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「もう夏が終わっちゃいますね」
小岩井さんは洗い終わったコーヒーカップを棚に並べながら言った。
「でもまだまだ暑い日は続きそうだね。八月はあと少しで終わっちゃうけど。地球温暖化のせいか、最近秋が来ない気がするしなあ」
店長が手際よくサンドイッチを作りながら言った。
店内は客の出入りが途切れ、落ち着いていた。
人々は、コーヒーを片手に友達と談笑したり、本を読んだりと、思い思いに過ごしていた。談笑のBGMには、ジャズ風にアレンジされたレット・イット・ビーが静かに流れていた。
「でももう花火大会とか夏祭りとか、夏のイベントのほとんどが終わっちゃいましたし、私の気分はちゃんと秋に向かっていますよ。暑かろうが寒かろうが私にはしっかり秋がありますから。次のイベントは九月のお月見ですね! 毎年お団子を手作りして食べるんですよー」
そう言って小岩井さんはふふっと笑った。
その笑顔は、小岩井さくらという彼女の名前の通り、桜の花のように雰囲気を香らせた。
「月見団子手作りするの? 本当に本格的なお月見だな。さくらちゃんって結構四季とか 季節のイベント事を大切にするよね」
「四季は大事ですよー。日本文化大好きだし、せっかく日本に生まれたんだから、楽しま なきゃ」
「まあ、そうだけどね。今年も花火大会には行ったの?」
「もちろん行きましたよ。ちゃんと浴衣を着て」
私は浴衣を着た小岩井さんを想像した。
きっと水色の浴衣で、豊かな黒髪をひとつに結い上げるのだろう。
恐らく綺麗なうなじが覗き、その姿は花のように美しいはずだ。
「いいなあ、花火大会」
店長は遠い目をして心底羨ましそうに言った。
そんな店長を見て、私はぼんやりと思い出した。
先日、店長は仕事で夏休みがほとんどないと言っていた。大変な仕事だ。
彼は、先ほどから会話に入らずに黙々と食器を洗っている私に向かって話しかけてきた。
「寺ちゃんはいい夏過ごせた?」
ちょうどその時、お店の自動ドアが開き、お客さんがお店に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
と大きな声で店長と小岩井さんがぱっと明るくあいさつをする。私もそれに続いた。
先ほどまでの雑談をしていた様子から一変、三人とも笑顔を液体のりで貼り付けたような仕事の顔になった。
「アイスコーヒー、Mサイズ」
お客さんが財布から小銭をとりだしながら、少しぶっきらぼうに言う。
少し肌が焼けた四十歳くらいのおじさんだった。
外はかなり暑いらしく、彼の額には汗が浮かんでいた。
「かしこまりました。四百五十円でございます」
小岩井さんはレジを素早く打ち、はっきりとした早口で言葉を放った。
そして、さっと体の向きを変え、アイスコーヒーを入れはじめた。
ほれぼれとするような、とても無駄のない動きだった。
手は定められた目標物を一直線に捉え、足は半歩の無駄もなかった。
見事で完璧な動き、手足のステップである。
私はこのバイトを始める前に、何個か別の飲食店バイトを経験していた。
どこの飲食店だろうと、バイトを始めると、まずそれぞれの店で定められた専門的な動きを身につけなければならない。
カフェバイトの場合は、食器の洗い方、コーヒーの入れ方、それにレジ、フードの仕込み方などである。
仕事はまるでダンスのようだ。
最初は右も左もわからないその中で、とにかく教えられた仕事のステップの踏み方を頭にねじこむ。メモを取る。そして経験を通して体に覚えさせる。
最初は、頭で理解しているつもりでも、身体は思うようには動かない。スムーズには流れない。
いつ、どのタイミングで、どのように動き、何をすればいいかが、はっきりと見えないのだ。
でも、回数を重ねるうちに、カウンター内、その仕事場に、特有のリズムが流れていることに気づく。
お客さんには聞こえない、まるでモスキートーンのように響く特殊なリズム。
それは決して単調なリズムではない。
けれど、メトロノームのように、いや、それ以上に、正確さを強要してくるリズムだ。それは、とっても重要なリズムだった。
そのリズムを聞けるようになるまでは、私のステップはバラバラで、狭いカウンター内や厨房内で店員仲間とぶつかったり、すべきことの判断がつかずにオロオロとした。仕事はスムーズには流れない。
他のスタッフやお客さんに、時間と手間のロスという迷惑がかかった。
しかし、一旦リズムが聞こえ始めると、決められたステップをタイミングよく、きちんと踏めるようになってくる。
リズムのちゃんとした聞き方も、徐々にわかってくる。
そうすると、正しいダンスというものが見えてくる。
いつ、どんな時に、どのようにステップを踏めばいいかが、はっきりと見えてくるのだ。
その通りに身体は動き始める。
全てが、一切の無駄なく効率的に進んでいく。
この正しいダンスは、私にある種の快感をもたらした。
他では得られない特別な快感。それを仕事の充実感というのだろうか。
そして面白いことに、すべてのステップには、その成り立ちに理由があった。
「こうこうこうだからこういう風に動きなさい」。異論をはさむ余地もない。そこには論理的乱れも、無駄も一切なかった。
仕事はダンスだ。理詰めされたダンスだ。
古代から続くありとあらゆるダンス文化の中で、間違いなく最も合理的なダンスだ。
このダンスのあらゆる論理を知った時、私は感激した。
何て合理的なダンスなのかと。一つ一つのステップが、踊りが、前もってよく考え抜かれて出来あがっている。
それらは偉人たちの知の結晶なのだった。異論をはさむ余地もない。私の役目は、上手に踊ることだった。
時には他の店員と連携プレーをし、私達は社交ダンスのようになる。
他のスタッフと、リズムや息が合うとすごく気分がいい。しかし、少しでも息が合わないと大きなストレスがのしかかる。この人とはもう一緒に踊りたくないな、そんな風にすら思う。
完璧な踊りを手にする中で、私は笑顔も覚えたようだった。
どのように、とは説明がつかないが、その笑顔はいつもと違う筋肉を動かして作られる。
〝営業スマイル〟
この笑顔は、このダンスには必要不可欠なものだった。まるでダンスの時の神聖な衣装のように。
私は次第に、このバイトに居心地の良さを感じるようになっていった。
お店が混みあい、リズムが速まり、けたたましくカウンター内に鳴り響くほど、私のステップは軽快となり、私は我を忘れることができた。
私の心と頭は空っぽになることができた。携帯に段々と溜まっていく未読メッセージも、惰性的に開いてしまうSNSも、迫りくる就活、TOEICの点数も、すべて忘れることができた。
無となれるそのダンスに私は病みつきになり、いつからか、バイトが生きがいのようになっていた。
バイトがないと忘れられない。このダンスがないと、私は異世界へと飛ぶことができない。
私は毎日のようにこのカフェで働いていた。
バイトが終わったあとは、孤高の無を生産した充実感とお金が手に入った。
このカフェで一緒にバイトをしている小岩井さくらさんは、私と同じ大学生三年生だった。
彼女は、このカフェがある新宿の近くの大学に通っていた。
小岩井さんはとても可愛らしい人だった。
顔が特別美人というわけではない。けれど、少し儚げで優しさを湛えた瞳、ふっくらとした頬は和やかな可愛らしさを香らせていた。
その上、街角ですれ違ったら、半ば無意識に見つめてしまうような、人目を引く雰囲気を携えていた。鎖骨辺りで綺麗にワンカールしている髪は、黒曜石のように美しい黒色で、いつも艶やかだった。
彼女の性格はとても明るく、誰に対しても優しかった。
会話の中で、彼女が正面切って何かを否定するということはなかった。また、強く何かを主張することもなかった。
彼女はいつも笑っていた。
以前、彼女と兄弟の話になった時に、彼女は兄がいると言っていた。
そのためか、誰とでもすぐに、すっと懐に入るように仲良くなれる愛嬌を、彼女は持っていた。
きっと兄に甘やかされて育ったのだろう。
完璧で可愛らしい小岩井さんだが唯一、彼女の甘ったるさと平和ボケ感が時折私を苛つかせた。
いつだって彼女中心に世界は動いているわけではないのだ。時には戦争が突然に起こり得るのだ。いや、水面下では常に万人の万人に対する闘争が続いている。みんな隠すのが上手なだけなのだ。彼女はそれを分かっていない。
彼女はこのままの姿でどれくらい生き延びられるのだろう?
彼女はいつだって春の木漏れ日のように穏やかだった。
彼女の趣味が茶道と華道というのも、彼女のイメージをより確固たるものにさせていた。彼女は異性にとても人気があるに違いない。
彼女はまさに理想的な日本の女の子だった。
三時のおやつの時間の客足のピークが過ぎ、店内は再び落ち着きを取り戻した。私の耳にに鳴り響いていた例のリズムも落ち着き、私の体に意識が帰ってきた。
「で、寺ちゃんは夏は楽しめたの?」
と店長が先ほどまでパスタを茹でていた手を休めて聞いてきた。彼の顔は、何だか少し疲れてみえた。最近彼の頬が少しこけたような気がする。
「それなりに夏を楽しめたと思います」
と私は答える。特にどこかに出かけたという訳でもないが、私はこの夏に特に不満はなかった。
「寺ちゃんって彼氏いるんだっけ?」
と店長が何気なく聞いてきた。恋の話はいつでも誰とでも盛り上がれる万能な話ネタである。
「えーっと、いないです」
私は一瞬返答に詰まってしまった。何と答えればいいか分からなかったからだ。変な間をあけて意味あり気な返答をしてしまったと後悔したが、店長はさほど気にした様子はなかった。
彼氏は、いない。そこには何の偽りもなかった。
しかし、関係を継続的に持っている相手はいた。でも、カズキは所謂セフレなのかと聞かれたら、きっぱりとそう断言出来なかった。
傍からみれば、付き合っていない、親密で身体の関係がある人はセフレに分類されるのであろう。
しかし、彼の事をセフレと言われると変にざらざらと心に違和感が残った。
「一緒に友達とかとどっか出掛けたりしたの? 海とか花火とか」
「いや、特に特別なことはしてないですね。花火も見に行ってないし。」
今回の夏休み、私は本当に友達とも、カズキとも夏休みらしいことをしていなかった。
海にもバーベキューにも行っていない。基本的にバイトと読書と散歩で毎日が流れていっていた。
たまに、友達と近場でご飯に行ったりはした。カズキとも、一人暮らしをする彼の家で会うか、近場のお店にご飯を食べには行った。
別に休みだからといってする特別なことではなかった。至っていつも通りだった。
特に行きたい場所もないし、やりたいこともない。私には満足の夏休みだった。
でも、店長に聞かれて、カズキと花火くらいは一緒に行きたかったなとふと思った。
「そっかあ。私達ももう大学三年だし、来年の就活のための準備とか、インターンシップとか忙しいもんね。なかなか時間がないよねえ。でも八月は終わろうとも、大学生の夏休みはもうちょっと続くからね。まだ楽しむ時間はあるね。」
と小岩井さんは屈託のない笑顔で私に言った。
就活という言葉がちくりと私の心に刺さった。
「え、二人とも夏休みいつまでなの?」
と店長は手を休めずに言った。
「確か九月の三週目辺りから授業が始まるような」
と小岩井さんは言った。
「私も同じくらいです」
「いいなあ、大学生」
と店長はまた遠い目をしながら笑った。
店長は三十歳だった。しかし、その割には、もっと若くみえた。
大学生に間違えられることもあると本人も言っていたが、本当に彼は大学生のように見えた。
それは、彼の笑顔のためかもしれない。店長はいつもにこにこと笑顔を絶やさなかった。その笑顔は清廉で、誰にでも好印象を与えた。
しかし、時折その笑った顔は、どことなく月にうっすらと雲がかかるように影ってみえた。
店長は人に気を遣わさせずに、自分はさりげなく細やかなとこまで気を配るひとだった。そのためか、バイトから嫌われやすい店長という立場にも関わらず、主婦、大学生を含めたバイト全員と仲良くやっていた。
バイト先の店長や、嫌な先輩の話は大学生の大きな話のネタだった。
私も度々色々な友達から、彼らのバイト先の愚痴を聞かされていたが、私は全くその愚痴に共感出来なかった。
私のバイト先はあまりにも平和だったからだ。このカフェでの人間関係は至って良好で、悩みなんて存在しない楽園のようだった。
間違いなく、平和の象徴のような小岩井さんと森林のように優しく佇む店長のおかげだった。この二人を軸に、この楽園は成り立っていた。
私はこの二人を心の底から偽りなく尊敬していた。
この人たちが、この場所が、私は大好きだった。
「寺ちゃん、それ洗い終わったらドリンクの仕込みお願いできる?」
と店長は私に言った。
「わかりました」
店長は小岩井さんをさくらちゃんと呼ぶように、バイトスタッフ全員を苗字ではなく、名前かあだ名で呼んだ。寺島という名字の私のことは寺ちゃんと呼んだ。小学生以来のその呼び方がなぜだかずっと慣れず、呼ばれる度になんだか耳がくすぐったかった。
カフェが閉店する十時を回り、お店の掃除に取り掛かる。この時間はカウンター内に流れていた仕事のリズムもゆっくりとなる。店内に流れる心地よいジャズが、心なしか日中よりも大きく聞こえた。
仕事に時間の余裕はあった。
この時間はお客さんは全員帰っており、店長は発注をするために事務所にいた。
つまり、ありとあらゆる監視の目がなく、バイト達が羽を伸ばせるひとときなのだった。
「あー疲れたねえ。今日の三時頃めっちゃ混んだね」
と小岩井さんは調理器具を洗い流がら、少し大きめの声で言った。
「そうだね。疲れたね」
お店が混むのは別に嫌いじゃなかった。カウンター内を支配するリズムが速くなり、私はそれに合わせてステップを速く踏み踊るだけだ。
私はより無を感じ、無に近づいた分、仕事後の達成感は大きかった。
でもなぜか、私はバイト後は上手に笑うことができなかった。
カウンター内で踊る際の、どこか特殊な祈りの笑顔のせいかもしれない。
どうしてもバイト後に笑おうとすると、顔がひきつってしまうのだ。
帰宅後に好きなコメディドラマを見ても、上手く笑うことが出来なかった。
のりが乾いたあとのような、ぱりぱりとした笑顔しか作れなかった。
「明日からサークルの合宿なんだよねー。明日朝起きれるかな。」
と調理道具を洗い終え、カウンターの床掃除をしながら小岩井さんは言った。
「何のサークル入ってたっけ?」
と私は客席の床をモップ掛けしながら聞く。
「バドミントン。寺ちゃんはサークル入ってる?」
「いや、何も入ってない」
正確に言えば、大学に入学してすぐの頃、テニスサークルに顔を出していた。私は大してテニスは強くはなかったが、中高とテニス部に所属していたため、大学に入る前からテニスサークルに所属しようと決めていた。
私の通う大学には、テニスサークルが少なくとも四つあった。恐らく大学非公式のテニスサークルを合わせればもっと多いのだろうが、私は各サークルの体験期間にこの四つのサークルの中から選ぼうと決めた。
その四つのうちの一つは、完全に初心者が多く、弱いなりにも六年間真面目にテニスをやって来た私には物足りなかった。他の一つは、近くの女子大との合同サークルで、その女子大以外の女子は入れないことが暗黙のルールとしてあった。(これは、大学の食堂で一人でご飯を食べていた時に、近くに座る新入生らしい女子グループがそう話しているのを聞いて知った。私はそのサークルに体験に行くことすらやめた。)
また違うサークルでは、サークル体験時に顔写真を取られ、様々な質問が書かれた用紙の記入を求められた。
質問は十個程あり、自分の趣味から性格、酒の嗜好、恋愛観など多岐にわたる質問だった。この質問シートが一体何の役にたつのか、全く分からなかったが、それらを記入して提出した。
そのサークルは抽選制を採っているらしく、サークルに入ることができるか否かは後日電話がくると、サークル長らしい茶髪の男の先輩にそう説明された。
しかし、何日待ってもそのサークルから電話はこなかった。
このことを、入学式で知り合って以来、時々一緒にお昼ご飯を食べるようになった友達に言ったら、「そのサークル、顔選で有名だよ。まあブスでも面白い人は例外的に入れるらしいけど」と、コンビニで買ったサラダチキンを食べながら、さばさばと教えてくれた。
「顔選」。
聞きなれない言葉に一瞬キョトンとしたが、要するに美人しか入れない世界が現実にはあるということだった。
私は、ゆっくりとお茶を飲みくだすようにそれを悟った。私はそのサークルに参加したあの日に写真でブスと認定され、あの質問シートで面白みに欠ける人間と判断されたらしかった。
まあ、そんなこともあるかとあっさりと思えた人生で記念すべき最初の日だった。
万人の万人に対する闘争。
残りの最後の一つのサークル。
そこは他のサークルと違って人数も少なめで、経験者が多かった。
適当に対戦相手を回してテニスをする。
経験者中心ということもあり、全体的にレベルが高く、私はテニスを楽しむことができた。でも、私は大好きなテニスをしているのになぜか満足感が得られなかった。
そのサークルの雰囲気に少し無理してついていっていたからかもしれない。
とっておきのショートケーキに、ぽっかりと大好きなイチゴが乗っていないような、そんな寂しい物足りなさを感じていた。
そのサークル内に友達はできていたが、次第に私の足はそのサークルから遠ざかっていった。
他のサークルを探す気力もなかった私は、無所属のまま三年生となった。
「そうだ、合宿用のパーティーグッズ買わなきゃいけないんだった。バイトの前に買おうと思ってたのにすっかり忘れてた」
唐突にレジ内の金額をチェックしながら小岩井さんは少し大きな声をだした。
「寺ちゃん、新宿のドンキって何時までやってるっけ?」
「深夜遅くまでやってるんじゃない? 新宿だし。」
私はゴミ袋を縛りながら答えた。サンドイッチの食べ残しと、タバコの吸い殻の混ざった匂いが鼻をつく。
「そうだよね、新宿だもんね。深夜までやってるよねー。ほんと新宿って便利だし好きだな。夜遅くまで遊べるし、明るいし、いつも人はいっぱいで賑やかだし」
と小岩井さんは言った。その言葉には同意せず、私は縛り終えたゴミ袋を指定の場所まで運びながら話題を戻した。
「サークルの合宿、明日からなんだ? 今日夜遅くまでバイトなのに大変だね」
「そうなのー。明日大学に朝の七時集合なんだよね。だからパーティーグッズを明日の朝に買う時間がないー。バイト終わったらドンキに買いに行かなきゃ」
と小岩井さんは言うと、ふうっと大きく息をはいて伸びをした。
「よーし、終わったー。さ、店長が事務所から出てくる前に、ちょこっとお店のドリンクをいただこう」
そう言って小岩井さんはへへっと少しいたずらっぽく笑った。
その笑顔もとても可愛らしい。
彼女はカップにアイスココアをそそぎ、そこに豆乳を加えた。
「寺ちゃんは何飲む? このココア豆乳割り、おすすめだよ。抹茶ラテのベースを少し入れるのがポイント。本当にお店のメニューに加えて欲しいぐらい」
「じゃあそれいただきます」
大学生のバイトの楽しみの一つに、この閉店後に店のドリンクを少しばかり頂くことがある。
もちろん、勝手にお店のドリンクを飲むことは許されていない。そのため、店長が見ておらず、かつ掃除が定められた時間よりも早く終わった日だけに限ってできる、至福のご褒美だった。
とは言っても、稀なことではない。
店長はいつもやることが多いらしく、閉店後は大抵事務所にずっといるし、掃除は終わらせようと思えばいつでも終わらせることができる。(翌日のシフトに主婦のおばさま方が入っている時は、掃除をいい加減にはできない。掃除がきちんとできていないと、翌日、おばさま方にバイトの連絡用グループチャットで指摘されるからだ。だから主婦の方が入る日の前日の掃除は全身全霊で掃除に取り組まなければならない。世の主婦の方々は本当に隅々まで目がいき届くものだ。)
私達学生バイトは、学生だし許してくれるだろという甘えの下、こっそりと店のドリンクを飲む。
ちょっと悪い事をしているという背徳感を味わいながら、疲れた体に甘い水分を行き渡らせる。
この背徳感がなんともたまらないものだと以前小岩井さんが言っていた。
いつも真面目で、どんなことも丁寧に全うする彼女がそんなことを言うなんてちょっと意外だった。
小岩井さんと私は、ドリンクを飲みながら、「今日もお疲れ様」と顔を見合わせて互いにねぎらった。
店の時計は午後十一時数分前を指し、私達は「そろそろいこっか」と立ち上がった。そして、ドリンクを頂いた痕跡を残さぬよう自分達の使ったグラスを洗い、カフェの2階にある事務所へと向かった。
「お疲れ様です」
事務所のドアを開けると店長はパソコンに向かっていた。
「お疲れ様」
店長はパソコンから顔をあげてこちらを見た。彼の顔は、先ほどカウンター内に立っていた時よりも青白くやつれてみえた。
「先に小岩井さん着替えていいよ」
「ありがとう」
小岩井さんは事務所奥の更衣室へと向かった。
更衣室といっても事務所の一角がカーテンで仕切られたもので、一人分の着替えるスペースしかない。
「店長、お疲れの様子ですね」
私はパソコンを見つめる店長に声をかけた。
「うーん、今日はクレームがいっぱい来てるしね」
と店長は穏やかに困った顔をしながら言った。
このカフェチェーン店は、インターネット上でクレームを受け付けていた。寄せられたクレームは本社のチェックを通してから、クレーム先のそれぞれのカフェの店長へと伝えられる仕組みになっている。
「どんなクレームが来ているんですか?」
「色々だよー。こちらが反省しなきゃな、改善しなきゃなというものもあれば、どうしようもないことを理不尽に書いてくる人もいる。」
パソコンから目を話さずに店長は答えた。その顔にはやはり少し疲れた笑顔があった。
毎日毎日寄せられるクレーム。ネット上だけでなく、お店に立っている時に直接いきなり怒ってくるお客様もいる。
私もお店が満席であることに対して、理不尽におじさんに怒鳴られたり、注文されたドリンクを用意している時に、おばさんに「どんくさい子ね」と吐きすてられたこともある(その時の私のステップは完璧だったのに、だ)。
指摘されてありがたいクレームほど、お客様は穏やかに教えてくれる。過度に理不尽に怒っている人の言うことは軽く聞き流しておけばいい。
けれど、気にしていないつもりでも、心はちゃんと少しずつダメージを受けている。
入り込んだ虫歯のばい菌がえっちらほっちらと、自前のやりで少しずつ歯に穴をほっているように。
そして私達が自覚をした時にはぽっかりと心に虫歯ができている。
それは小さな言葉にも過度に反応し、ズキズキと心身ともに痛めつける。
私の素敵な店長が苦しめられていた。
大きなる見えない集合体に、彼は善とされながらも搾取されているようだった。
「おまたせー」
と更衣室から小岩井さんが出てくる。薄いピンク地に淡い水色と黄色の花柄のワンピース。
可愛らしいそのワンピースからは、綺麗な膝小僧が覗いていた。
身勝手なクレームをつける人たちに対する怒りが、私から一瞬で消し飛んだ。
彼女は至って純で、可憐だった。
彼女の前ではどんなに激しい怒りも屈服するように思われた。
入れ替わりで私は更衣室で着替えた。
狭く薄暗い更衣室。
私は、カフェの制服を脱ぎ、白いTシャツを着て、白のデニムスカートを履いた。
私は気がついたら白い服ばかりを集めていた。
別に白色が特別好きなわけではない。寧ろどちらかといえば、カラフルで派手な服が好きだった。
散歩がてらに古着屋さんを巡る時は、いつもど派手な色使いと柄の服に惹かれた。店内を何往復もし、何回も同じきらびやかな服を手にとる。
しかし、結局私は白い服以外を買うことは滅多になかった。
どうしてか、いつもいつもレジへと運ばれるのは白い服だった。
更衣室から出ると小岩井さんは事務所の壁にもたれかかり、親指で画面をスクロールすさせながら携帯で何かを眺めていた。
店長は先ほどと同じ姿勢で、パソコンを見つめたままかたかたとキーボードを打ち込んでいた。
青白く光る狭い事務所にその音はよく響く。
「おまたせ」
そう言うと小岩井さんは顔をあげた。
丁寧に塗り直されたリップが事務所の蛍光灯の光で艶やかに光った。
私も着替えた時にリップを塗り直せばよかったと後悔した。
「お疲れ様です」と二人口々に店長に挨拶をして事務所を出る。
事務所のドアを閉める時、店長のため息が聞こえたような気がした。
バイト上がりは大抵その時一緒にシフトに入っていた人と一緒に帰る。
バイト同士の付き合いがほとんどないところもあるらしいが、このカフェのバイト仲間はみんなプライベートでもたまに集まるほど、比較的仲が良かった。
今日きたお客さんの愚痴を言ったり、大学の授業をいくつ休んだとかたわいもない話をしながら新宿駅へと向かう。
恐らくもう時刻は十二時をまわろうとしているのに、相変わらず新宿駅は光と声で溢れていた。
駅の改札を入ろうととした時、「あっ」と小岩井さんは声をあげた。
「そうだ、パーティーグッズ」
「あ、そうだった。買わなきゃじゃん」
「すっかり忘れちゃってた。うーん、今から行くのめんどくさいなー。でも、もう今しか
もうドンキに寄る時間ないしなー。うん、行ってくるね。寺ちゃんは先帰ってて。お疲れ、
またね」
小岩井さんは今来た道を引き返えそうとしながら、私に向かって手を振った。
「わかった。気をつけてね。お疲れ」
私も彼女に手を振った。
小岩井さんが駅の出口へと急ぎ足で引き返していくのを見送ると、私はせわしなく人が吸い込まれていく改札をくぐった。
背広姿のサラリーマンを見て、私は先日会ったあのくたびれたハイキング帽を被ったおじさんのことを思い出した。
最近時間があればそのおじさんのこと、そのおじさんが言ったことが自然と頭に浮かんできていた。
鬱陶しいくらいにその出来事は、私の意識を離してはくれなかった。けれど、バイト中だけはすっかり忘れていた。
さすが私の楽園である。
どっとバイトの疲労が私におしかかってきた。私はそのおじさんのことを、その仕事の余韻のままに暫く忘れておくことにした。
中央線のホームへと向かいながら、リュックサックからウォークマンを取り出す。ホームへとつづくエスカレーターにのりながら、空回ったイヤホンをほどいて耳にはめた。
最初にどの曲を聞くかはすごく迷った。迷わずに直感的に曲を選び、聞き始める日もあるが、迷ってしまう日はとことん迷ってしまう。
イヤホンを耳にはめたまま、ウォークマンに入っている曲一覧を何往復と見返す。
そうこうしている内にホームに電車が入ってきた。
乗った電車がちょうど動き出した頃に、やっと聞く曲を決めた。
今流行っているバンドの曲だった。
何人かの友達がSNSでこの曲が良いと紹介しており、流行りなら聞いてみるかと思ってCDを借りてきたやつだった。そして一度聞いてみたら、とても私好みの曲だった。
軽やかなシンセサイザーの音が私の耳を埋め尽くす。
電車が何駅か先の駅のホームへと入り、止まる。
「高円寺―高円寺―」
そのアナウンスは、私の耳には届かない。
数人が乗り降りをした後に電車のドアがしまり、再び電車は動き出す。
その流行りの曲は私好みのはずなのに、まるで心の上澄みのように、疲れた体に深く沈んできてはくれなかった。