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博愛主義者優子とその恋人  作者: 川光俊哉
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(6)

 ふたりは、まっすぐ走ったのだ。漏斗状にえぐられた穴のなか、蟻地獄の底で、さらにすり鉢、ボウル、刺身皿、茶碗、醤油皿、どんぶり、マグカップが埋めこまれているようにちょびちょびへこんで、ショベルカー、鑿岩機、ロードローラー、その他、エンジンがついた不明の機械、つるはし、スコップがひっくり返したおもちゃ箱で、対角線、接線、半径、X軸Y軸Z軸、妙にそれだけ幾何学的な素っ気なさで鉄パイプの手すりが霧の幕のほつれたあたりでちらちら光る。工事現場に到着したのである。

私「とりあえず、帰ろう。もどろう。寝るところを探そう」

優子「帰ったらいいやん」

私「えっ。いや、もう暗いし、この先はたぶんなにもないので、国道のほうに引き返したほうが」

優子「寝たらいいやん」

 言い捨て、優子はずんずん先を歩いた。優子の恋人は追わなければならなかった。ところで、彼が自転車をコンビニ前に置き忘れたのを思い出したのはこのときで、治安が悪い、というか、ない、少なくとも彼が想定している意味での一般的治安秩序が存在しない町で、鍵もかけずに放置しておくことは非常に心配であって、一般的コンビニ前でかならずそうされるような盗難くらいなら別にいいが、よくはないが、とにかくこわいのはそれ以外の、なんらかの奇怪な予測不能の災難。彼は優子と自転車に引き裂かれそうになりながら、それでも優子の追跡を優先した。

 優子は早かった。躊躇せず進む。いまだに彼にとって未詳不分明の怒りにまかせて足を運んでいる。霧と宵闇の合わせ技で、こんなに視界が悪いのに。プレハブに行きあたった。田型に区切られたのは窓の明かりで、それらが左右にふたつ、はさまれて、ジュラルミンの扉はしたたるほどにびっしり付着させた露に、白熱灯のかがやきをやどして、琥珀と真珠をかわりばんこに象嵌したようで、埋め残した地の意匠が描くのは、バカ、の二字。

私「小学生がやったなら、いい。いい大人がこれを、わざわざ人さし指を立てて、一字一字、というなら、ちょっとこわい」

 と優子の恋人は思った。優子はドアノブをまわし、引き、押した。押すのが正解だったのである。

優子「こんばんは」

誰か「こんばんは。なにかご用ですか」

優子「なにをしているんですか」

誰か「はい。なんですか」

優子「ここで、なにを工事しているんですか」

誰か「失礼ですが、どのようなご用件で。あの、どちらの」

優子「ボランティアです。なにを工事しているんですか」

誰か「ああ。あの、闘技場ですけれども」

優子「はあ」

誰か「コロシアム」

 優子は理解していなかった。聞き覚えがないのでよく分からないなりに、なぜか、闘技場とコロシアムのふたつを建造するのだろうとおそろしく適当に認識した。

優子「やめてください」

誰か「すみません。あの」

優子「せめて、どちらかにしてください。みなさん、苦しんでます。つかれてます。死亡事故があったそうじゃないですか。人の命より大事なものなんですか」

誰か「死亡事故などありません」

優子「人の命より大事なものなんですか」

誰か「すみません。あなたは、なにか、その、団体かなにかの方で」

優子「ちがいます」

誰か「死亡事故などありません。これは、はっきりさせておきます。そういうことをあまりよそで言わないように」

優子「嘘ばっかり」

 優子の恋人がしゃしゃり出て、説明した。優子が想定しているようないわゆる現場における死亡事故ではなく、おやじ久保田は搬送先の病院で手のほどこしようがなく死んだことが明らかになった。

優子「ごめんなさい」

 素直にあやまった。

 プレハブのあるじはおそらく現場の責任者だった。年は優子の恋人より少し上で、グレーのスーツに身をかため、ちょうど帰宅するところだったという感じでもなく、ひと息ついてまた事務処理をはじめようとしていたのだと思う。テーブルの角に置かれたカップはコーヒーで、実にちょうどいい室温のプレハブ内で扇風機もエアコンもおとなしく、四角く、まるく、眠気をこらえる猫のようにじっとしている。垂直に立ちのぼる湯気が、まだ濃密だった。

近藤「誤解が分かってよかった。では」

優子「やめてくれるんですね」

近藤「なにを。いや、あなたは、本当になんなんです」

優子「人として言っているだけです。あなたも、人としてこたえてください」

近藤「五分で帰ると約束してくれたら会話しますけど」

優子「します」

近藤「人として、それでは言いますけれど」

 男は近藤と名乗った。この闘技場建設の任にあたれたことを大変誇りに思っている。使命といってもいい。臣民にとって必要であり、不可欠であり、一刻も早い完成のために粉骨砕身している。それが陛下のお心にかなうことも確信している、という意味のことを諄々と、理路整然と、渋滞なく、弁舌さわやかに言い聞かせた。優子の恋人にもちらちら目をやりながら、八対二程度の割合で、主として優子を説諭の対象としていた。優子は新宿駅東口の鳩のように、張子の虎のように、フーコーの振り子のように、小刻みに、また深く重くうなずきながら聞いていた。マジックで塗りつぶしたような真っ黒な黒目は、まったく濃淡、遠近感、光沢の消失した暗黒で、まばたきすらしていない気がした。

近藤「せっかくいらっしゃったので、コーヒーでも。ココアか紅茶がよろしいですか」

私「おかまいなく」

優子「ココア」

 近藤は冷蔵庫からココアを出し、なかば投げ捨てるように優子の正面、パソコン机らしいごろごろのついた細い足がささえるパイン材の、角をまるくした正方形の板の上、座標で表現すればドライフラワーをさしたとっくりのような花瓶を原点としてX軸にマイナス二、Y軸にマイナス三、紙パックのそれが着地。まさしく着地で、三センチほど上空で近藤の手をはなれたのだから、投げ捨てる、というのもただしい。宛然、肩をいからせ頭がめりこんだ茶色のロボット、ストローを背負って優子のあごをすくうように見あげる。

 優子はひったくるように、横ざまにその紙パックをにぎり、近藤の眉間に紙パックの角を突き刺した。

私「なにやってんだ、おまえ」

 このあたり、誰がどう行動してなにが起こり、なにが聞こえたか、記述する順序がおぼつかない。

私「考えた順番もまったく分からない。しいて整理すればこういうことになるか、という感じでしか書きようがねえよ。夢とかね。そうでしょう。優子であって同時に同級生の吉田であるようなやつを相手に、ホッケーみたいなサッカーに興じていると同時に卒業式が挙行されていて、

優子「わたし、あなたと同じ名前でよかったね」

 と言っている優子は幼なじみで妹みたいだし、おれの名前は優子じゃない。こんなわけの分からない諸観念、およびその関係の雑多な組み合わせのアラベスク模様、時間も空間もぐねらせて強引に、むしろ、したり顔であたりまえのように付会するものだから因果も序破急も起承転結もない。その闇鍋をなんとか秩序だったものとして表現するなら、夢から覚めておぼろな記憶をたどりながらあらためて入れ替えたりかたちをととのえたりするしかないじゃないか。起きているときの意識には、ちゃんとストーリーにして分かりやすくならべないと伝わらないんだから」

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