、ホーム画面の隅に時刻が表示されている。午後七時半すぎだった。散歩に出たのが午後二時ごろだったから、途中休憩を挟んだ分を除いても、かれこれもう三時間半くらい歩いただろう。
そう思うと急にお腹が空いてきた。久しぶりに外食して帰るのも悪くない。
私はそのまま母に夕食はいらない、と連絡をした。
仕事帰りの電車の中なのか、「了解」と短い返信がすぐにきた。
空気はじっとりと湿っていて、時たま、すうっと流れるように吹く風が心地よい。
日中はあんなに晴れていた空は、いまや重たそうな灰色の雲に覆われていた。
私はふいに焼き鳥が食べたくなり、飲み屋が連なる通りへと向かった。
どこの居酒屋も賑わっていた。
駅に近いその飲み屋街は、声と光で溢れていた。
すれ違う若い数人のサラリーマンが、「今日は金曜だし、ぱーっと飲もうぜ」と笑いあっている。
「そうか、今日は金曜日の夜か」とついぽつりと独り言が出た。今日は日付も確認していなかった。
連なる店々から溢れでる賑やかな声を聞きながら歩く。その集合体としての明るく賑やかな声を聞いていたら、不思議とお腹が空いたという感覚は失われていた。
単にその賑やかな世界に一人で入っていく勇気がないことが空腹を忘れさせているだけかもしれない。
その声々と明かりにさらされていると、自然と心細くなった。
その心細さにそっとつけいるように、先ほどまですっかりと忘れていた今朝見た夢が甦ってきた。
どくどく、と心臓が脈をうち、夢の中での不安感が鮮やかに甦ってきた。
暗闇が迫ってくる。あの暗闇に浮かぶ一本道。有無を言わせぬ静けさ。
どんなに歩いたって君はどこにも逃げられないよ。
突然ハイキング帽をかぶったおじさんの声が脳内で再生される。私はその声を振り払うように頭を振った。
またか。またこの声。もう聞きたくない。やめて。
私は目をつぶってもう一回頭を振った。足は止まらずこの賑やかな通りを歩き続けている。
私はつきまとうその声に泣きたくなった。私はただ健やかな楽しい夢がみたいだけなのだ! 楽しい楽しい夢を。
私はなんだか泣きたい、泣き叫びたい気分になった。泣き叫びたい。助けてほしい。誰かに、どっかの誰かに!
私は楽しい夢が見たい! とびっきり楽しい夢でなくていい。ささやかで、穏やかな夢を見たい。そんな夢を下さい!
私は息を短く吐く。私はちゃんと前方に向きなおった。
足は相変わらず歩き続けている。
頬はぱりぱりと乾いていて、涙は一筋もなかった。
私は、飲み屋の連なりが途切れる所にたどり着いた。
そこから先は家々が多く連なる住宅街となっていて、歩いてきた方とは一変、静寂と暗闇が辺りを支配していた。
私は、今歩いてきた道をひきかえそうとした。
その時、すぐそばの道端に、一人の男が缶ビールを片手にしゃがみこんでいるのに気がついた。私は立ち止まった。彼は私に気がついた様子はなく、じっと空を見上げ続けていた。
彼は私と同い年くらいにみえた。
前髪が少し目にかかるくらいの少し長めの黒髪に、黒い緩めの半袖のシャツ、黒のだぼっとしたズボンに黒のローファーを履いていた。彼は全身黒ずくめだった。でもどことなく、不審者のような怪しい雰囲気はなかった。
彼の周りは、私がいる世界とは時間速度が違うと思った。ゆったりとした穏やかな時間を彼は身にまとっていた。
彼は私を理由もなく惹きつけた。
私は彼から目を離すことができなかった。私は彼をすがるように見つめていた。私の頭にはもう、誰の声も響いてはいなかった。
彼は私といる世界が違う。私と見えているものが違う。
直感的にそう思った。
私は彼のいるその世界に行きたいと強く思った。別の世界へ飛んで行きたい。ここではない世界に連れていってほしい。
思わず半分無意識のままに、私は彼の方へと一歩踏み出していた。
空からはもうすっかり太陽が消え、彼の姿は半分暗闇にとけつつ、もう半分は隣の飲み屋の看板の明かりで淡く照らされていた。
私はすいこまれたように、空を見上げ続けている彼から目を離すことが出来なかった。
道端で缶ビールを飲んでいる若者など溢れるほどいる東京で、珍しくもない光景のはずなのに、彼はなにか人を引きつける特別な魅力をもっているようだった。
近づく私の気配に気がついて、ぼんやりと空を眺めていた彼がこっちをみた。
「あ、ごめんなさい」
私はとっさに彼の方へと踏み出していた足を引っ込め、彼に謝った。
「いや」
彼は短く答えた。そして私の事を少し見上げるようにじっと見つめた。
そんな数秒の間のあと、彼は缶ビールをもっていない方の手で、おいでというふうに彼の座る横の地面をポンポンと叩いた。
彼の顔には何の表情も浮かんでいなかった。
けれど、どこからともなく漂う彼の穏やかさが、私にこびりついていたあらゆる不安や恐怖を包み込むようだった。そして和らげるようだった。
私は彼の隣にしゃがんだ。しゃがみこむと、不思議とすぐに心も体もストンと落ち着いた。まるで柔らかな布団にくるまったような心地だった。
夢のことも、ハイキング帽のおじさんのことも、泣きたかったことも、すべて忘れてしまっていた。私の心は清らかな小川のような、透き通った優しさで満ちていた。
彼はまた一人空を見上げていた。
私も彼に習って空を見上げた。
空には分厚い雲が広がっていた。
なんだか先ほどよりも重みを増しているように見える。しかし、その雲たちは、淡く灰色に光っていて、真っ黒な空を温かみのあるものにしていた。
そよそよと肌をなでるように、生ぬるい風がふいた。
彼は何もしゃべらなかった。私もまた何も話さなかった。
でも、私たちが共有しているのは、重たい沈黙では決してなかった。私たちは外部の世界から遮断された清い湖の底にいるようだった。静かに、静かに、透き通った湖の底に私達は座っているようだった。高く高く灰色の空を見上げながら。
私の耳はなにも音を捕まえてはいなかった。
しかし私は全身で音楽を感じているようだった。私の肌はざわざわと敏感に音楽を捉えていた。私は音楽に包まれていた。そう、彼の奏でる音楽に!
彼の隣では、時の流れが確かに違った。彼の時間からゆったりとしたメロディーが聞こえる。いや、違う。時間は彼の奏でる音楽の上で豊かに踊らされていた! 穏やかな生き生きとしたメロディーを彼は持っていた。私はそれを全身で感じる。私を蝕む不安は、彼の音楽を以て完全に消滅していた。彼のメロディーを吸い込むと、艶やかなみずみずしい青色がぱっと眼前に匂うようだった。
私はもう、ただ無機質な時の流れに縛られてはいなかった。ここには不規則なあのメトロノームは存在していなかった。私の心は紐が解けたように、彼のメロディーに導かれるように、自由に広がっていた。私は、私が世界の中心であるように感じた。この重たく光る空の下で、このちっぽけな私が、私こそが世界の中心だと思った。
彼の音楽は、あらゆるものを超越して私に降り注ぎ、私を包みこみ、また私を導くようだった。 しとしとと優しく葉に落ちる雨粒のようだった! 彼の音楽は本物だった。彼の存在が奏でる音楽は本物だった! 私の心体は全て粒となり、彼の音楽の上で穏やかに舞い落ちるようだった。これ以上どうやって言葉で説明ができよう? 真の音楽には音や言葉なんてチープなものはいらないのだった。 真の音楽は対面して初めてわかるものなのだった。それは全身で感じとるものだった!
彼こそが真の音楽奏者であり、音楽そのものだった。
私は暫くうっとりと空を見上げながら座っていた。勿論私の目は空を捉えてはいない。私の視力までもが音楽に陶酔し、どこまでも広がる宇宙を見ていた。
どれだけ時がたったのかはわからない。彼はゆっくりと立ち上がった。彼の動きに合わせてふわりと空気がなびく。
彼はまだ座ったままでいる私に小さく手をふると、賑やかな声と明かりで彩られた方面とは逆の暗闇に入っていった。
私は再びゆっくりと空を見上げていた。私は幻の中にいるような心地だった。私は今夜は夢をきっとみるだろうと思った。ぐっすりとよく眠れる夢を、私は見るだろう。
空は相変わらず柔らかに光る灰色で覆われていた。
◇◇◇
彼に会ったその晩は、私は夢を見ずにぐっすりと眠ることができた。しかし、その後も私は度々あの夢にうなされた。私は夢の中でいつも一人ぽつんとあの暗闇に包まれた道の上に立っていた。そして、私はいつもその一本道の上でどうしようもなく、歩き出す。
いつも、切れかかった街灯のそばには人影があった。帽子を被ったあの人影が。私はその人影を見るたびに同じ恐怖を感じた。
その人影が、あのハイキング帽を被ったおじさんであるかどうかはわからない。切れかかった薄暗い街灯では顔の判別がつかず、私はいつもその人影のそばにたどり着く前に目覚めてしまう。
でも、私はあの人影が確かにハイキング帽のおじさんであると確信していた。何故だかはわからない。根拠もない。でもあれは、確かにハイキング帽のおじさんなのだ!
そう思ってはいるけれど、夢の中での私の恐怖は消えない。私はいつも怖かった。なにが私を怖くさせているのかはわからない。
もう夢、それ自体が恐怖をはらんでいるのだった。あの夢の世界に入ったら最後、私は恐怖に支配されてしまう。
夢から覚めると、いつも私のTシャツはぐっしょりと汗で濡れていた。夢から覚めても、あの夢で経験した恐怖は消えない。日常生活の中で、その恐ろしさは突如としてぶり返される。
夢と現実の境目がどんどんと曖昧になっていくようだった。どっちが現実なのか、わからなくなってくる。夢の中でも、現実の世界でも私は怖かった。私は怯えていた。
そんな新しい恐怖までもがやってくるようになってきたときは、私は高円寺で会った彼のことを思い出した。彼の存在が奏でる音楽を思い出した。
それは記憶の中でも鮮やかに奏でられ、私の身体はあの優しい青色に満ちた。彼の音楽の色。私の心は、記憶の中であのメロディーに導かれるとそっと安らぐことができた。
彼の存在は、誰も知らない私の心の支えだった。