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博愛主義者優子とその恋人  作者: 川光俊哉
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(7)

 ココアが爆発して茶色の花火が咲いた。近藤は濡れた。あまいかおりがした。

私「なにやってんだ、おまえ」

 二度言った。着々と近藤のシャツが染まっていく。髪から上着の襟にかけて完全にひたひたで、こうしているうちにも耳たぶ、あごの先、鼻の頭からしずくがしたたる。彫りが深く、いろんな先端がとがっている、ひとみが灰色に近いブラウン、外国の血がまざっているのかもしれない。その深さ、瘴気の泡だつ泥沼で、まったく、まばたきをしていないのだ。近藤、仕事ができそうなやつ、きっとかしこいだろう、判断力、決断力、リーダーシップ、カリスマ性はどうか知らないが、ぼうぜんの段階はすでに通過して、正気になって、さらに不条理への憎悪、仮借ないまでの潔癖性を明瞭に示すかがやきが、冷笑だか自嘲だかでうすく裂けた口唇の端からのぞく犬歯から、ちらちら、皓々、現在の彼から最後になにが読みとれるかというと、つまり、怒っている。

 三度、

私「なにやってんだ、おまえ」

優子「意味が分からないことを言うから」

私「とにかく、あやまれ」

 自分の手もよごれた、優子はデスクのティッシュを五枚くらいたばねて、ココアのべたべたを拭いている。

私「すみませんでした。あの、変な女で、ときどき発作が」

近藤「なるほど」

私「クリーニング代を払わせてください。本当に失礼しました」

近藤「別に」

 どんどん口数が減少していく。優子が手にしたティッシュの箱をぶんどった。怒っている。ひとことくらいは文句を言いたいだろうし、優子はそれを拝聴してやはりひとこと、最低ひとこと、

優子「ごめんなさい」

 と謝罪しなければならない。

私「いや、ひとことだけでいい。恐れ入って、かしこまって、頭をさげろ。本当に悪いと思ったら、おまえはピュアだから、演技ではない、実際、そんな器用なことはできない、心底反省した、真摯な態度だと受けとってもらえるにちがいない」

 と優子の恋人は思った。

 帰っていいと許可されていないような気がする。

新聞記事「王立建材試験翰林院の橋爪二郎参事が一日中野坂上新王立闘技場建設予定地を訪れて、おおフォルム・ロマヌム、ああ帝政ローマの縮図よ、と申しましたように、中野坂上駅周辺のバラック跡は今日瀟洒たる美しい住宅地になりました」

 コルクボードに新聞記事の切り抜きが数枚、クスコはアトゥン・ルミヨック通りの十二角石のごとく当該記事のレイアウトに合わせて忠実に摘出されていて、しかも不規則的にかさなっているので正確な件数が分からない、手持ちぶさたの優子の恋人は読むともなく読んでいた。すべて、工事現場で建築中のランドマークに関係するトピックらしかった。

 近藤はティッシュで髪をなでつけてオールバックになっていた。もとはどんな髪型だったかもう覚えていない。手際よく身じまいして、よだれかけのかたちに胸がココアに侵食されていることをのぞけば、ほとんど貴族的ですらある、怜悧な思考と機知のひらめきを感じさせつつ、おだやかでパーフェクトな紳士だった。つまり彼の怒りは抑制されていた。

近藤「で」

私「なんとおわびをしていいか」

近藤「女、ボランティアと言ったか」

優子「わたしですか」

近藤「活動家か。どこの細胞だ」

優子「人間ですけど」

近藤「ふざけるな」

優子「ふざけているのはあなたでしょう」

 優子は細胞をサイボーグと聞きまちがえたのかもしれない。そんなことは優子の恋人にとっても近藤にとってもどうでもいいことだった。もう手遅れらしい。近藤の眉間からどろっとした血が垂れ、ゆっくりと顔を半分に区切った。

私「あの、血が。さっきので怪我されたのでは。すみません、申し訳ありません」

 優子の恋人の声はとどかなかった。飛びかう罵声のなかで消滅した。腑抜けのようなかすかすの声、たよりない音程、波長で、そこへいくと口論の当事者ふたりは気合の入りかたがちがった。

優子「金玉ついてんのか」

 という流れ弾的罵倒語の断片を、優子の恋人は屈辱的に聞いた。金玉がついていないような仲裁、その無意味さ、無力さ、ひいてはおのれの弱さにしみじみ気をくさらせた。

近藤「この金玉野郎」

 とも。優子がたたきつけた金玉をキャッチしてほとんどそのまま加工せずに投げ返した。野郎、原義は江戸時代の成人男性、に金玉はつきものであり、個性的な造語に思えるものの、修辞上、ここで金玉はなんの機能も果たしていない。そして優子は女であり、それを言うなら女郎か阿女、女性器を意味する俗語と合体させて、金玉野郎の対義語は思いつかなかったものか、

私「もういい」

 と優子の恋人は思った。激昂した口げんか当事者たちの罵声をいちいち拾っていてはきりがない。

優子「いも」

近藤「肥満」

優子「完全な変態」

近藤「尻軽」

優子「守銭奴」

近藤「妖怪」

優子「小悪魔が」

近藤「淫婦が」

 やめないか。

 窓が鳴った。

私「風か」

 と優子の恋人はそちらをうかがった。

 風の声を聞こうと、目を閉じた。

私「どうにでもなれ」

 という自棄、解釈のしかたによってはあるいは男性的豪傑的とも呼べるかもしれないやけくその発現ではなく、もういやだ、という、実に優子の恋人らしい弱さで、ほとんど眼前の状況から逃避していたのだ。不毛の悪口雑言に耳をふさぎ、陵辱の雨からいまこそ身を引いたという点で、積極的と言えなくもない。

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