(34)
私「いつもこうだ。おれは優子の背中ばかり見ている気がする」
と、なさけない気持ちになる。肩をならべようとするが、優子の速足はとてもなめらかで赤いハイヒール、そのまち針のごとくとがったピンヒールが視覚障害者誘導用ブロックの黄色の凸凹の凸をたくみに避けながら、あるいはむしろ黄色サイドがその赤の威風に拝跪して、自主的にいまだけ平面になっているかのよう、華麗な四つ打ちで緊張感をかもしだす。
私「どこに行くの」
優子「関係ないやん」
私「ひとりで行くの」
優子「はあ。もういいから」
ひまわり畑を蹂躙する、赤い、鋭利ななにものか。優子の恋人はずっと優子の足さばきを見ながら背中にはりついていた。四角と四角の谷間、アイスピックのひとつきがくいこんで、優子は犬かきのように手で空気をかきまわし、優子の恋人に両肩をささえられた。
私「うん。どうしたの」
優子「気持ち悪いやつが、なんか、がたがたうるさい」
ひまわり畑で麦わら帽子の少女をつかまえた、その少年が優子の恋人である。おそろいの麦わら帽子、ランドセルは黒くて、赤いのは少女がしょっていたそれなのだった。優子の恋人は、つかまえたのだと認識した。勝手に飛びこんできたわけではない。ずっと足もとを見守っていたのだから。
私「浦部ね。なにかいやなことを言われたの」
たしかに、優子の髪は踏みにじった花のにおいがした。
優子「聞いて」
私「言って」
いいテンポ感、阿吽である。ごく自然に、高くバウンドしながらもするりと生まれたので、それがおもしろかったらしい、優子は吹きだした。
優子「なに。言うわ」
私「浦部と話をしていた。なんか、身元調査みたいな感じだったでしょう。むかついたね」
優子「むかついた。なんか、あいつら、あれでしょ、要するに、仲間に引き入れたいんでしょ。いいけど、なんか、はっきり言わないのがいらいらして、ほんで、むずかしげなこと言ってえらそうにして、馬鹿にするやん。そんなことも知らないの、みたいに鼻で笑うし。気持ち悪いくせに。
浦部「うん。それで、きみは」
ちみ、みたいに聞こえるの。口をあんまり動かさないし、声がちいさくて、ほんで、うすら笑いで顔がねじれてるから。
浦部「うん。それで、ちみは、ボランティア活動をがんばってるわけだ」
優子「まあ」
浦部「大学の」
優子「一年の夏くらいから。ちがうわ。高校のときから、けっこう興味はあって、近所のサンデーとかに」
浦部「週刊誌」
優子「そういう児童館があるんです」
浦部「失礼。つづけて。いままで、ボランティアでいくつの帝国の施設をつぶしたの」
優子「順番にしゃべらせて」
浦部「失敬。だまっていてあげる」
優子「小学生のときって、風邪ひくとうれしかったりしない。三十七度くらいの中途はんぱな熱だとさ、なんか興奮しちゃうよね。ただでさえ小さいころって、時間の流れが遅くて、それで一日まるまる時間があまってさ、永遠に終わらないくらい一日が長い。まだ昼か、とか、まだ三時か、とか、もうだいたいなおってるし、寝てられなくて、でも、なにもすることがないよね。結局、NHKの教育テレビ見たりしてる。ほかに子供が見ておもしろい番組ってないから。それで、半分くらいずる休みしてることの言い訳にしてみたり。大人になると、風邪とかうっとうしくてしょうがないけど。早くなおらないと、仕事できない、とか考える。つまんないね。わたしが風邪ひいたときって、いつもおばあちゃんの家に行かされたの。すぐ近所でさ。お父さん、先生やってて、お母さんも先生やってて、で、わたしのこと、かまってるわけにはいかないからね。道をはさんで、百メートルくらい行ったところ。ちょっと坂になってて、アパートが多かったな、いま思えば。小学生はふつうの家もアパートも分かんないけど、そのなかで、一軒だけ、おばけやしきみたいな古い家があるの。黒くて、茶色くて、なんかうすよごれてて。でも、いやじゃなかったし、こわくもなかった。よく玄関と門のあいだの、なんて言うの、小さな庭で草むしりしてて、お母さんにつれてこられるときもあったし、熱でぼんやりしながら、ひとりで行ったときもあった。だいたいそうだった、おばあちゃん、外に出てて、わたしの顔見て、よく来たね、とか言うの。たぶん、親が先に電話で知らせてたんだろうね。年じゅう、あじさいをいじってた。なんでか知らない。ほっとくと、すぐのびるのかな。ごついハサミ持って、枝を切ってた。かわいそうなくらい刈りこまれて、ぼろぼろなんだけど、不思議と五月くらいにはちゃんと葉っぱも花もつけてる。生命力か。ちゃんと、玄関の横でね。分かるんだ、気持ち悪い、親がなんか変で、きっとこれは浮気ってやつをしてるな、って、分かる。ドラマで見た、まんがでそんなの読んだ、子供の妄想かもしれないとも思うけど、でも、たぶんまちがいない。それぞれ、別々にやってた。なんだろ。変にやさしい。それで、わたしを通訳にして会話することが多いような気がして、さすがに違和感がある。ティッシュ買っといてって言っといて、ってお母さんに言われて、ティッシュ買っといてって言ってたよ、ってお父さんに伝える、とか、変だった。けど、なんにも起きない。なんにも起きずに、それはそれで平和だったけど、妙に気をつかう子供になってしまった、小さな音にびくびくしてる、足音が聞こえると、かならず振り返って、その音を正面から受けとめて、なに、って聞く。だいたい通りかかっただけのことで。好きとか、きらいとかより先に、結婚っていうことをまずは知ってる。お父さんとお母さんがそれで、結婚で、それから浮気って状態があるらしいと分かる。浮気ってなんとなく名付けた、あのときの空気の全部が、浮気とむすびついてる。小学校のとき、風邪で休んだときね。わたし、暗い子だったから、あんまり友達とかいなかったのね。休み時間、ひとりで、図書館でシャーロックホームズ読んでたりね。意味も分かんないのに。今日遊ぼう、とか言われても、ごめん、いそがしいから、ってことわる。で、なにをするかというと、おばあちゃんちの畑でアリの巣を見つけて、水没させて遊んでる。ひとりで。想像力ゆたかな子供だったから、そういうのを見て、すごくどきどきするのね、アリの視点で見えるから、映画みたいなんだ、洪水がおそってきて、流されて、おぼれそうになってるつもり。アリは大変だっただろうけど。そうやって、遊びはひとりで完全に満足してた。基本、大きくなってもそうだな、正直、ほかの人間がさあ、馬鹿に見える。わたし、別に悟ってるわけでもないのに、なんの根拠もないけど、そういうことを思ってるわたしのほうが、よっぽどつまんない人間かもしれないけど。でも、いいじゃん。かわいいもんでしょ。誰にも迷惑かけずに、虫みたいに、ひとりでひっそりこっそり生きてる。ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ。宮沢賢治。それでいいんだ、たぶん。でも、ひとりじゃどうしようもないことも、あって」
浦部「聞いてるよ」