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りんどう  作者: ハッカビ
3/15

 ミーンミーンと蝉がせわしなく鳴いている。

そんな外の世界から遮断され、人工的な涼しさに包まれた部屋で私はアイスを食べていた。

体育座りをした背中を壁にもたれかかせながら、溶けゆくソーダ味のアイスをかじる。

冷たくあまったるい味が口の中に広がる。

甘さが私に染み込んでいく中で、私の心は上の空だった。

 あのおじさんは一体何だったのだろう。

 私は、再び散歩中に話しかけてきたあのおじさんのことを考えていた。くたびれた迷彩柄のハイキング帽を被ったおじさん。

彼の異様な雰囲気、乾燥した唇から除いた黄ばんだ歯、そして冷たい無表情な声。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 私は色鮮やかにその時のことを思い出すことができる。

 それは、容器の隅に固まってこびりついた粉洗剤のように、私の頭の片隅にずっと居座っていた。

そのおじさんの存在は、さざ波のように私の心をざわざわと不安にさせた。


 「アイス、垂れてる」

とカズキが言った。

 ふと下をむくと、私の白いTシャツにうっすらと水色のシミが広がっていた。アイスを持つ手元を見ると、今にも水滴がもう一つ落ちようとしていた。

私は慌てて、その一滴が落ちる前にアイスをなめ、垂れたアイスで濡れた手をなめた。

 その間にTシャツの水色のシミはじんわりと広がり、それは真っ白な雲海に現れたのけ者の青空のようだった。

 やってしまったな。

水色のシミが広がるTシャツを苦々しく見つめる。私は内心舌打ちをした。母に怒られる。

 昔から食べ物をこぼして服を汚すと、母は「なんで汚すの!気をつけて食べなさい。あーあ」とひどく機嫌を損ねた。これは洗濯機で落ちるシミなのだろうか。

 昔、小学生くらいの頃、お気に入りの白いパーカーにべったりと食べ物をこぼし、大きなシミを作ってしまったことがあった。

あ、やってしまったと思ったが、洗濯機にいれればいいと、私は楽観的だった。洗濯機に入れれば、何でも元通りの真っ白に戻ると思っていた。

洗濯機はどんな汚れをも落とす、そう信じていた。

 だから翌日、洗い終わったパーカーを見た時にはショックを受けた。そこには依然として茶色い大きなシミがあったのだ。

洗濯機に入れてもそれは落ちなかったのだ。洗濯機は万能ではなかったのだ。洗濯機は何でも汚れを落としてくれるわけではなかったのだ。

 呆然とお気に入りのそのパーカーを握りしめたまま立ちつくす私に、母は怒らず「漂白剤で落としてあげるから、大丈夫、そのシミは落ちるからね」と優しく声をかけてくれた。

しかし、そういう問題ではなかった。母は何も分かってはいなかった。

シミが落ちるかどうかではなかった。万能だと信じて疑わなかった洗濯機が万能ではなかった、そのことが何よりもショックだった。

 いつもシミを作ってしまうたびにその時のショックがよみがえる。


 私は向かい側の壁にもたれかかってスマホをいじっているカズキをみた。

カズキの部屋は六畳一間で、簡易なキッチンが玄関のそばについていた。

 「あー、ラオスに行きてえなあ」

 とカズキが先ほどまでいじっていたスマホを足元に投げ捨てるように置きながら言った。

 「ラオス?」

 私は適当に相づちを打つ。

カズキは旅行好きなわけではないが、旅行に行きたい、とよく口にしていた。しかし、一緒に旅行しようとも言わないし、一人で計画を立てるわけでもなく、彼はそれを有言実行することはなかった。ただ旅行に行きたいとよく言っていた。

 実際に旅行に行こうと思うと、予定を立てるのはひどく面倒だし、お金がかかる。口にするのは簡単だし、自由だ。単に旅行に行きたいと口にしたい気分ってある。


 「ラオスに行きてえなあ」

 とカズキはもう一度そう言うと、フローリングがむき出しの床にごろっと横になった。

 「どうしてラオス?」

 と私はアイスの最後の一口を口に入れながら言った。それは歯にしみた。

アイスの冷たさのせいなのか、アイスのあまったるさのせいなのかはわからない。

 「おれ、あのプリミティブな感じが好きなんだよね。人間味が街に溢れてて。日本にはないものがある。」

 私は食べ終わったアイスの棒を近くにあるゴミ箱に捨てる。

プリミティブな感じ、人間味。カズキは行ったこともないその国の何を知っているのだろうか?

 人間味、人間味かあ。その言葉がやけに引っかかる。私は体育座りをしていた足を伸ばし、壁にべっとりともたれかかった。

私達は、その人間味とやらはもっていないのだろうか。

 ラオス、私は行ったことがないその国のことを考えた。

高校生の時に使っていた資料集に載っていたどこかの国の写真が頭に思い浮かぶ。その写真のなかでは、人々は裸足同然の足で歩き、お店が舗装されてない道路に繰り広げられ、野良犬も多く映っていた。

果たしてそれはどこの国の写真かもわからない。ラオスかもしれないし、ラオスではないかもしれない。でもそんなことはどうでも良いのだ。

 ラオスかあ、私は小さく一人呟いた。


 私達は大学三年生だった。社会の中には、大学三年生=就活準備という定式が踊っている。私達はその大学三年生だった。

 私の友達の多くは熱心にインターンシップや早期の就活をもう行っていた。私とカズキはいつまでも涼しい部屋でアイスをただくわえ、ただ架空のラオスを思い浮かべていた。

 彼はラオスにいくこともなく、ラオスとはなんの関わりを持たない仕事につくのだろう。

 大学時代の経験、学び、インターンシップ、語学力という文字に私達は照らされている。立派に光合成をして内定を早々に実らせる大勢の人の中、私は太陽のまぶしさに戸惑い、背丈を伸ばす方向すら分からずに、ただ地を這いつづけていた。

 「将来どうするんだよ」

 という会話は、私達には、ない。

 ラオスにただ曇った憧れを抱く彼を見る。

彼は決して自分の根を見てはいない。彼はどこに葉を広げるのだろう。どんな日光を求めているのだろう。

 彼のぱっちりとした二重、その瞳は部屋の蛍光灯の光に照らされ、鈍く輝いていた。

 

 カズキは床に転がっているテレビのリモコンを取り、電源スイッチを押した。電波を受信したテレビからは張りつめたキャスターの声が流れてくる。

どっかの国がどっかの国に向けてミサイルを打ったらしい。

テレビ画面にはミサイルの噴射映像が流れる。

何回もどっかで見たようなつまらない映像だった。

私にはミサイルの噴射など止めようもない。


 テレビから目を話すと、テレビの横の棚から分厚い背表紙が飛び出していることに気がついた。

私は四つん這いになってその棚の所に行き、その本を手に取った。「雄飛」、深い青色の表紙には金色の文字で大きくそう刻まれていた。

 「ああ、それ中学の卒アル。成人式で地元に帰った時にさ、懐かしくなって実家から持ってきたんだよね」

 とカズキが私を見て言った。

 「ふーん」

 卒アルを開くと、袖丈が合っていないぶかぶかな制服をきた少年少女の、柔らかそうなほっぺたをめいいっぱい引き上げた笑顔が沢山の写真の中で輝いていた。中学生ってこんな感じだったっけ。想像よりもずっと幼かった。

 私はパラパラとページをめくった。卒業アルバムの最後の方に、部活ごとの写真があった。半ば無意識にテニス部の写真を探し、見つける。

ユニフォームに身を包んだ男女がテニスラケットを手に持って整列して映っていた。彼らはみんなテニス部らしく、よく日に焼けていた。

 私のいた中学のテニス部より、ずっと人数が多かった。

彼ら部員の横には顧問の先生らしい五十代くらいのおじさんが映っていた。おじさんは夏物のワイシャツに薄茶色のズボンを履いていた。背格好は普通、唇は一文字に結ばれ、話しかけ難い雰囲気をまとっていた。


 あっ。

 私の頭の中に過去のワンシーンが鮮やかに甦る。

そうだ私は確かに昔一度、あのおじさんに会っていたのだ。

くたびれたハイキング帽をかぶったあのおじさんに! 私はそれを唐突に思い出した。

 確か中学生の時で、夏休みに入りたての頃だった。

私は午後からの部活に遅れそうで、学校へと急いでいた時だった。

その時にいきなり声をかけられたのだ。あのおじさんに。先日、吉祥寺で声をかけられた時のように。

 当時、私は遅刻しそうで焦っていて、適当にその場を流してしまった気がする。

あの時、彼になんと言われたんだっけ。おじさんが口を開くところで記憶が途絶えてしまっている。思い出せそうで思い出せない。あの時何て言われたんだっけ。私は頭の中で必死に過去をたどった。

 「成人式で久しぶりに会った時にも思ったけど、こうやって中学のときの写真見ても、みんななんも変わってねえなあ」

 とカズキは私から卒アルを取り上げて、パラパラとページをめくった。

 「うん」

 と私はうわの空で適当に相づちをうつ。私は頭の中で自分の過去を必死にたどる。

 彼が見ているページにちらっと目をやると、日本中の卒アルと同様、カラフルな写真たちがひしめいていた。

 あの時何て言われたんだ? 何て言われたんだっけ?

学校に向かって走っている私は彼に引き留められ、私はそこで立ち止まったんだ。確か空は真っ青で、驚くほどすがすがしく晴れていた。

走っていたせいで心臓が速くうち、大粒の汗が首から流れでていた私に、彼は何かを言ったのだ。

 ふと頭に、あのひどく無機質な声が甦る。

 ()()()()()()()()()()


 「道はひとつしかない。道はひとつしかないんだ。それを忘れてはいけない。沢山道が枝分かれしているようにも、沢山の道があるように見えるかもしれない。でも道はたったひとつ、まっすぐな一本道しかないんだ。そしてその唯一の道は引き返すことはできない。()()()()()()()()()()()()()()()()。覚悟を持って歩き続けるしかないんだ。それを忘れてはいけない」


 そう、彼はその時確かにこう言ったのだ。

当時、私は走ったせいで激しく脈打つ心臓を鎮めることに気を取られ、彼の言葉は全然頭にはいってこなかった。

彼はそう私に言うと、すぐに何の感情も浮かべないままどこかへと去っていった。

私は腕時計をちらっとみると、もう部活が始まる時間だったため、再び全速力で学校へと走り、それ以来すっかり彼のことは忘れてしまっていたのだった。


 そうだ、先日話しかけて来たのはあの時のおじさんだ。今ならはっきりと、確信を持って言える。彼のような異様な人は、二人といないはずだ。

 彼はどうして再び私に出会い、話しかけてきたのだろう。偶然なのだろうか。彼は手当たり次第に、私以外の人にも話しかけているのだろうか。彼は何者なのだろうか。

 「懐かしいなあ」

 カズキは一人で卒アルを眺めながらしみじみと呟いた。

テレビからは相変わらず、緊張感を装ったキャスターの声が流れていた。

 「…首相は今回のことに対し、今回の件は断じて容認できない行為であり、強く国際社会に非難すると述べ……」

 私はまたあのおじさんにまた会えるのだろうか。

枯葉色のスーツにくたびれた迷彩色のハイキング帽のおじさんに。

不思議なことに、二度も私に話しかけてきたその奇妙なおじさんのことを私は気味が悪いとは思わなかった。

 また彼に会えるだろうか、と私は思った。

私の心は不穏にざわざわとしていた。なぜだかわからないが、私はもう一度その奇妙なおじさんに会いたいと思った。

どこの誰だかもわからない、得体のしれない彼になぜだかまた会いたかった。

理由はわからない。

 枯れ果てた野原に一人迷い込んでしまったように、私の心を不安が吹き荒らし、私の心はたった一輪の花を熱望していた。


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