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「リンドウ
リンドウ科の多年草。原産地はアフリカ以外の亜熱帯から熱帯。
花期は九~十一月。
花の色は、ピンク・紫・青紫・白。
別名は、エヤミグサ・クタニ。
花言葉は
《悲しんでいるあなたが大好き》
どうか、この花を忘れないでいてほしい。」
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「お姉ちゃん、Kがいなくなっちゃったよ」
今日も世界を横目に太陽が非情に輝く。
そんな八月の終わり、トモヤが泣きじゃくりながら言った。
寝ている私の身体が揺らされる。
私の重たい頭がぐらぐらと揺れる。無意識の世界が揺り壊される。
私の「やめて」という声を代弁するかのように、私のベットはきしきしと音をたてた。
渋々と重たいまぶたを持ちあげる。
立っているトモヤに背を向ける形で、私は横向きに寝ていた。
そうか、Kがいなくなったか、と私は起こされたばかりのもうろうとした頭で考えた。
トモヤの泣く声だけが響く、とても静かな朝だった。
私は、お腹の部分にだけかかっていたタオルケットを胸元の方へとたぐりよせて抱えた。
Kがいなくなった。
Kがいなくなったらしい。
私は何故か、驚きも悲しみも感じなかった。
恐らく、朝一番に知らされたからではないだろう。
私は余りにもその事実を、ごく自然なことのように受け入れていた。
別に彼がここを出ていくことを予期していたわけではない。
ただ何となく、彼は出ていくべきして出ていったように思われた。秋になったら葉が落ちるように、それは起こるべくして起きたのだ。だから私の感情は動かない。
彼が出ていった事実は、するりと音もたてずに、私の頭の中の「どうでもいいこと」ボックスの中で処理された。
彼はどんな姿でこの家を出ていったのだろうか。
トモヤがすすり泣く声がまだ背後から聞こえる。
私はぼんやりと、Kがこの家を出ていく様子を頭に思い描いた。
彼が温かくまばゆい夕陽に包まれて、きちんと玄関からこの家を出ていく様子が思い浮かぶ。想像上の彼の姿は、光に包まれていてとても綺麗だった。
ごろっと横向けの身体を回して仰向けになる。
カーテンから漏れさす朝日で、ほんのりと明るい天井をぼんやりと眺めた。
「今この瞬間も世界のどこかでは内戦が起こり、沢山の方が命を落としたり、苦しい思いをしています」
堂々と叫ぶ声が頭の中で響く。何故だかその声はトモヤの声で響く。
しかし、彼の声であるはずがない。
記憶のなかで、それは彼が言った言葉ではなかった。そもそも彼はまだ小学生であり、そんな世界はまだ多くは知り得ない。知り得べきではないのだ。
そのセリフは昨日、駅で演説していたどっかの団体の言葉だった。
演説者はポスターを掲げながら、通行者に向かって声を張り上げていた。家に帰る途中の私にも、その声は例外なく向かってきた。多分その団体は、活動資金を調達するための募金を募っていたのだろう。
私は無関心に一瞥し、その横をさっさと通り過ぎてしまったため、よくはわからない。
それよりも、駅前のスイーツ屋のショーケースに置かれた新作ケーキが、気になってしょうがなかった。
毎日毎日、私は私のことで精一杯だった。私以外の世の中の事をも抱えるなんて、到底できそうにない。
こんな私は薄情な人間なのだろうか?
私たちを作った神様でさえ、もう他人事のようにこの世界を放棄してしまっているのに。
神様だって、滑稽な私達人間を横目に通りすぎ、とびっきりのケーキを食べたいだろう。
私は情のない生き物なのだろうか?
生活に困る仲間を助けずに、贅沢品のことを考えるなんて。
「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」、そんな声が歴史から聞こえた。
私はまだベットにぼんやりと横になっていた。
そして、私の隣では、トモヤがまだ泣いていた。
穏やかな朝日が射すこの狭い部屋で、彼はまだしきりに泣き続けている。
彼の幼い顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れていた。彼の涙が、彼の鼻水までもが、漏れ指す朝日できらきらと光っていた。ぬぐってやるのが勿体ないくらいに。
彼は「Kがいなくなってしまったよお」と涙の合間に呟いた。
私は彼になんて声をかけてよいかわからなかった。「大丈夫だよ、Kは帰ってくるよ」、そんな言葉すらもかけてやることはできなかった。
私はただ、泣いている彼を見ていることしか出来なかった。私の心は不思議なくらいぽっかりとしていた。まるで心はまだ眠っているみたいだった。
私は彼から目をそらして、真っ白な天井を再び見つめた。
Kがいなくなった、か。
Kは私が幼い頃に我が家にきた猫だった。
両親が保健所から貰ってきた猫で、なんの価値もない雑種だった。
どんな猫なの、と友達に聞かれても、いつも説明に困るほど日本猫にもアメリカンショートヘアにも、その他のどんな種類の猫にも似つかない姿模様をしていた。
そのうえ、他の一般的な猫にくらべ、目もぱっちりしていなかった。
彼は細長いピーナッツのような目をしていた。
猫の可愛さは普遍的だと勝手に思っていた私は、猫も不細工という言葉で形容できるのだと、初めてKを見た時に、幼いながらも驚いたものだった。
由緒ある血統でも、それまがいの姿でもない、おまけに顔も不細工。だから、ずっともらい手もいなかったのだろう、保健所に務めている親の知り合いから、殺処分になってしまうから引き取ってもらえないかと半ばしつこく頼まれ、渋々親が引き取ったのだった。
家にいるとき、私とKは一緒にいることが多かった。
猫はあまり人間には懐かないというが、Kは私には比較的よく懐いていたと思う。
私がリビングのソファに座っている時は、彼も大抵ソファの上に乗ってきた。そして、まるで当然かのように私の横で丸くなった。
Kはいつも自分の背中と、座っている私の太ももがぴったりと触れるような場所で丸くなる。自分の背中を私に押し付けるようにして丸くなるのだ。
じんわりと温かい彼の体温が、いつも私の太ももから伝わった。それは本当に温かかった。
けれど、彼は私の膝の上に乗ってくることは滅多になかった。
いや、一度もなかったかもしれない。
私が二階の自室で勉強している時は、彼は勝手に部屋に入ってきた。
勉強している私に構わず、部屋中をあれこれと鼻で物色したり、のんびりと毛づくろいをしたりしていた。
子猫の時から彼にご飯を与えているのは私の母なのに、彼は母を含めた私以外の家族にはあまり関心を示していないようだった。
Kはいつも一人の時間を自由気ままに過ごすか、私の元にやってくるかの二択だった。
私はそんなKが好きだった。彼が傍にいてくれることは本当に嬉しかった。
Kは私のことが、他の誰よりも大好きなのだと思えた。
私もそんなKが大好きだった。
Kだけはずっと私の味方で、私の良き理解者だと信じられた。
私は他の家族と違って、Kが傍にいようと、あまり撫でたりかまったりしなかった。
言語化できない私のKに対する信頼が、行為を伴った愛情表現を必要としなかった。
Kにとっても、自分に向けられるその無関心さが居心地が良いのだと、私は一方的にそう思っていた。
Kと私は、言葉や行動がなくても共にわかり合っているのだと、私は勝手に信じ込んでいた。
今考えると不思議なのだが、Kが我が家にやってきてからしばらくの間、彼には名前がなかった。
彼は名前もないただの猫だった。
もともと私の親は動物が好きな方ではないし、私も当時は幼くて手間がかかった。だから、共働きであった両親には、猫に名付ける心の余裕がなかったのかもしれない。
やはり猫であろうと、生き物に名前を与えるということはいい加減にはできない。名前は自然に天から降りてきてはくれない。誰かが命名し、、本人に教えてあげなければならない。
この猫は四年間も名前がないままに我が家で過ごしたのだ。
名前がないという感覚はどういうものだろう。不安にはならないのだろうか。
でも彼は、自分に名前がないことを何ひとつ気にするようではなかった。
むしろ名前がないことを謳歌しているかのように、その空白の四年間を自由にのんびりと生活していた。
今彼が持つKという名前は、私が小学校四年生の時につけたものだった。
ちょうど小学校で英語の授業が始まり、私はアルファベットで自分の名前をかけるようになった時だった。
私は彼を名付けた時のことを鮮明に思い出すことができる。
ある日の放課後、柔らかな夕陽が差し込むリビングで彼に名前をあげたのだ!
両親はまだ帰ってきておらず、リビングはランタンのような静かなオレンジ色で溢れていた。
私はソファに座り、じんわりとその夕陽の美しさに包まれていた。
私の隣に、彼は無防備に丸くなって寝ていた。
いつものように、彼は自分の身体を私の太ももに押し付けるようにして寝ていた。
私は彼をじっと見つめた。
彼のお腹は、まるで豊潤な海波のようにゆっくりと雄大に、一定のリズムで上下に動いていた。
私は眠る彼のお腹にそっと手を置いた。
不意にそれに触れたくなった。私はその時それをとても魅力的に感じたのだ。
私は彼を起こさぬように、ゆっくりとそのお腹に触れた。それは想像以上に柔らかくて温かかった。
私は彼を愛おしいと思った。
彼のお腹に触れていると、温かな陽の光がじんわりと私の体に染みわたるようだった。
私は彼が羨ましいと思った。
灯火のようなオレンジ色の光に包まれて眠る彼の姿は、とても自然で神秘的だった。
私は彼を美しいと思った。
息を飲むほどに彼を美しいと思った。
彼の存在そのものが陽の光のようで、幻のようで、刹那的だった。
その時唐突に、私は自分の名前の頭文字であるKを、彼に付そうと思ったのだった。
彼をKと名付けようと、いきなり閃いたのだった。
学校の退屈な掃除の時間に、ピンと悪知恵が働く時のように!
その日その時、私はやわらかに眠る彼にKという烙印を押した。
私が心の中で彼をKと名付けた瞬間、私の心臓はドクドクとあたたかに高揚した。
「K」と私は小さく彼に呼びかけた。
これで、Kという存在がこの世界に生まれたのだ。
私は高ぶる心を押さえつけながら(それはかなりの努力を要した)、出来るだけ優しく再び彼のお腹に触れた。
それは、変わらずゆっくりと上下し続けていた。
しかし、私の緊張が伝わってしまったのか、彼は目を覚ました。
そして体制は変えずに頭を持ちあげ、私を見た。
私と彼の目線が交じり合う。
私は「K」と彼を呼んだ。
彼は私から目を離さなかった。私も彼から目を離さなかった。
私は身動き一つ出来なかった。
何だか私は耐えかねて、視線を下に落とした。彼のお腹にのせたままの私の手は少し黒々としていた。
その時から、彼はKになったのだ。
「僕のせいだ。僕が昨日Kの尻尾をふんじゃったから。だからKが怒って出ていちゃったんだ」
リビングに降りると、先にリビングに降りていたトモヤはまだしきりに泣きじゃくっていた。
まだ泣いているのか。
私の口からは無意識にため息がでた。
トモヤは今小学三年生だった。小学三年生がどのような生き物か、私はまるで忘れてしまっているが、一般的に考えられる三年生より、トモヤは幼く感じられた。
トモヤはまるで言葉を持たない幼子のように表情豊かで、よく泣き、よく笑う子だった。
愛嬌もたっぷりに持っていて、近所のおばさん達から大変に人気だった。
「トモヤちゃん、トモヤちゃん」とよく彼女たちから声を掛けられていた。
そんなに喜怒哀楽を全面に出し、よく泣いていたら、「女々しい」や「泣き虫」などと他の男の子から学校でいじめられるのではないかと私は時折心配した。
しかしそれは、単なる杞憂のようだった。私の思い過ごしだった。
彼には友達が沢山いるらしく、たまに学校の友達を家に連れてきた。
彼らは何やら楽しそうに、今流行っているらしいよく分からないカードゲームで遊んでいた。
「もう随分と長生きだったし、自分の死期を感じて出ていったんじゃない? ほら、猫は自分の死期を感じると姿を隠すっていうじゃない」
お皿を洗いながら母は、手のひらで涙をぬぐっているトモヤに声をかけ、彼を慰めていた。
Kは今までこの家から出ていったことが一度もなかった。
彼はいつも必ずこの家の中にいた。
どんなにドアや窓が開けっ放しになっていても、彼は一度もこの家を出ていこうとはしなかった。
だからKがこの家のどこにもいないということが、今回大問題になっていた。
Kが我が家に来てから、もう十五年近くたっていた。
猫の平均寿命を考えると、彼はもうかなりの年寄りだった。
だから母の言うように、自分の死期を感じてKが出ていったというのは、正しいのかもしれない。
しかし、Kはただ外出しているだけで、暫くしたらひょっこりと帰ってくると微塵も思っていない母に私は驚いた。
そして母と同じように、Kが帰ってくると全く思っていない私自身にも気づき驚いた。
私と母の意見は合致している。
これが大人の感というやつなのだろうか。
「ほら、トモヤ。歯磨きして学校へ行く支度して。遅れるわよ」
リビングの壁にかかる時計はもう八時を指しており、つけっぱなっしのテレビからは、爽やかな朝ドラのオープニング曲が聞こえてきていた。
トモヤの小学校はすでに夏休みが終わり、先週から新学期が始まっていた。
ここから小学校まで歩いて約二十分。急がなければ遅れてしまう時間だった。
鼻をすすりながら、トモヤはぐずぐずと歯を磨きに洗面台へと向かった。
「お皿洗っておくよ」
慌ただしくお皿を洗う母に声をかける。
母もそろそろ出勤の支度をしなければならない。
平日の朝は慌ただしい。どんな八時を過ごすかが、その日一日を左右するほど重要になってくる。
「ああ、ありがとう」
母は流しの傍にかかっているタオルで慌ただしく手を拭くと、ぱたぱたと階段を上って二階の自室へと向かった。
母はまるで動き続けるからくり人形のようだった。
朝起きて洗濯機を回し、どんなに目覚まし時計が鳴ってもなかなか起きないトモヤに声をかけながら、朝ご飯を作り、仕事へ行く。
仕事から帰ってきたら、夕食づくりに掃除に誰かの服のシミを必死にとる。
毎日毎日、朝も夜もくるくると動き回っていた。
彼女がゆっくりと休んでいる所を私は見たことがない。
地球を毎日毎日せっせと転がしているのは、彼女のような世界中の母親達ではないかと思う。
バタバタとランドセルを背負いながらトモヤが勢いよく玄関へと向かう。
「行ってきまあす」
トモヤがまだ涙の跡が残ったままの顔で、家を元気よく飛び出していった。一瞬開け放たれた玄関の扉の向こうから、爽やかなセミの声が届いた。
「今日の夜ご飯は家でたべるの?」
仕事用の格好に着替え、二階から降りてきた母が聞いてきた。
紺色でVネックのカットソーに、グレー地にチェックのパンツを履いていた。
胸元まである黒髪は後ろでくくられ、顔にはファンデーションが薄く塗られていた。
頬には計算高くしこまれたツヤが上品に光る。母はいつだって完璧で隙がなかった。
「今日は夜バイトだから家で食べないよ」
私は食器を洗い終え、母が作った味噌汁を自分のお椀によそいながら答えた。
「そう、了解。じゃあ行ってくるね。一応Kが家に帰って来られるように、トモヤがリビングの窓を少し開けたから、閉めないでね」
「了解。いってらっしゃい」
また扉が開かれ、一瞬セミの声が風のように吹き込んできた。外は今日もいい天気なのだろう。
私は食卓に座り、ゆっくりと一人で朝ごはんを食べはじめた。
卵を机の角で割ってご飯の上に落とし、醤油をすこし垂らし入れる。
真っ白な白米の上でとろっと光るその黄身を割る。
ぐちゃぐちゃとその山吹色をかき混ぜながら、私はKは今ごろ何をしているのだろうかと考えた。
母がトモヤに言った言葉が甦る。
確かに、Kは死ぬためにこの家を出ていったのかもしれない。私は彼が死ぬ様子を想像した。
きっと彼は楽観的な青空の下で静かに横たわり、そして死んでいくのだろう。恐らく、その日の夕焼けはとても美しいに違いない。
ここでも彼の姿は陽の光と密接に想起された。
何故だかはわからない。
私はだいたい平日は一人で朝ご飯を食べていた。
私はいつも、トモヤと母が出かける八時頃に入れ違うようにして起きるからだ。
父は出勤時間が早いらしく、私が起きるころにはいつももう家にはいなかった。
彼と最後に会話らしい会話をしたのはいつだったか、思い出すことはできない。
私はバイトや友達との遊びで、家に夜遅くに帰ることが多く、その頃にはもう父は寝ていた。
だから、私はめったに彼とは顔をあわせなかった。
今、私は大学三年生の夏休みの真っ只中だった。だから、授業のために、早く起きる必要もなかった。
朝も夜もだらだらと何の生産性もなく過ごす私に対し、父は何も言わなかった。昔からそうだった。
高校や大学受験で厳しく私を叱咤激励するのは母だけで、父は完全に放任だった。彼が私たち子供に無関心だったとは言わない。
彼はいつも淡々と仕事をし、淡々と私たちの生活を支えてくれていた。
私は朝ご飯を食べおわり、流しへと食器を下げた。泡だったままのスポンジを手にとり、お皿を洗った。
怠惰に流れ続けるテレビでは、朝ドラはとっくに終わっており、シャツについたシミを落とす方法の特集をやっていた。
私はテレビを消した。
今日は夕方からバイトだった。
それまで特にやることもないため、私はソファに座ってゆっくり本を読むことにした。
Kを探しに外に行こうかと一瞬思ったが、やめた。どうせ彼は見つからないだろう。
彼は利口だ。もし家の近くにいるならば、自分の力で帰ってくるだろう。
彼は自分から出ていったのだ、彼はきっとこの家を出ていきたかったのだ。そして恐らく彼は帰ってきたくないのだろう。少なくとも今の所は。
自由が一番だ。
手に取った本は、ずるい男たちに主人公が翻弄される恋愛小説。
昨年映画化された小説だった。
浮気だの、不倫だの、忘れられない初恋だの、そんなもので物語が溢れていた。
愛、I、恋、Eye、Say Goodbye。
私は読み始めてすぐに疲れてしまった。私は恋愛小説がどうも苦手だった。
それなのに本屋ではついつい手を伸ばしてしまう。
読み切ることなんてほとんどないのに、いつも手に取った恋愛小説を買ってしまっていた。いつだって小説の中は愛で溢れていた。
私は舌打ちをしてその本をソファに放り出し、テレビをつけた。
静けさの中に音が溢れ出す。
チャンネルを回す。
しかし、特に興味を引くような面白い番組もやっておらず、すぐにテレビをまた消してしまった。
私はソファに寝っ転がった。
暫くぼんやりと天井を見つめていた。
けれど、いつの間にか私は眠りに落ちてしまっていた。
起きたらまだ時計は朝の十一時を指していた。
暇だ。
私は再び本を読む気にも、テレビを見る気にもならなかった。
このままぼんやりとごろごろするのも何だか気がのらない。
こんな時には散歩に行くのが一番いい。
そう思いたつと、私は勢いをつけて立ち上がった。
そしてパジャマから着替えるために、二階の自室へと向かった。
私は散歩することが昔から大好きだった。
特に明確な目的を持たずにただふらふらと歩いた。
どこを歩くか、どこに行くかは私にとってはあまり重要ではなかった。
歩くという行為自体が目的だったからだ。
しかし、時折人ごみの中を意味もなく歩きたくなった。
近所では人混み感が物足りなかった。そんな時は新宿や渋谷に一人で出かけて行った。そして一人で大通りを練り歩いては人混みに埋もれ、流され歩いた。
携帯でマップをみることは何だか好きではなく、滅多に地図を開くことはなかった。そもそも、目的地がないので地図なんて不要だった。
都会を歩くときは特に人に流され歩くので、地図なんて余計いらなかった。
けれど帰り道に迷ってしまい、何度か同じ道をぐるぐるすることもあった。
しかし、私はこの贅沢な時間の使い方がたまらなく好きだった。
それは地図を見たら一瞬で消えてしまう楽しさだった。
私はよく音楽を聞きながら歩いた。
音楽を聴きながら歩くと、まるで自分が世界の主人公であるような気分になった。
音楽に包まれていると、どこまでも道は続いていて、私が選択して進む道は全部私の、私が進むべき道のように感じられた。
歩いている途中で、ふと街の中心から少し離れた所にある隠れ家的カフェや、古本屋にばったり出会うのも楽しかった。
私だけが知っている秘密の場所を見つけたような気分になった。
私はふと、吉祥寺に暫く行っていないなと思った。
吉祥寺にはお気に入りの古本屋があった。そこは品揃えが私好みで、夏目漱石やら、ドストエフスキーやらがとても安く売られていた。
一時期、積まれた古本を眺めたり、手に取ったりするために、その古本屋に頻繁に通っていた。
そこの店主が丸眼鏡をかけたおじいさんなのも良かった。とても寡黙で博識そうな人だった。
彼のまとうその雰囲気が、より一層この古本屋を魅力的なものにしていた。
「古本は、新品の本よりもとても魅力的で神秘的だ。誰かが手に取って読んだ本には、その本の本来以上の価値と思いがあるように感じられる。引き継がれていく何かがそこにはある」
一度だけ、そのおじいさんが低くそう呟くのを聞いたことがあった。それはとても深い声だった。
おじいさんは元気にしているだろうか。特にちゃんとした会話をしたこともないそのおじいさんに、私は一方的な親しみを感じていた。
彼に会いたかった。
会っても特に話はしないだろう。でも彼に会いたかった。それだけで十分な理由になる。私はその古本屋を久しぶりに覗きに行くことに決めた。
吉祥寺でふらふらして、適当に見つけたカフェでお昼ご飯をゆっくり食べよう、そしてそのまま電車に乗ってバイトに行こう。
ああ、完璧な一日の予定である。
私は簡単に化粧をすまして家を出た。
まぶたをアイシャドウでキラキラに光らせ、唇には真っ赤なリップ。とてもシンプルなメイクだったが、それだけで私の心も真っ赤に輝くようだった。
先ほどまで私の中を巡っていた米のとぎ汁のような白濁とした惰性は過ぎ去っていた。
玄関を開けると無色透明な光がうるさく迫ってくる。
快晴に見守られる中、私は最寄駅まで歩いた。
途中、Kはいるかとちらちらと植え込みや家の塀の隙間に目を走らせる。
やはり彼の姿はない。
道中、自転車に乗った数人の主婦たちとすれ違った。
彼女達はすれ違う時に、私に爽やかな風をもたらした。
夏である。
私はお気に入りの藍色のケースに入ったウォークマンを鞄から取り出して、イヤホンを耳にはめた。
雲一つない高い空の中、太陽は燦々と輝いていた。
イヤホンから流れる音楽は、降り注ぐ陽の光に比べると、何故だか今日はやけに薄っぺらく感じられた。
変だな。
そんなことは初めてのことだった。
その音楽は、粉のように軽々しく私の周りにまとわりつくようだった。
奇妙にも、初めて音楽が鬱陶しいと思った。
おかしい。何かが違う。
私はいつものように純粋に音楽が楽しめなかった。
音楽に没頭することが出来なかった。
どうしてしまったのだろう。
電車内は空調が効いているのにも関わらず、私のTシャツはじっとりと汗で湿っていた。何曲めかわからない曲が終わった時、電車がちょうど吉祥寺駅についた。
駅周辺はお昼をすぎた辺りの時間帯のせいか、人が多かった。
幅広い年代の女性たちや、学生で溢れていた。私は商店街へと向かった。
賑やかな商店街を歩く。変わらず音楽を耳に垂れ流しながら、店先に並べられた商品たちを流し見する。
すると、不意にすれ違いざまに見知らぬ人に声をかけられた。私はイヤホンをしていたせいで、何と話しかけられたのか分からなかった。
私はとっさに、騒がしくギター音が鳴り響くイヤホンを耳から外し、話しかけてきた人を見た。
その人は、太陽が十二分に輝いているにも関わらず、冬に風で舞う枯葉のような色のスーツに身を包んでいた。
その人はおじさんだった。
首元につけたくすんだオリーブグリーンのネクタイは、とてもまっすぐに理想的な結び目を作って結ばれていた。
彼は細くも太っていてもない標準的な体型で、少し猫背だった。
ありふれた背格好、それなのに、彼はどこか異様な雰囲気をまとっていた。
彼は使い古された迷彩柄のハイキング帽を目深にかぶっていた。
夏だから?
顔は、広いその帽子のつばのせいで鼻から上部が見えない。シミが目立ち、深いしわが刻まれた頬から思うに、彼は五十、六十代くらいだろうと思った。
「散歩」
とおじさんは低く呟くように言った。
私に向かって言っているのか、独り言なのかわからない。
しかし、顔はまっすぐに私に向けられていた。
帽子のつばで隠されている彼の目は、不思議と私を見抜いているような気がした。私は彼の顔から目を離すことが出来なかった。
ゆっくりと彼の口が再び開き、分厚い乾燥した唇から黄ばんだ歯が覗いた。その瞬間、私の周りの音が遠のき、空気が薄くなったような気がした。
「どんなに歩いたって君はどこにも逃げられないよ。色んな角を曲がったって、道なき道を歩いたって、君はここにいるんだ。この道に。前に言ったろう、道はひとつしかないってことを。君は空を飛べもしないんだ。ここから他の道に移る手段を手になんかしていない。もしかしたら、君は空を羽ばたく鳥に出会うかもしれない。暗闇のなかで、一層光って見える鳥に。それを見ていると、自分も飛べるような気がしてくるかもしれない。その鳥と一緒になって自分も飛ぶことができると。でもそれは単なるまやかしだ。自分も飛べるというそんな考えは恐ろしく愚かだ。その鳥は、君をその道から突き落としてしまうだろう。その唯一の道から。君にはその道しかないんだ。その道を黙って歩くしかないんだ」
とても無機質な声だった。
まるで舗装された道路の下に眠る石のような声だった。
その声は一音一音はっきりと私に届き、私の身体の芯まで一気に冷やすようだった。
あの古本屋のおじいさんの低い声とは違う。
彼はそう言うと、くるりと向きを変えてゆっくりとこちらに背を向けて歩いていってしまった。私はゆっくりと遠ざかっていくおじさんの後ろ姿を暫く呆然と眺めていた。
どこにも逃げられない。私はどこにも逃げられないのだ。
おじさんが溢れる人にのまれてその姿が見えなくなると、人通りが絶えない商店街のざわめきが徐々に私の耳に戻ってきた。
立ちつくす私をじろじろと見ながら通り過ぎていく人々の声。
私は我に返り、再び歩き始めた。
賑やかな雑踏が、私の冷えた体をゆっくりと解凍してくれるようだった。
一瞬私は異空間に飛ばされていたような、そんな不思議な心地がした。
私は自分の鼓動が速くなっていたことに気がついた。
呆然とした頭で、辺りを気にする余裕もなく適当に歩いた。
私の足は何かから逃げるように急いていた。
どこにも逃げられない。
その言葉だけが濡れたTシャツのように私にべったりと張り付いていた。からっぽの恐怖が私の中に満ちていた。
私はどこにも逃げられない?
歩く。歩く。ひたすらに練り歩いていると、私の心は段々と落ち着いてきた。
鼓動もようやくその速度を緩めてくれた。
辺りを気にする余裕が出てくると、私はずっとウォークマンを右手で強く握りしめていることに気がついた。
イヤホンからは音楽が流れっぱなしだった。
ちっぽけなロック。
音楽を聞く気にもなれず、私はウォークマンの電源を切って鞄に放り込んだ。
彼はなんと言っていたか。落ち着いた頭で先ほどの出来事を整理しようとした。
彼は、どこにも逃げられないと言っていた。
一体どこから逃げるというのか。そもそも、私はどこからも逃げようとはしていない。
彼は前に言ったろうと言っていた。それはまるで以前に私に会ったことがあるような口ぶりだった。
私は彼に会ったことがあるのだろうか? いや、記憶にはない。
人違いなのだろうか? 彼は頭のどこかが狂った人なのだろうか?
疑問はとめどなく私の頭に流れた。疑問の蜘蛛の巣に引っかかったように、私は身動きが取れなかった。
私の頭はひどく混乱するばかりだった。
理解の範疇を超えている。
しかし、私は何故か彼を、彼に言われたことをないがしろにはできなかった。
彼と対面していた時間はほんの少しであったのに、彼の存在は私の頭にしっかりとこびりついていた。
彼は鳥がどうのこうのと言っていた。
鳥のようには飛べないと。私は鳥ではない、人間だ。
人間が空を飛べないことは満月のように自明のことであり、何故彼がそう言ったのか、さっぱりと分からない。
理解の範疇を超えている。
「私にもそれ一口頂戴よ」
「え、やば。めっちゃおいしい」
「俺も食べたいんだけど」
「ちょっと私の分なくなっちゃうでしょ」
隣の方から騒いでいる男女のグループの声が聞こえる。
その声々をきっかけに、私の中にしとしとと、彼に対する怒りが沸いてきた。
いきなり訳の分からないことを話しかけてくるなんて、彼はなんて失礼なやつなんだ!全く訳がわからない。
しかも君は逃げられないなどと、否定的な言葉をかけるなんて。
私はけっして逃げようなんてしていない。
私のことをろくに知らない人に、とやかく言われる筋合いはない。
私は決して逃げようなどとはしていない。私はそんな弱い人間ではない。
彼は私の何を知っているというのだ。
私は違う。
私は、違う。
私の心には、月の光のようなしたたかな怒りが燃えていた。
逃げられないって何なのだ。しらずと私は強くこぶしを握りしめていた。
私はしばらく怒りに心を奪われ、ずんずんとひたすらに道を歩いていた。
私は不意にひどく空腹であることに気がついた。
辺りを見回すと、すぐ近くにカフェがある。
そこで私は、少し遅めの昼食をとることにした。時計をみると、もう二時を回っていたのだ。
空腹は人を苛立たせるという。一回落ち着いた方がいい、そう思った。
入ったカフェは聞いたこともない名前の店で、何の変哲もないありふれたカフェだった。店内のインテリアは茶色を基調として統一され、どこにでもありそうなシンプルなテーブルと椅子が並んでいた。
壁には、ヨーロッパのどこかの街の写真が数枚かかっていた。
店内は適度に混みあっていた。
私は一番奥の隅っこのテーブルが空いていることに気がつき、そこに腰をおろした。
メニューを広げると、ぱっとカツサンドの写真が目に飛び込んだ。
私はすぐにウェイターを呼んでそれを注文した。
ウェイターが運んできたお冷を一口飲む。私はふうっとため息をついた。