(2)
優子「よく分かりました」
山田「飲んだくれるでしょう」
優子「お子さんは」
山田「いない」
優子「奥さまは」
山田「死にました」
優子「地震、火事、と、ひとことに言われても、大変だったでしょう」
山田「ええ、まあ。水がとまったのと、少し食料にこまりましたけど、さいわい家は無事だったし、地震はみんな大変だったから。火事も、乾燥していたし、あんなにでかいのはそんなにないけど、たまにあることです。みんなで協力してなんとかなりましたから」
優子「ぶちこわされたというのは」
山田「それも災害というか、防ぎようのないことです。川をくだってきましたから」
優子「川をくだって。なにが」
山田「お、おろち」
優子「ああ。ひとたまりもない。でも、怪我がなくてよかった」
山田「まぶたをちょっと切って縫いました。石が飛んできて、よけられなかった」
優子「ごめんなさい」
山田「王冠のように頭のてっぺんに苔が生えてた。それが八つ。われ先にと水面をすべって、こちらへ。頭同士はゆずりあったりしないから世界一むずかしい知恵の輪みたいにからまる。目がかがやいていた。赤く点滅して、工事中みたいだった。がさがさのうろこがそれを反射して、荒地か、おろし金か、嵐の前の海のざわめき、小さな三角がつのつのになって沸騰している、そうでなければ、蛇の口を真っ赤に咲かせたバラの花束。鳴いていたんだか、からまった首がきしんでいたんだか分からないが、あかんぼうが菜の花畑で泣くように、電信柱が虎落笛を吹くように、ぴー、ぴー、きー、きー、目の奥が痛くなった。ぴー」
酔っぱらいは、ひと声、叫んで長く尾を引き、失神しながら寝た。
優子「あの、寒くないですか」
私「もういいよ。ほっといてあげよう」
優子「でも」
私「さわらないで。だから、その、きたない」
優子「ほうっておくわけにはいかないと思う」
私「この人はこれが気持ちいいんだよ。毎日こうやってるんだから死にはしないし、寝てるのを邪魔するのはかえって迷惑だと思う。それより、飲み食いできて人が住んでいるところが近くにあるのが分かった。日が沈まないうちに」
優子「それより、って」
優子はその、それより、が気になった。気になってしかたがないから、ほかの比較的どうでもいいことは忘れた。優子の恋人は先を急ぎながら、優子に説明した。特別、その内容に説得力があったわけでもなく、会話している時間そのもの、足を動かすその運動が優子を落ち着かせた。
優子「動物園の園長さんに猿が苦情を言ったんだよ。最近寝不足でこまる、って。
園長「それはいけない。どうして」
猿「右隣のキリンが朝から晩まで馬鹿話をして、左隣のウサギは晩から朝まで笑ってる。これじゃあうるさくて眠れない」」
私「それで」
優子「おしまい」
私「小話なのかと思った」
優子「知り合いから聞いたんだけど。動物園に行ったことがある人なら笑うって聞いた」
私「そう。そういえば、動物園に行ったことはないかもしれない」
優子「キリンは首が長くて、ウサギは小さいから、声がとどくのに時差があるのね。それで、朝から晩まで、晩から朝まで、なんだって」
私「へえ」
優子「かわいそう」
私「園長さん」
優子「猿」
無色透明のまったく中性な話題に流れ、その確実性を認識して優子の恋人はやっと安心した。彼は、おもむろにふたりの思い出を語りはじめる。
私「水族館、覚えてる」
優子「知ってる」
私「いや、おれと行ったのを」
優子「覚えてない。でも、行ったんだ」
私「そうだよ」
優子「それなら、さっきのは笑えたんじゃないのかな」
私「動物園も水族館も同じようなものだってこと」
優子「ペンギンとかいると思うけどね」
私「それより、思い出すかもしれないから話していい」
優子「それより、って」
私「だからね」
優子「それより、動物園でいたずらした兄弟が三人、警備員さんに怒られたんだ。
警備員「ゴリラに餌をあたえないでください、って注意書きがあるでしょう。だめだってこと、きみたちは読めるし分かるよね」
三人「はい」
警備員「学校の先生に言っておくからね。ほら、名前を。なにをして、どう反省したか」
長男「たかしです。とうもろこしをゴリラの檻のなかに投げました。悪かったです。もうしません」
次男「やすしです。とうもろこしをゴリラの檻のなかに投げました。悪かったです。もうしません」
三男「とうもろこしです。ゴリラの檻のなかに入りました。悪かったです。もうしません」」
私「おもしろい」
さっきの小話にくらべれば、本当におもしろいと優子の恋人は思っていた。すだち大の太陽はむらさきに変色し、刻一刻となじみのうすい顔になる。暖色のころは、まだ正月に会った親戚のいとこの年上のお姉さんくらいには心をゆるせたのに、いまは友達の友達の新生児よりどうでもよく、しかし、なぐられてあざになっているので、気の毒で目を合わせたくない。彼はかわいた笑い声で沈黙を埋めながら、急ぎ足の歩調をくずさずに、あらためて思い出を語りはじめようと自転車のハンドルを握りなおした。人家にたどり着くこと、優子の集中力を持続させられるくらいのおもしろさをこれから切りだす話で担保すること、同時にこれらの重要事をさばくにはわれとわが身に決意のジェスチャーを必要としたから。