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私は真っ暗な道に一人ぽつんと立っていた。
真っ暗といっても本当の真っ暗ではない。
ほんの一筋の光もないところを暗闇と呼ぶならば、私はまだ本当の暗闇を知らなかった。
そこには弱いオレンジ色を灯している街灯が、二、三メートルごとおきに点々と立っていた。
暗闇の中で連なるその明かり達は、ぼんやりと頼りなげだった。
明かりまでもが闇に支配されたような雰囲気。
それは、ここは東京でないことを示唆しているようだった。
道はコンクリートで舗装されておらず、でこぼことした砂でできていた。この道は車一台通れるくらいの道幅だった。
私は山吹色のTシャツに紺色の短パン、それにグレーのスニーカーを履いていた。中学生以来私は短パンをほとんど履いたことがない。だから私が何故今、このような格好をしているのか奇妙に思われた。
でも、この格好にはどことなく親しみを覚えた。
何だか懐かしかった。
私の周囲には、全くひとけがなかった。
人の声どころか、物音一つ聞こえない。
あらゆる音をこの道が吸い込んでしまっているような静けさが、確かな重力に引っ張られていた。
私の耳はその重くるしさのせいで、飛行機に乗っている時みたいにおかしくなりそうだった。気圧の変化。
オレンジ色にぼんやりと照らされているこの道以外は、完全なる闇に包まれていた。道沿いには何かがあるのか、それとも崖になっているのか、見当もつかなかった。
どこかの家から漂う夕飯の匂いも、草木の匂いもしなかった。
私は一人ぼっちだった。
私は怖さを感じていなかった。
独りぼっちであるのに、不思議と心細さを感じなかった。
ただ静けさがべたりと肌にまとわりついているようで、それが何とも不快で気にかかった。
あまりの辺りの奇妙さに、私は怖さを感じる余裕がないだけなのかもしれない。
私はどうしてこんな所にいるのだろう。
ここは、私が住む町とは大きくかけ離れていた。私の住む町は、もっとネオンと音と匂いで充満していた。
闇が世界を支配するなんてことはない。
闇も、星も、いつも光たちに負けていた。
彼らの、光につけいる隙はいつだって一切なかった。
だから、記憶の中をどう泳いでみても、私はこの道に覚えはなかった。
でも不思議なことに、私はこの道に親しみを覚えていた。
ネオンであかあかと照らされているあの新宿と同じような親しみを感じていた。
何故だろう?
この重たい暗闇と静けさは全くの不気味ではなかった。
はるか昔に私はここに来たことがあるかもしれない、そんな気分にさえ私はなった。
しかし暫く立ちつくし、周囲を見渡していると、あまりの暗闇に段々と怖くなってきた。
一回怖いという感情が私の頭をよぎると、静かにぞっと鳥肌がたった。
この重厚な静けさに私の存在までもがかき消されてしまうのではないかと恐ろしくなった。
刻々と存在感を増してくる恐怖。それに突き動かされるように、私は早足で前に歩き始めた。前方には、闇に浮かぶこの道以外なにもなかった。
私の足音はこの世界には響かない。前へ前へと踏み出される足は重たく、まるで海の底を歩いているようだった。
私は前ヘ前ヘと、せっせと足を運ぶ。少しでも足を緩めると、どこかからか漂ってくる恐怖が、すっと私の身体に入ってきそうだった。
ひたすらに歩く。
現在どれくらいの距離を歩いてきたのか、どこまでこの道が続くのか、どこにこの道が続いているのか、私にはまるっきり見当がつかなかった。
歩く、歩く。
果たして私が進んでいる方向が正しいのか、そもそも正解不正解があるのかも分からない。
気がついたら暗闇に浮かぶ道の上に私が存在していた。
そしてただ目の前には道があり、歩いてきた後ろにも道がある、それだけが確かなことだった。
しばらくして私は、前方の遠くの方に人がいることに気がついた。
《人だ。人がいる。》
私の心は不思議なほど大きく弾んだ。
その人がいる場所の一番近くの街灯はきれかかっていた。
一層弱々しくなった光が、ついたり消えたりを繰り返していた。
その人影も同じリズムで暗闇に消えたり、ぼんやりと照らされたりで、はっきりとは見えない。しかし、その点滅するシルエットの身長と体格からして大人だろうと思った。
私は足を速めた。
この人は何かこの状況に対するヒントを持っているかもしれない。私になにか情報をくれるかもしれない!
期待で膨らんだ風船のように、私は身体が軽くなるのを感じた。
その人の元まで走っていきたい。
早くその人と話がしたい。
この状況を説明してほしい。早く、一秒でも早く!
それなのに、私は走り出すことが出来なかった。
走ろうとすると、波の流れに逆らっているかのように、私の身体は強く前方から押し返された。
これ以上足を速めることはできない。
この道には見えない速度制限があるようだ。
何故だろう?
段々とゆっくりと人影に近づいていく。
気持ちは身体を超えて急いている。はやまる気持ちに負けじと、じっと目を凝らしてその人を見る。
その人はこちらを向いているようだった。
帽子を深くかぶっているようだった。普通のスポーツキャップではないな。つばが広がっている。ハイキング帽かしら。ん、ハイキング帽?
心臓を撃たれたような衝動、
突如あのおじさんの言葉が頭の中に響く。
道は一つしかないんだ。
君はどこにも逃げられないよ。
あの無機質で不気味な声が私の頭の中に反響する。それは私の頭の中を超え、この暗闇の世界に広く反響した。
私は瞬間にその声に包まれていた。
私の期待で膨らんだ風船は突然に破裂し、私は恐怖に、きゅうっと心臓が締め付けられた。
私は立ち止まろうとした。
彼に近づいてはいけない。
そう思った。しかし、止まることはできない。
後ろから強い力が、止まろうとする私を波のように押し流してくる。
私は止まることができなかった。
私は流されるように、前に、前に、彼のいるところまで進んでいった。
怖い。待って。待ってくれ。
私は叫んだ。私の声にならないその叫びは誰にも届かない。
自分自身の肉体にすら届かない。身体は進む。足は止まらない。
私の恐怖は頂点に達していた。
その人影に近づいて行くことが怖かった。
自分の身体が自分の意思に反して動き続けていた。
そのことが何よりも怖かった。
私はもはや、私自身の肉体をも支配していない?
私は思いっきり自分の太ももを殴った。
鈍い痛みが体を貫く。足は止まらない。
私はもう一度足を殴った。ありったけの力を振り絞って。
止まってくれ。進まないでくれ。
願いをこめて私は殴った。
そこで私は目が覚めた。私はベッドの上に横たわっていた。
エアコンが稼働している軽やかな音が聞こえる。私のTシャツは汗でぐっしょりと濡れていた。
ああ、夢か
私は両手で顔を覆った。
夢から覚めても、私の心臓は不自然に鳴り響いていた。
まるで私の心臓は、まだあの世界に取り残されているようだった。
両手を顔から離し、その手のひらを天井にかかげた。
薄暗い部屋のなか、それらの輪郭はぼんやりとして見える。
私は天井に掲げたまま、ゆっくりと手のひらを開いたり閉じたりと動かした。
私の身体は確かにここにあった。
私は身体を起こした。
ズキっと右足に鈍い痛みを感じる。
私はパジャマのズボンを脱ぎ、右太ももを見た。
そこには大きな青あざが、何かの証拠のようにあった。
ベッドのそばの電子時計を見ると、まだ朝の三時だった。
私は身体を倒してまた横になった。私は再び眠ろうとした。
しかし、身体が変にこわばっていて、眠ることができない。
結局、私は一睡もできずに朝を迎えた。