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狗尾 Ⅱ

 全身の緊張をとろうと、深く息を吐き出したそんな肩に、誰かが手を置いた。


 不意をつかれ、わっと身を返せば、驚いた表情の名代の青年がいつのまにか真横にいた。


 名代の男は深紅の瞳を細めた。


「貴方がヴァイナミョイネンを知らないはずがあるまいに__まあ、彼が教えてくれたから、何事も起こる前に駆けつけられて良かった」


「え? 彼?」


 槍をもった青年は、白い犬を示した。


「貴方の犬では?」


 いや、と首を振ると、その言葉を理解したのかのように犬が近づいた。青年に体を密着させると、肩口にその面長の顔を乗せる。その馴れ馴れしさ。


 座っている青年の顔より、座った犬のほうが顔の位置が僅かに高い__それほどの大犬。


 先ほどのことといい、守ってくれていたとはいえ、この犬は記憶にない。


 しかし、と青年は思った。


 __この感覚……。


 犬が隣に寄り添って、肩口に顔を乗せられた時から、その寄り添われる感覚が記憶に鮮明に残っていることを実感した。


 しっとりと心が温められるような安心感があり、さきほど草原で感じていた喪失感がいくらか減った気がする。


 __なら、この犬は……。


 横目でも視線が合うと、その犬は垂れている耳をさらに下げ、弱々しく鼻を鳴らす。思わず、その頭に触れた。


 頭の毛は短いが柔らかく、犬の体温をじんわりと伝える。


「……噂に聞いたことがある。龍帝従騎士団では、近々本格的に訓練された犬を導入するとか」


 犬の頭を撫でている様子を見ながら、年嵩の青年が始めて言葉を発した。名代の青年より低めの声であるが、いかつい印象の響きはなく、柔和に優しい響き。


「確か……狗尾いぬのおと呼ぶらしい」


 そこまで言った青年は、手にしていた槍ごと腕を組み、顎に手を添えて、じっと犬と青年を見つめた。


「リュング殿、仮に、この白い大犬の主が彼だとして、導師が仰った者は彼だと思うのだが」


「大きな白い犬とその主たる片割れの同胞の男__確かに符合するが……しかし、龍帝従騎士団の者となると……」


「言いたいことは分かる……しかしだな__」


「ちょっと待ってくれ」


 2人でなにやら唸り始めた様子に、そもそもずっと状況に追いつけていなかった青年がたまらず声を上げた。


「あ……っと……」


 そうして2人の会話を止めたはいいが、2人の視線を受けて、思わず視線をそらす青年。本当に場違いな感じが否めない上、そもそも何をしたかったのかが明確でないままに止めてしまったこともあり、少なからず罰の悪さを抱いたのだ。


 それでも自分の中にある違和感を拭いたい一心で、言葉を探りながら口を開いた。


「その……俺、何でここにいるのかもわからないんだ」


 躊躇いがちに視線を合わせぬまま発せられた言葉は、青年2人の予想外の言葉だったらしく、彼らは怪訝そうに眉をひそめた。


 そんな彼らの反応に、可笑しなことを言っているのだと自覚してしまい、居たたまれなさを感じながら、それでも言葉を続けようと、膝の上に置いた手を握り締めて俯いた。


「……目が覚めたら、変な化け物が居るわ、喰われそうになるわ、こいつが俺を守ろうとするわ、そしたら2人が現れてああだこうだ言って__」


 それに、とそこで青年は気づいた。


「__俺……」


 __あっ……。


 気づきはすぐに驚きに変わり、思わず言葉が詰まった。


 血が沸騰したように、体が急に熱くなる。


 全身が震えだした。


「大丈夫で?」


 明らかな態度の変化につぶさに気づいた彼らのうち、槍を持っていた青年が心配そうに顔を覗き込んだ。


 視界の端に彼の顔を捉え、恐る恐る青年は覗き込む彼の深い色の双眸を見つめる。


 その双眸に映る自分の顔__見慣れたはずのそれ。


「……俺」


 どうして、今までこのことにさえ気づかなかったのか。


 気づいた瞬間、漠然とした喪失感が、はっきりとした喪失感に変わった。


 犬とのふれあいで鮮明に思い出せた感覚。しかし、それ以外__自分に関すること全てごっそりと何もない。


 __どうして、気づかなかった……。


 自分の制服や得物を改めて見る。


 __これをいつから……。


 見慣れているそれらは、見慣れているだけでそれ以外の記憶が一切残っていない。ただ見慣れている感覚に囚われて、これほどからっぽだということを自覚できなかったのだ。


「……俺は__」


 言いたい言葉が出てこない。さまざまな形に口を変えてみるが出てこない。


「……俺……は……」


 悔しさや不安に声が掠れて、目尻から熱いものが零れ落ちた。


「如何した?」


 言葉をそこから進められない青年に、気遣うような声がかかる。


「……俺__自分の名前さえ、出て、こない……なんて……」


 青年の独白は、見守る2人の想像をはるかに凌駕するものであった。

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