(8)
近藤「もういい」
と近藤は回転するように体をはずし、その余勢をかって優子の恋人を押しのけ、出入口のドアをあけた。
優子「くさった女みたいな捨てぜりふ。おまえはだめな彼女か」
たまにどうしたのかと思うくらい適切な表現をする。一念で、優子が勝った。が、分からない。この闘争における勝敗にどんな価値があるのか。というか、優子はなにをしたいのだ。いや、
優子「やめてください」
と言っていた。では、近藤はやめるのか、中野坂上新王立闘技場建設を。そうではない気がした。
私「クレーマー処理にはなれていないんだな。おそらくエリート、キャリアかもしれないし、ひょっとすると貴族の子弟。しゅっとしていて、お召しものも高級なあれにちがいない、たしかに様になっているが、上に立つことがあたりまえになりすぎて、いばりすぎて怒られなれていない。気の毒ではあるが、いい気味という感じもしないでもない。優子も気がすんだだろう。帰ろう。今日の宿を探そう」
と優子の恋人は思った。
突然、背後をとられ、はがいじめにされた。これとて、
私「考えた順番もまったく分からない。しいて整理すればこういうことになるか、という感じでしか書きようがねえよ。夢とかね。そうでしょう。優子であって同時に同級生の吉田であるようなやつを相手に、ホッケーみたいなサッカーに興じていると同時に卒業式が挙行されていて、
優子「わたし、あなたと同じ名前でよかったね」
と言っている優子は幼なじみで妹みたいだし、おれの名前は優子じゃない。こんなわけの分からない諸観念、およびその関係の雑多な組み合わせのアラベスク模様、時間も空間もぐねらせて強引に、むしろ、したり顔であたりまえのように付会するものだから因果も序破急も起承転結もない。その闇鍋をなんとか秩序だったものとして表現するなら、夢から覚めておぼろな記憶をたどりながらあらためて入れ替えたりかたちをととのえたりするしかないじゃないか。起きているときの意識には、ちゃんとストーリーにして分かりやすくならべないと伝わらないんだから」
なのだが、
私「いてえ」
がまずあったに決まっており、脇と肩の衝撃が、やがて、締めつけられ、極められる圧迫感へと進展し、そう認識したという順序なのだが、やめないか、
私「もうよせ」
優子の恋人は叙事調に考えることにした。
優子の恋人をとらえたのは、きたないおっさんだった。
近藤があけたドアから、ゾンビのような、と優子の恋人は思った、くたびれた男たちがぞろぞろ入ってきた。
彼らが発する酢酸臭や単純なビジュアル的印象ではなく、挙動が異常だった。まるで、
私「くどい。まだ、しつこい」
まるで、冒頭、撲殺した酔っぱらいだった。
近藤は優子の恋人が放心しているうちに、優子が悪口に夢中になっているうちに、携帯電話で工夫たちを呼びもどしていた。クレーマー処理は、すでになされていたのである。
九人のおっさん、若者、じじい、ばばあのようなじじいなどが優子の恋人をかこんだ。はがいじめにしているのは、おばはんのような若者とおっさんの中間くらいの漠然とした男だった。
近藤が窓のほうへ近づいた。鍵をひねった。さらに七人の工夫が闖入し、優子の恋人はここの描写、説明においてジェネレーションの区分を割愛することにした。
曼珠沙華のごとく花びらをひろげ、まっすぐに茎をのばして、この程度のやっさもっさには動じぬ、そよともふわりとも微動だにしなかった、コートハンガー、油断していた、優子がはっしと摘みとり、さかしまに組み伏せて、がつがつ、がしがし、足の裏でその花びらを、好き、きらい、好き、きらい、で、好き。一本のすらりとした黒光りする棒に脱皮して、あるいはさせられて、葉見ず花見ず、優子の恋人は死人花、幽霊花、剃刀花、蛇花を思った。
ここまで三秒、優子は景気づけにしごいてみこすり半。
もう、薙いだ。
優子をとりまく七人ゾンビは上下に両断され、都合十四の上半身および下半身となった。
あたりは平たくなった。
優子「えっ」
近藤「えっ」
ふたり「えっ」
優子は手かげんしたのだろうか。なぜ、このような惨状が現出したのか理解できない。たしかに優子は剣道、柔道、空手、合気道の達人だが、位は桃井、技は千葉、力は斎藤、の伝でその格闘スタイルをいちおう位置づけるなら、技の優子。どんなに打ちどころが悪くても、優子の細腕でまっぷたつになれるだろうか。
達人なので、どの程度のダメージをあたえて抵抗不能にするか完全にイメージができていたのが、このていたらく、弱すぎる、と思った。優子の
優子「えっ」
は、それで、一方、近藤は、強すぎる、と思った、
近藤「えっ」
だった。
優子の恋人をおしつつんでいた九人は勇敢だった。ひるまず、優子へ、ひとかたまりになって突進した。
優子にとって、やりやすいだけだった。
なにをどうしたのか肉の壁が視界をふさぎ、確認できなかったが、刹那、マグネシウムをたいたような閃光が走ったことだけは分かった。
さらに十八の上半身および下半身が十四の上に堆積した。
優子「弱すぎる」
口に出した。
近藤「何者だ、きさま」
優子「ボランティアだっつってんだろうが」
近藤「目的はなんだ」
優子「だから、やめろ」
近藤「なにを」
優子「工事だよ。なめてんのか。人をなんだと思ってる。安い賃金で人を、人を猫かハムスターかペンギンか機械みたいにこきつかって、権利をうばって、自由を踏みにじって、こんな、野蛮な、人が人を傷つけるだけの闘技場だかコロシアムだかなんだかをつくって、それで殺し合いを見た人をまた暴力的にさせて、おまえひとり、皇帝のごきげんとって、ごますって、ほんで金をもうけてのほほんとしてる。ゆるされると思ってるのか。糞が」
その、糞が、に力をこめるため、あるいは力をこめすぎて、堰をやぶった激情の鉄砲水がとぎすまされたするどい突きとなって、優子の恋人を捕獲していた最後のひとりの額をおそった。はっかけばばあの騎行か、狐花の急襲、たぶん、頭が爆発しただろう。優子の恋人は解放された。
近藤「そんなこと、言ったって、おまえ、でも、おまえ、わたしは」
近藤は半泣きだった。もうだめだ。さしたる蹉跌も経験せず、乗風破浪、順風満帆、常にいい風が吹いていただろう人生航路の途上、彼の現在の若さと地位がそれを証明している、しかし、いまここでぺしゃんこに踏みつぶされた。ごく平均的な社会人であっても心的外傷を刻みこまれるようなシチュエーションであれば、近藤は再起不能かもしれない。
と、ぽく、ぽく、ころん。木琴の鍵盤をでたらめに三発、やけにまぬけに響いた。
優子が棒を捨てたのだ。ころがったのが近藤のつま先に、こつり、
優子「かわいそう」
本当に優子は心からあわれんでいる、近藤を。もらい泣きのほうが全泣きしている。彼の架空の過去現在未来が優子に浸透し、破裂しないためには決壊しないよう細心の注意をはらいながら感情を、ちょろちょろ、染みでるように抜くしかない。