13
⒔
泣いたまま寝落ちしていたらしい。気がついたら時計の針は午前十一時を指していた。
私は横になったままぼんやりと天井を見上げていた。カーテンに目を移す。その隙間からは、真っ白な外の光が溢れ出ていた。
身体がだるいわけではないけれど、何だか起き上がる気にならなかった。私は再び天井をぼーっと見つめ続ける。薄暗い天井が、どこかいつもより低く感じた。
寝落ちしてしまう前は、あんなに高円寺の彼に会いたいと思っていたのに、会いたいという気持ちはぽっかりと抜け落ちてしまっていた。心も頭もすっかり空っぽのようで、何だかもうどうでもよかった。
実は、彼に初めて会ったあの日以来、私は一度だけ高円寺のあの場所をもう一度尋ねたことがあった。友達と新宿で遊んだ帰りに、一人で高円寺に寄った。電車に乗っている時に、不意に彼に会いたくなった。そしてそう思った時には高円寺で途中下車していた。
彼がそこの場所にまたいるという確信はなかった。でも、そこにいけば彼に会えるような気がした。
彼はいた。初めてあったときと同じように。飲み屋街の終わり、明暗の境目に、彼はしゃがみこんで空を見上げていた。相変わらず流れる彼の静謐な音楽。
私は彼の隣に黙って座り、同じように空を見上げた。彼は何も言わなかった。
彼はその日、花を二輪持っていた。花屋で買ってきたばかりらしく、それは透明なビニールに包まれていた。
私がそれを不思議そうに見ていると、
「部屋に飾るんだ」
と彼は言った。
それは鮮やかな青色の花だった。青紫に近い、深い青。
それは、オレンジ色に光る居酒屋の電飾に染まらず、綺麗な青を保ち続けていた。
その日も、夏の終わりらしい厚い雲が空を覆っていた。雲たちの温かい灰色で夜空が温もりを放っていた。生ぬるい風が吹く。
今日もたぶん彼はあの場所にいるだろう。
体を起こして、携帯を手に取る。新着メールが一件きていた。それはカズキからだった。
画面をタップしてメールを開く。そこには、「今日会わない?」と絵文字もないそっけない文章があった。
私はゆっくりとベットから立ち上がった。自然とため息が出る。
リビングに降りて、お水を飲んだ。洗面台に行き、蛇口をひねる。蛇口から水が流れる音が何だか耳ざわりだ。顔をすすぎ、水を止める。
顔をあげると、電気もつけてない薄暗い部屋、大きな鏡の中に私の顔が静かにあった。水がぽたぽたと顎を伝って落ちていく。私はその様子をじっと見つめていた。
顔を拭き、二階の自室へと戻ると、適当な服に着替えた。
いつものショルダーバックに、携帯と財布を突っ込む。そして私は家を出た。
駅に行って、電車に乗った。電車に乗った後で、カズキに返信していないことを思い出した。
めんどくさいな、そう思いながら携帯をポケットから取り出す。「今から行く」とそっけない文章を返信した。
車窓の景色は流れていく。ああ、今日は天気がいいみたいだ。流れる景色を追いかけるように、私の瞳も左右に揺れる。
電車を降りると、もう何度通ったか分からないカズキのアパートへと続く道を歩く。部屋の呼び鈴を押すと、すぐにカズキがドアを開けた。
「やっほー」
カズキは灰色の上下のスウェットを着ていた。
「やっほー」
と私も返した。
カズキの部屋に入る。すぐにふわっとした甘い香りが私の鼻をくすぐった。
ん、何だかいつもと違う。
香水の匂い。カズキは香水を付けない人だ。ましてやこんな甘い香りなんて付けないだろう。
ああ、間違いなくこの香りは女の人の匂いだった。
カズキの部屋に入りながら、私の頭はこの甘ったるい匂いの中で冷静に働いていた。キッチンの流しの中には、まだ洗われていないコップが二つ置かれ、麦茶のペットボトルが冷蔵庫から出しっぱなしだった。
ああ、昨晩だれか女の人がここに来ていたのだろう。そして朝早くにその女性は帰ってしまったのだろう。私の女の勘がそう結論づけていた。
そして、その女性が朝方につけた香水がまだ霧雨のようにこの部屋に漂っているといったところだろうか。
私は床に腰を下ろしながら淡々と状況を分析し続けていた。彼は、彼女が帰った後に私に連絡してきたのだろう。寂しがりやのカズキなら十分にありえることだった。この人は、四六時中誰かといないと駄目なのだ。
床に座り、あぐらをかくと、自然にため息がでてきた。もう何でもよかった。
カズキが私の隣に座り、肩に手を回してきた。彼は私が色んなことをこの部屋の状況から悟ったことに全く気がついていない。仮に気がついたとしても何とも思わないだろう。
私には彼に何か言う権利を持っていないし、彼もそれを知っている。だから彼は色んなことに無頓着になれる。
彼はこの部屋を漂う甘ったるい匂いにすら気がついていないだろう。だって彼はこの部屋から一歩も出ていないから。彼はこの部屋にずっといるから分からないのだ。
彼は目の前に置かれてあるテレビを付けた。
「映画でもみようぜ」
と彼は言った。ブルーレイディスクのランプが青く灯される。
それはアクション映画だった。テレビの画面には、クラクションの音々とともにニューヨークシティが映しだされる。
私はアクション映画をあまり見ない。戦いあったりするシーンを見ても何の感情もわかない。所詮は映画の中のフィクションだと思ってしまう。そんな決められた動作で行われる戦闘は、なんだか興ざめしてしまう。
このことを私は以前カズキに話したことがある。カズキは「へえ、そう」と、いつものようにそっけなかった。多分彼はこんな会話は忘れてしまっているだろう。
カズキは熱心に映画を見ていた。私の肩にまわされた腕は、だらりと力が入っていなかった。私の嗜好を彼が覚えているはずがない。私はカズキの彼女でも何でもない。私には彼に何を言う資格もない。
車をぶつけあったり、銃撃戦になったり、めまぐるしく動く虚構の世界に飽き、私はテレビから視線を外した。
(私はアクション映画に限らず、映画全般を集中して見ることが出来なかった。どんな感動的な映画を見ても、心は動かなかった。友達と一緒に映画を見ることは苦痛だった。映画を見終わった後に、「良かったね」と感想を語り合う時間が、どうしても耐え難かった。感想なんて何も出て来やしない。
私だってみんなと同じように感動したいと思っていた。涙だって流したい。しかし、どうしても出来なかった。どうしてだろうか。映画に限らず、本でも私の心は動かない。
物語。人間の長い歴史を絶えず共にしてきた物語。数多くの物語が生み出され、それがひっそりと強かに社会を変え、人々を支えてきた。物語なくして人間の歴史はないだろう。一人一人の歴史だって、立派な物語である。なのに、何故私は物語で心が動かないのだろう。私の心は麻痺してしまっているのだろうか?)
私はカズキの部屋を見回した。彼の部屋は物が少なくいつもこざっぱりしている。見慣れたいつもの景色だった。
ふと壁にかかった絵が私の目についた。
それはどこかの港町の絵だった。分厚いどんよりとした雲に覆われた空の下で、一艘の大きな海賊船のような船が港に繋がれていた。こんな絵がかかっていたことを私は今まで気がつかなかった。
「ねえ、あの絵って前からあった?」
私は映画に夢中になっているカズキに聞いた。
「あ? 前からあったよ」
とカズキは映画から目を離さずに答えた。
「全然気がつかなかった」
ぽつりとつぶやき、私は再びその絵をみた。何となくその絵に惹かれた。
「どうしたの? この絵」
「なんか、実家にあったから。持ってきて飾った。絵を飾ってある家って、なんかおしゃ
れだろ」
力ない声が返ってくる。
「おしゃれかなあ」
私はじっとその絵を見た。
どんよりと曇った空。どうして、どうしてこの絵の中の空は曇っているのだろう。意気揚々と太陽が輝く青空を描けばいいのに。そのほうがずっと綺麗で魅力的な絵になるだろう。どうしてこの空は、光を一筋も通さない厚い雲で覆われているのだろう。
こんな空の下では、船員たちも出港する気も失せてしまうだろう。なんだか不吉だ。明るい気持ちになれない。せっかく大きく立派な船なのに。
そのどんよりとした絵の世界の船は、一生出港しないように思われた。
私は暫くその絵に目を奪われていた。不思議だった。画家はどんな気持ちでこの絵を描いたのだろう。何のために描いたのだろう。
広い大きな海のそばで、無関心に佇む船。その諦めに満ちた空にも太陽は輝くというのに、それは晴天の日を見ようともしない。いや、見るのが怖い?
テレビの中からは、フィクションの激しい爆発音やら、怒声が聞こえていた。テレビを見て確かにそれらが映画の音声だと確認しなくても、それらは虚構世界の音のはずだった。
力なく私の肩に回されていたカズキの腕に力が入る。私はぎゅっと抱き寄せられた。どっかの女の人の甘ったるい匂いが微かに彼からも匂う。
私は彼の横顔を見た。彼はテレビを見つめたままで、彼の長い睫に囲まれた瞳は映画の光できらきらと光っていた。
ああ、青色がなかった。私は今朝見ていた夢を思い出していた。
そうだ、青色がなかったんだ。あの色彩溢れる強烈な空間には、青色だけが煌めいていなかった。
私はそのことをすっかりと忘れていた。今、それを思い出していた。
そして心に浮かび上がる。私は青色を思い出さなくてはならない。
もうここから出ていかなくてはならない。もうこの部屋に、カズキのもとに、来るのはやめよう。私はそう思った。突然やってきたように見えるその感情。でもそれは突然やってきた訳ではない。ずっとゆっくりと、私のもとへ歩いてきてくれていた感情だった。私は今になって、それを自然に抱きとめることができた。それを初めてまっすぐに見つめることができた。
さあ、私の船出だ、と私は心の中でぽつりと呟いた。
《今まで無視してごめんね》
私は再びその壁にかかった港の絵を見上げた。
カズキが映画を見終わった時、壁の時計は午後六時を指していた。
私は立ち上がった。
「もう帰るね」
彼は少し驚いた顔で私を見上げた。
「え。もう帰るの」
「うん」
「今日はもう泊まっていけばいいのに。今日バイトないんでしょ」
「うん。でも、もう帰る」
「なんで」
そう聞く彼に私は答えなかった。
「そっか」
彼は立ち上がり、玄関まで見送ってくれた。
もっといればいいのにと言う彼は、別段悲しい目をしていなかった。視線を落とすと、彼の手にはしっかりと携帯が握りしめられていた。
ふっと笑いがこみ上げてきた。何の心残りもない。彼とはこれでお別れだ、もう会うことはないかもしれない。
不思議なほど私の心はすっきりとしていた。
私は確かに靴をきちんと履き、そして彼の家を出た。




