(4)
優子の恋人は鉄火丼を注文していた。優子は同じものと言った。どうでもいいのだ。四角テーブルの話が気になってならなかった。もうそちらに首をまわし、あからさまに視線を固定していた。中年と目が合った。
優子「なにがあったんですか」
割りこんだ。
ひとくさり、誰だ、なんだ、どうした、と感嘆詞のような啖呵のような不分明な声、声、声、三人ぶんの声が、卓上、ベクトルもあいまいなままに男たちのジェネレーションをむやみに交錯させ、
中年「おっさんか」
優子「いいえ」
中年「えっ」
優子「えっ」
ふたり「えっ」
中年「死んだ、おっさん」
優子「はい」
中年「えっ」
優子「えっ」
ふたり「えっ」
私「落ち着いて。ここに座らせてもらって。優子、本当に、冷静に考えて。優子はいまこちらで話題になってたおっさんのことが気になったんだろ」
優子「あ、うん」
私「すいません。おっさんか、と急に聞かれたので、自分はおっさんではないと反射的にこたえたようです」
中年「あ、そう」
若者「独房に入れられてたおっさんですけどね。ちょっとした有名人でしてね、それが死んだんですよ。一ヶ月くらい前に、工夫リーダーに、その、たてつきましてね。やめとけばいいのに、リーダーがくすねたのを密告して、それで、まあ、逆に」
優子の恋人は、
私「説明の要領の悪さも大概だけどよお」
と思った。要するによくいる伝法肌のおやじであり、その竹を割ったような男性美とも解釈しうるさっぱりした気質、独特の感覚から発せられる滑稽寸前の言行から名物おやじのような地位を奉じられ、本人もそう不本意ではなくそれを享受していたらしい。なにをくすねたのか知らないが、そこは話の本質ではない、たいていは立ち退き住人の忘れもののへそくりか、小競りあいした蛮夷からの鹵獲物であっただろう、とにかく直属の上官がくすねたのをおやじが見すごしにできず、さらに上の士官だか将官だかに、いわばチクった。だが、逆に、は分からない。よほど平生のおやじにむかついていたのか、その直属の上官がちょっと噛みつくにはえらすぎたのか。おやじが調子に乗りすぎたのかもしれない。同輩、子分格、あるいは自分自身からの期待にこたえるかたちで、伝法おやじのやりかた、環境、状況、人物、自然に対する、つまり神話的世界、空想科学的宇宙に投げだされた一個の元型的伝法おやじの理想反応を仮定しつつ、自分で自分のものまねをするように、さらに戯画化、滑稽化してセリフ、表情、しぐさを発現させたのではないか。
優子の横顔を観察していた。だから、若者の話にどのように心を動かしていたのか手にとるように分かる。若者のやや個性的な複合語、工夫リーダー、に優子はひっかかった。彼女はきっと甲府を連想したはずだ。次に交付、また、公布、その次にやっと坑夫が突兀とした頬骨を黒光りさせながら岩間からひょっこりあらわれた。ここまで来れば、工夫はすでに観念連合の輪のなかのごく近い距離で坑夫と手と手をつないでいることにすぐ気づき、同時に大急ぎで悉皆走査にかけられていた、リーダー、も合理的に合体できる。かちり、と雄雌、マイクとマイクケーブルが噛みあったような幻想の効果音を、その瞬間の優子の目が発した。そのリーダーである可能性がもっとも高いことは、優子は馬鹿ではないので的確に把握していたが、へなちょこな丁字の立体が目先をちらちらしてうっとうしかったが、おそらくバーコードリーダーであろう。独房、有名人、死んだ、というキーワードに遡及して、
優子「それはきっと、壮絶な」
若者「はあ」
優子「最期を」
私「なんでもありません。ありがとうございました」
鉄火丼二丁をテイクアウトして、優子の恋人は彼女の手をひく。
優子「なに」
私「ごはんを買ったから、泊まるとこを」
優子「でも、人が死んだんだよ」
私「それはそうかもしれないけど、いまのいま死んだというわけじゃないし、その人、名前も知らない」
ことば選びのうかつさに言いながらもう後悔していた。が、撤回、訂正する手間は必要なかった。彼は目の前に開けた奇怪な情景にことばを失い、おそらくは聴覚も変なことになっていたので、優子の反応を受信しなくてよく、また、なにか聞きとれたところでとっさにうまく返すための語彙のストックは一時的に消滅しており、
私「やべえ」
なとど繰り返すくらいしかできない。優子をこれ以上傷つけまいと、お箸でカレー皿になみなみと盛られた大豆の山から、たった一粒、細心の注意、痙攣的緊張とともにつまみあげるような、言いまわし、語尾、口調、声量、あるいはそもそもなにを言えるのか、選択の労をとらなくてすむ。
森であった。原始のような森で、五人くらいが手をつなげそうな太い赤松が岩肌のような、山脈のような質感、凹凸の遠近感を主張しながら残像のように櫛比している。鳥が鳴いていると思ったら、梢をゆらすのは小犬ほどのドラゴンで、と、上に視線をやればもう夜だ、月がにやりと笑った気がしたが、それは、どうか分からない。その月の野郎が蝶ネクタイ、タキシードで肘をはり、ポケットに手をつっこんでポーズをとっているように錯覚したのは、木々の葉の影絵を材料にした、彼の想像力の産物であった。だが、口が、目が、鼻すじが、つまり顔は、たしかにオレンジの円盤にきざまれていて、気持ち悪いので目をそらせば、点景だと油断していた霧ごしの山が迫ってくる。巨大なサイかカバらしかった。
私「やべえ」
左の二の腕が痛い。つねられていた。本当に痛い。ひとつ目の怪物がペンチで彼の腕の肉をはさんでいた。なぜか彼はそれを半魚人だと思った。
私「や、やめてくれ」
半魚人は、そうした。
私「やべえ。やべえよ、おまえ。おれ」
半魚人「なに言ってんの」
私「おまえこそ」
半魚人「どうしたの」
私「なに、おまえ、おまえ、やべえよ」
半魚人「落ち着いて」
私「やべえよ」
優子「どうしたの。ゆっくり話して。あせらなくていいよ」
半魚人は優子だった。半魚人ならば、優子。優子は半魚人、きわめて重要で、その帰趨が致命的でさえあるこの命題の逆が成立してはこまるので、優子の恋人は彼女の肌がまたウロコでぎらつき、エラが文字通りあのエラになってしまわないかと熱心に観察していた。
私「優子でなければ、半魚人ではない」
優子「大丈夫」
私「大丈夫。めまいが。おまえ、すごい力でつねったな」
優子「つついただけだけど。痛かったの」
私「いや、それで正気にもどった。ありがとう。痛くない。赤くなったりもしてない。だめだ。触覚も変になっていたらしい。さっきからおかしいぞ」
優子「なにがあったの」