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⒕
家の前に着くと、部屋の明かりはついていなかった。道路に面する我が家の窓は真っ暗だった。両親は恐らく今日も残業なのだろう。トモヤは今日は塾がある日なのだろうか。私は今日が何曜日なのか思い出せなかった。今日も、新聞もニュースも見ていなかった。
玄関で無造作に靴を脱ぎ、リビングへと続くドアを開ける。しかし、私はリビングに入ることが出来なかった。私は入り口に立ったまま動けなくなったのだ。リビングは薄暗く、誰もいない。そんなことは窓から明かりが見えなかった時から分かっていた。
なのに、リビングはどこかいつもと違って見えた。リビングが、そこにある全てのものが、急にとてもよそよそしく見えた。まるで全てが、いつも使っている物たちが、博物館のガラスケースの中に整然と並べられた骨董品のようだった。そこには、あるはずの日々染みこんだ生命の温もりが感じられなかった。食卓の上に置かれた私とトモヤのコップは、コップではなく、ただの冷たい陶器のようだった。まるでそれらは、今まで一度も人の手のぬくもりを感じたことがないように、薄暗い部屋の中で冷ややかに佇んでいた。昔、人の手の中でかたどられ、熱のなかで生まれたことすらも忘れているようであった。それらは文脈から切り離され、ぽつんと投げだされた言葉のような、寂しさと不気味さをまとってテーブルの上にただ存在していた。そのテーブルもいつもより黒々としてみえた。
この部屋の空気もいつもより重々しかった。この部屋だけぐんと地球に強く引っ張られているのではないかと思うほどだった。
壁にかかった家族写真はいつもより色あせてみえ、私達家族よりも、後ろに映った木々の鮮やかさが目立っていた。写真の中の笑顔は、どこか凍り付いて見え、笑った瞬間に冷凍庫に入れられ、急激に冷やされたようだった。
生活を彩どっていた何かが消えていた。この部屋はもう私に安心感を与えてくれる場ではないように感じた。どうして。どうしたんだろう。私? 私がおかしいのだろうか? これはただの私の思い違いなのだろうか?
私は怖かった。いきなり私の居場所を、私の安全地帯を奪われたように感じた。怖い。私は自分の足が地についていないように感じた。怖い。この重苦しい部屋の中で、足は気をぬけば今にも震えだしそうだった。
私は助けを求めたかった。しかし、どこに何を言えばいいのか、何を訴えればいいのかわからなかった。《私のリビングを返して》。そんな意味のわからないセリフが私の頭をぐるぐると駆け巡った。
電気すらつけることができずに、陽の光を忘れてしまったかのような部屋を眺めていた。廃墟、そんなものよりもずっと恐ろしかった。廃墟になる前に、ちゃんと死ぬまえに、血を抜かれてしまったような、そんな部屋が私の眼前に存在していた。
どれくらい立ちすくんでいたのかはわからない。タンスの上に置かれた時計は動いていたが、秒針の音は私の耳にはまるで届かなかった。でも間違いなく時計は動いていた。時間は流れていた。時間は止まることはない。そこに例外はないはずだ。
「ピーポーピーポー」
遠くから救急車のサイレンの音が聞こえる。その音で、私の身体は突然呼吸を思い出したように大きく息を吸った。
勢いよく息を吸ったせいで、大きく咳き込む。
自分を縛っていたものが解け、私は身が軽くなったのを感じた。
逃げよう。私は直感的にそう思った。私の鼓動は息をふきかえしたように速くなり、それは私の体を打つ度に逃げろ、逃げろ、と私を急かした。怖い。逃げよう。私を波打つその声は次第に強くなっていた。怖い。何かが迫ってくるように感じた。何かが私を覆うように迫ってきている。一刻も早くこの部屋から逃げ出さなくては!
私は玄関に戻り、急いで靴を引っかけて家を飛び出した。夏の湿った匂いが飛び出した私を抱きとめた。ああ、じとっとした生命の香り。
走る。住宅街を駆け抜ける。角を曲がる。走る。ただひたすらに家から逃げるように走った。道にひとけはほとんどなかった。まるであの夢のようだ。
道路には車も少なく、信号なんぞ無視して走った。白々とした街灯、時折現れるチカチカと光るお店の看板。私は固いコンクリートの地面を思い切り蹴る。苦しい。息が苦しい。全身に鳴り響いていた逃げろという声は、いつのまにか聞こえなくなっていた。ただ息苦しさが私を支配し、地面を強く蹴る足の感触だけが私と現世をつないでいるようだった。私は走ることをやめなかった。どこからともなく湧くエネルギーが私の足を前へ、前へと進めていた。
ざわめきが聞こえる。
ふと顔をあげたら、私は最寄駅についていた。改札を抜け、ホームへの階段を駆けのぼった。ホームへの階段の最後の段に足をかけた時、ホームに止まっていた電車の扉が閉まった。
私の目の前でその電車の扉が閉まった。そして、それは静かに出発した。決められた時刻通りにそれは発車した。私はホームの上で息を切らせながら、電車が目の前を走り去っていくのを静かに眺めた。
ふう、ふう、と速まる呼吸を鎮めながら膝に手をつく。ああ、息が苦しい。
腰に手をあてて、駅の天井を見上げた。バクバクと心臓が音をたてている。ふっと笑みがこぼれた。
私は次の電車が来るのをじっと待った。それは十分ほどで到着した。電車に乗る。
どこに行くかは決まっていた。
「高円寺、高円寺」
アナウンスとともに私は電車を降りた。階段を降り、改札を抜ける。
私はゆっくりと飲み屋が連なる通りへと向かった。相変わらずスーツ姿の人々で溢れている。
やはりあの場所に、彼はいた。
飲み屋街が終わりを告げる明暗の境に、彼は今日もちゃんといた。今日も彼は缶ビールを片手に路肩に座り込み、空を見上げていた。
私は歩調を緩めずに彼に向かって行った。彼は空から目を離し、私を見た。何も表情が読み取れない顔だった。しかし、彼の瞳は、湖のような静かな優しい青をひたひたとたたえていた。
私は彼のそばに立ちつくしたまま、じっと彼を見下ろしていた。彼の奏でる音のないメロディーが、するすると私を包みこんでゆく。ああ、青が香る。
すると、ぽつぽつと雨粒が空から落ちてきた。まるで大人が泣きはじめる時のように、ゆっくりと。
彼はそっと立ち上がった。
「雨宿りしようか」
と彼は言った。彼はいつものように、静かで穏やかだった。何も言わなくても、私の心を
わかっているような気がした。
彼はついておいでと、ゆっくりと駅とは反対方向の暗い中を進んでいった。私は黙って後ろから彼についていった。途中で右に曲がって家々が立ち並ぶ細めの道へと入った。雨はしとしとと、次第にその足を強めていた。
五階建てのアパートに彼は入っていった。錆びついた手すりのついた階段を上る。エレベーターはないらしく、アパートは築四十年といった所だった。
四階につくと彼はドアが立ち並ぶ廊下を進み、一番奥のドアの前で立ち止まった。水色に少し黒を混ぜたような、濁った色の扉だった。彼はポケットから鍵を取り出してドアを開けた。
「どうぞ、あがって」
と彼は私のためにドアを開けてくれた。
「お邪魔します」
といって私は玄関へと入った。
人が一人入れるくらいの小さな玄関で、靴は一足も置かれてなかった。私は履いていたスニーカーを脱ぎ、玄関に上がった。玄関を上がるとすぐ右手にはキッチンがあった。小さな冷蔵庫が置かれ、二つあるコンロは綺麗に磨かれていた。
「奥に進んで」
と靴を脱ぎ終えた彼は言った。
キッチン兼廊下を進んだ突き当たりには扉があり、そこを開けると六畳くらいの部屋があった。
「適当に座って」
彼は部屋の電気をつけながら入り口で立ちつくす私に言った。
ほんのりと部屋が明るくなる。それでも、電気をつけても、部屋はまだ薄暗かった。
「部屋、薄暗いね」
と私は立ちつくしたまま、呟くように言った。
「本当はもっと明るくできるんだけどね。いつもこのぐらいの明るさに設定してあるんだ」
と彼は言った。
「ちょうどいい」
私は小さく呟いた。止まったはずの涙が一粒、私の目からほろりと落ちた。
彼の部屋は物が少なく、殺風景だった。部屋の隅には中ぐらいの大きさの本棚、その本棚の隣の棚には、レコードプレイヤーが置いてあった。部屋の中心には小さな座卓。それくらいしか物がなかった。レコードプレイヤーはあるのに、なぜか肝心のレコードは辺りを見渡しても、どこにも見当たらなかった。
私は座卓のそばに腰を下ろした。座卓のまわりにはカーペットが敷かれており、ふさふさとしたそのやわらかい触り心地は、私に安心感を与えてくれた。座り心地もよかった。
彼は私にタオルを貸してくれた。私のTシャツや髪の毛は、雨でしっとりと濡れていた。
彼もタオルで頭を軽く拭いていた。そして、座卓を挟んで、私と向かい合うようにして座った。
紺色のカーテンで閉めきられたカーテンの向こう側からは、さああっと細かい雨がしたたかに降る音がしていた。世界中のあらゆるものがその音に耳を澄ましているかのような、すべての音を引きつけてしまうような、そんな優しい雨音だった。
私と彼は向かい合ったまま暫くその雨音に耳を澄ましていた。部屋は彼のまとう音楽で満ちていた。時間は、彼のメロディーに乗ってくつろいでいた。
彼の存在が震わせるその音楽は、そっと私の身体にも染み込み香るようだった。私の混沌とした脳内はほぐされ、そして癒されていった。
「レコードはどこにあるの」
と私は壁際に置かれたレコードプレイヤーを見ながら彼に聞いてみた。
「レコードは置いてないんだ」
彼もレコードプレイヤーに目をやった。私はレコードプレイヤーを見つめる彼の横顔を見た。綺麗な長くて黒い睫毛。カズキと同じ、とてもつややかな綺麗な睫毛だと思った。
「全部壊してしまったんだ」
彼は誰にいうわけでもなく小さく呟いた。
私はレコードプレイヤーがのっているからっぽの棚のなかに、小さな花瓶がぽつんと置かれていることに気がついた。
「あ、お花」
青紫色の鐘型の5センチほどの花。それらが二輪、シンプルな白い小さな花瓶に生けられていた。世界中のあらゆる紫、青色の花びらを水に溶かしたような色。みずみずしさと儚さを、その花は鮮やかにまとっていた。花の重みでそれらは首を少しもたげていた。
ああ、これは前に彼が持っていた花だ。私は思い出した。彼が言っていた通り、それはちゃんと部屋に飾られたのだ。
「リンドウ」
と彼は言った。
「え?」
「リンドウ。このお花の名前」
「そうなんだ」
「そう。俺の一番好きな花なんだ」
私はその青紫色の花を再び見た。愛しい青。
そうだ、この青だ、この青なのだ。今、はっきりとわかった。
彼の音楽はまさしくこの青だったのだ。このリンドウの青。彼の音楽を吸い込むとぱっと眼前に広がる色。
この部屋で、その青は優しく広がっていた。この部屋は、このリンドウの青で満ちていた。
「リンドウ」
と私は静かに呟いた。その声はこの優しい空間にそっと溶けていった。
雨音がざあざあと降る音だけが部屋に響いていた。私達はその雨音に耳を澄ましながら、しばらくそのリンドウの花を見つめていた。
「君はどこにも逃げられない」
静かに彼は呟いた。彼はまるで秋風のような穏やかな無表情を浮かべていた。つややかな長い睫毛は少し伏せられていた。
「僕も、君も。どこにも逃げられないんだ」
彼は静かに言った。雨は変わらずざあざあと降り続いている。
私は彼の顔を見つめた。柔らかい風に吹かれたように、私の心は揺れた。それは少し肌寒い風だった。秋に吹くような、哀愁漂う風だった。でも、必要な風だった。求めていた風だった。知っていた。私は知っていた、その風を。待っていた、待ち望んでいた。軽い絶望に押しつぶされながらも。
そう、私はその風をちゃんと真正面から見据えて受け止めればいいだけだったのだ。逃げていた。恐れていた。怖かった。
でも、今なら私はその風を受け止めることができる。彼も同じ風に吹かれているのなら、それはとても愛しい風になる。秋に必要不可欠な、風になる。毎年秋になると、どこか親しみをこめて思い起こされる、あの風になる。
雨が地面を叩く音が窓越しに聞こえる。それはざあざあと音を立てていた。
どのくらい時間が経ったのかはわからない。いつの間にかカーテンの向こう側から、雨音が聞こえなくなっていた。彼は立ち上がり、カーテンを開けた。外は真っ暗で、家々の窓に灯る暖かいオレンジ色がまばゆかった。
「雨、あがったみたい。駅まで送るよ」
と彼は私の方へ振り向いて言った。
私は立ち上がった。彼の部屋を出る時、リンドウの花を一度振り返って見た。それは変わらず、鮮やかな優しい青だった。
私達は彼の家を出て、駅まで歩いた。住宅が並ぶ暗い道を一回左に曲がり、閉まったお店やマンションが並ぶ通りを歩く。目の前が明るくなり、駅から続く飲み屋街の始まりにつく。
まだ賑やかさが残る明るい通りをゆっくり歩き、駅についた。
駅につくまでの間、私達は黙ったままだった。私を構成しているあらゆる糸という糸が緩むような沈黙だった。彼は時々歩きながら空を見上げていた。私は空を見上げながら歩く彼が、電柱や道路に置かれた店の看板にぶつからないものかと少し心配になった。けれど、彼は一回も何かにぶつかる気配すら見せなかった。私も彼に習って空を見上げながら歩いた。
「今日はありがとう」
私は別れ際に彼に言った。普段すこしこっぱずかしくてなかな言えない言葉が、すっと声になった。
彼はうなずくと、ひらひらと優しく手を振った。彼の表情は大きく動かない。でも、この時は、彼がすこし微笑んでいるような気がした。
私は改札をぬけてホームへと向かう。ホームの電光掲示板をみると、時刻はもう十一時を回っていることを知った。私の中には、もう十一時か、という気持ちとまだ十一時かという気持ちが混じっていた。
彼と一緒に過ごした時間は、時が止まったまま時の流れに流されていたような、そんな優しい矛盾を抱えた時間だった。
彼に会うことはもうないかもしれない。もう会えないかもしれない。彼はこれからもあの場所にいるだろう。でも、私はもうそこには行かないような気がした。
でも、会わなくてもそれでいいような気がした。会わなくても大丈夫な気がした。彼は、見えなくても、昼も夜も必ず空で輝いている星のようだ。私は星空のないここでも彼の姿は見える気がした。目を閉じればすぐその姿は浮かび、風に乗って彼の音楽はそっと匂う。私は目を閉じて深呼吸する。それだけでいつでも彼に会える。彼の青色の音楽はいつでも私とともにある。
「よし、」
と一人小さく呟いて電車に乗る。車内の光が、いつもよりきらきらと眩しくみえた。




