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博愛主義者優子とその恋人  作者: 川光俊哉
3/36

(3)

私「去年の夏だったと思う」

 そのとき、やはり彼の数歩先を歩いていた優子の背中が右肩になった。胸になった。まわれ右に振り向いたのだ。それより、と三回繰り返したあたりまではならんで歩いていたような気がする。優子は背中も肩も胸も白い毛織物でつつまれて、霧を裂いて進むうちに真珠のような極小のつぶつぶを一面に付着させていた。子持ちこんぶのようだと彼は思っていた。髪がなびいて、黄昏の光と影をうつしたかすみをまとい、一瞬、水しぶきの青白いアウラが彼女の輪郭をぼかした。

優子「かがめ」

 優子の恋人は、そうした。ただごとではなかった。命令だった。

 にぶい、重い、それでいて心地よい、球状の音が連続した。どんな打楽器のリズムにも似ていないと彼は思った。自転車のふたつのペダルをにぎって、できるかぎり、ちいさくなった。すぐに、しずかになった。

優子「あぶないところだった」

私「なに」

優子「さっきの人が、おそいかかってきたの」

私「はあ」

 たしかに、酔っぱらいが大の字になっていた。おそるおそる立ちあがり、優子と地べたをむすぶ架空の点線を何度もしょぼついた視線でなぞる。

私「おまえ」

優子「びっくりした。しゃかしゃか、大きな虫かなにかだと思ったら、おじさんだった。手足、四本、全部別々の動きで気持ち悪かった。なにかの踊りみたいだった。気持ち悪いくらいならいいけど、迫ってくるし、あなたになぐりかかろうとして、右手を振りかぶったから、先になぐった。どうしたんだろう。あんなにいい人だったのに」

私「さわらないで。はなれて。酔って錯乱してるんだよ。おれを守ってくれて、ありがとう。優子はたぶん正当防衛だったから、気にしなくていいよ」

優子「でも」

私「しかたないって。分かった。とりあえず、ここに置いといて、人を呼ぼう。だから、早く住宅街のほうへ」

優子「あ」

私「だから」

優子「動かなくなった」

私「えっ」

優子「脈がない」

 長くのびて、動かなかった。どんなに打ちどころが悪くても、また、何発もなぐっていたようだが、優子の細腕で死ねるものだろうか。優子の恋人には信じられなかった。少し前より優子の影は濃く、細く、頭の先はぼやけて見えない。酔っぱらいはその影と地べたで融合していた。その融合体がふくらんだ。黒い。どす黒い。赤黒い。血だまりが、優子の爪先まで迫ってきたのだった。

 優子の恋人は彼女の肩を抱いて、のけぞりながら十歩後退した。優子はかたく、軽くなっていたのでとても運びやすかった。放心していた。自転車が彼の手をはなれて、当然、たおれ、派手に音をたててなまぬるい空気、ねばりつく静寂をやぶるまで、彼女はなにも考えられなかった。

優子「びっくりした。三メートルくらい移動した」

私「おかしい。急ごう。早くこの霧から出たい。なんだか吐き気がしてきた。しずかすぎて耳鳴りがする」

 優子は酔っぱらいを埋葬し、

優子「黙祷を捧げたい」

 と言った。優子の恋人は、

私「ほうっておきたい」

 と思った。優子の気持ちは尊重したいが、なにしろ夜が近かった。彼はひとりで勝手に妥協点を探し、ゆっくりと神妙にすり足で歩きながら黙祷を捧げるというあたりで手を打たせた。優子はやさしかったから、一生懸命彼が説得している姿を見せれば心を動かしてくれる。順調に優子の気がまぎれ、やがて歩調がはずむ。

 人家があった。左手、ガードレールは林立する街灯のうす緑の裸幹に変わっていて、たぶん、六時半か七時ぴったりの時刻に合わせて、いっせいに明かりがついた。そうでなければ気づかなかった。右手はコンクリートブロックを積んだ塀がつづいていた。つまり、その向こうが全部、人家だった。橋のたもとにコンビニがあった。当然、ふたりは自動ドアをくぐった。優子の恋人は自転車をとめなければならなかったので、同時ではなかった。

 店内は暗かった。奥にカウンター、丸テーブルと四角のテーブルが、中央に据えられたり壁に寄せてあったり、ほどよく按配されていた。数人ずつが卓をかこんでいた。コンビニらしくないという印象だったが、目がなれて確信した。バーそのものだった。しかも、いささかしゃらくさい。

店員「おふたり」

私「ええ」

 優子はカウンターにいた。そそくさと、優子の恋人はとなりに座った。

若者「ああ。だめだったようです」

中年「なにが」

若者「さっきのおっさんですよ。メールが来ました」

中年「死んだの」

若者「そういうことでしょうね。まあ、半々だったので、だめでもともとだったのかも」

じじい「あいつ、知ってるよ」

若者「そうだったんですか」

じじい「いま、思い出した。クリーニング屋のおやじだよ。国道をずっと行ったところに、登記所のちょっと手前にあるでしょう。ハイボールとまちがえて灯油を飲んでも平気だった。子供は五人いて一番上が二十五くらいで、下のふたりが双子の女の子で五歳くらい。すると、まんなかが二十歳くらいか、どういうわけかこいつだけ頭がよくて、海外で動物の研究をしているらしい。二番目は死んだよ。山のなかで迷子になって見つからなかった。死体も見つかっていないが、生きているということはないだろう」

中年「友達だったの」

じじい「飲んだことあるよ、ここで。顔つきが変わってて見ちがえたけど、きっとそうだ。いつも眉間の向こう傷を自慢していた」

中年「威勢がよかったんだ」

じじい「しょんぼりしていたな。眉毛が垂れさがってたもんな。

おやじ「おれがなぜクリーニング屋になったか知ってるか。返り血の染みを落とすのがうまくなりすぎたんだ。いまでも人をなぐるほうがもっとうまい」

 というのが口癖だった。

おやじ「腹の白さはシャツの白」

 とも。よく分からないが、腹黒でない、開けっぱなしの性格だと言っていたようだ。たしかに白いシャツばかり着ていた。だから、返り血も目立つんだ。馬鹿め。

おやじ「そばはのどごし、うどんは歯ごたえ」

 それに、

おやじ「干柿は睾丸に似ている」

 そういえば、

おやじ「柿を食わせるのは、いい。子供のおやつは柿にかぎる。木にのぼらせて、足腰も強くなる」

 とも」

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