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御業の終わり

  記憶を失う前は間違いなく剣術の心得はあったのだろうが、子響に手ほどきされたとはいえ、今の自分には微塵もない。あまりにも不利だ。それでも抜かないと、男の気迫に押しつぶされそうだった。


 細身の反りがある得物を両手で握り締め、奥歯をかみ締めた。


 その様子を見た偉丈夫は、目を細めて見下ろすように顎をわずかに出し視線を投げてくる。


「俺に剣を向けるとは、いったいどういう了見だ」


 射抜く紫の瞳は、ロンフォールの心の臓を鷲掴む。その低くなった声音に、自分の判断の過ちを悟った。


 だが、今更、得物を戻せる余裕がないのも事実。


 シーザーがけたたましく吼え始める。それも自分に向かって。まるで、逃げろ、と言っているようだ。


 逃げたいのは山々だ。だが、足が縫いとめられたように動かないのだ。


「__なるほど、そういうことか」


 ちらり、とシーザーを一瞥した男は、独り言のように呟き、微かに片方の口角を上げた。


「誤解をしていたようだな、俺は」


 刹那、冷やりとしたものが背中を駆け抜ける。


 __自分が、以前の自分でないことを感づかれた……?


 本能的に危険を感じさせるこの男は、何者だ。


 射抜いてくる視線が重い。視線というものがこれほど力強いものなのか。


 目を外したら、刹那の間に殺されるかもしれない。__そうした想像ばかりが膨らむ。


 男が一歩踏み出した。


「シ、シーザー……逃げろ……!」


 __お前だけでも逃げて欲しい。


 あのとき、記憶がない自分を、全身全霊で守ろうと異形の生物の前に怖気づくことなく躍り出た彼。


 __俺が今度は守るから、だから逃げてくれ!


 だが、思いが通じることはなく、シーザーは逃げる素振りを示さない。寧ろ、いっそう激しく吼えている。


 __頼む……!


 ロンフォールは、警鐘しているその声を振り払うように強く地面を蹴った。目の前の身構える風でもない男めがけて、一気に距離を詰める。


 男も腰に刷いた得物に手を掛け、わずかに身構える素振りが見えた。


 そして、剣が男に届く間合いが数歩のところで、体当たりされたような衝撃があり、なすすべなく視界が滑って地面に叩きつけられる。


 何事かを確認する暇もなく、左足から頭に抜けるような激痛が走った。たまらない不意の痛みに、喉が裂けんばかりの叫び声を上げる。


 悶絶していると、足の辺りからゆらり、と白い影が離れるのが分かった。奥歯をかみ締めて、掻き毟っていた地面を掴んで痛みをやり過ごし、そちらを見る。


 見やった足元には、シーザーが静かに佇んでいた。その口元は鮮血で染まっている。それで、何が起きたのかを悟った。


「……あぁ……どうして……」


 シーザー__狗尾が自分を襲ったのだ。


 だが、どうしてだ。


 これまで守ってくれていた。


 そして、今度は、自分が守ろうとしていたはずの存在。


 自分に懐いていたはずではないのか。


 自分の狗尾ではないのか。それとも、この男の狗尾なのか__。


 __逃げろ、と言っていたんじゃなく、やめろ、と言っていたのか……?


 脈動する足の痛み以上に、シーザーの行動の衝撃が強すぎる。裏切られたような心地に思考が働かない。


 答えが見出せない中、うめき声を殺していると、狗尾は申し訳なさそうに耳をいつも以上に垂れさせ、鼻で弱々しい鳴き声をあげる。


 初めて聞くその声。


 謝罪もこめられているのだろうか、甘えたがる声音に、ロンフォールはどうしていいかわからず、手を左膝の裏に差し入れて動かない足を引き上げるようにし、右腕で地面を這って逃げるように距離をとった。


 そうして、男を見上げてみると、男は小首を傾げてこちらを見つめている。その視線に耐えられず、ロンフォールは首を垂れて視線を地面に落とす。


 __なんて様だ……。


 ぱたぱた、と短い音を立てて、涙が草に落ちるのが見えた。


 悔しい。何に対しての悔しさなのかはわからないが、とにかく歯痒いほどに悔しい。


 やれやれ、とため息混じりの男の声がして、ゆっくりと歩み寄ってくるのがわかった。


「泣くな、診せてみろ」


 もはや手には得物はない。先ほどの衝撃で手の届かない場所の地面に転がってしまっている。


 それをぼんやりと見つめ、抗う術などないことを痛感した。


 男は答えを待たず、患部に近づいて荒っぽく布を裂いた。その振動さえ、脳天に突き上げるほどの衝撃。


「手酷くやったな」


 そうシーザーに男が言い放って、ロンフォールに視線を向ける。


「落ち込むな。お前如きでは俺には敵わんから、やめておけ、冷静になれ、とお前を守る意味で吼えていたのだ」


 くつくつ、と笑って、男は患部を再び吟味する。


「……あなたは、誰なんだ……」


 問いかけに男が答えようと口を開いたときだった。


「その問いかけ、間違っているぞ。記憶のない龍騎士よ」


 別の場所__茂みの奥から聞こえた声。


 記憶にある声だ。


 誰のものか、と記憶を探ろうとした刹那、どん、と今度は鈍器で後頭部を殴られたような衝撃が走った。


 たまらず両手で頭を抱え、足の痛みを忘れるほどのた打ち回った。


 一気に血が沸騰する感覚。


「汝にこそ、問おう」


 呼吸が浅く、荒くなる。


 肺いっぱい吸い込みたいが、喉から先まで上手く送り出すことができない。鼓動も徐々に速くなってきた。


 痛み、苦しさに耐えながら、新しい気配を探す。


「あ……お前……たち」


 そこには、あの少女と魔物がいた。


 魔物の背から降りた少女は、手にしていた衣服を背後に投げつける。その衣服が魔物の肌に触れる瞬間、馬の身体が収束し、あのイェノンツィアが現れた。


「__汝こそ、誰ぞ」


 少女の声にしては威厳があるその物言い。


 それを聞いた途端、一番強い痛みが脳天へと抜けていった。


 声にならない叫びをあげ、ロンフォールは髪の毛を鷲掴む。


「潮時よ、戻してあげるわ」


 呟いて少女は、地面に伏して呻くロンフォールに歩み寄る。


「__均衡の神アリオクの名の下に」


 言うや否や、少女は青年の額を弾指する。


 刹那、何かが弾ける音がして、ぐいっ、とロンフォールの意識は深みへ一気に引きずり込まれた。

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