オニキスの瞳
昇降口までの道すがら、翠雨は真凛の一歩斜め後ろを歩いていた。
「もし入りたい部活動がなかったら、生物研究会に来てくれると嬉しいな」
真凛は歩調を少々落としながら、優しく勧誘した。
翠雨はすぐに入部を決めようとは思わなかったが、仮に入部することになった場合、一つ重大な懸念を思いついた。
「あの人、少し変わってますよね」
「ん? 佳恋のこと?」
「はい……」
「少しどころかかなり変わってるね」
「まりんー-あっ、朝比奈さん? えっと、なんとお呼びすれば良いですか?」
「真凛でいいよ」
「はい。真凛さんはあの人と仲が良さそうですね」
翠雨は真凛と佳恋の会話を覚えている。「佳恋は健康的な生活している」ーーそれは真凛が佳恋をよく観察していないと出てこない台詞だ。二人はともに行動している可能性が高い。
「中学からの付き合いだよ」
「前からあんな様子でしたか?」
「そうだね。時たまに片鱗を見せていたっけ」
真凛は遠くの方を見ながら言う。そして、
「いろいろ矯正しようとしたんだけどね。もう処置の施しようがないのかもしれない……」
と呟き暗い顔をした。その様子を横目で確認しながら、翠雨は黙って歩く。
二十歩ほど進んだところでふと疑問が湧き、口を開いた。
「あの、どうしてあの人と関わっているんですか?」
翠雨の声が廊下に響く。真凛は彼女に顔を向ける。
「避けられてる人と関わったら、自分もそうなるんじゃないかと……」
人は群れると排他的になる習性がある。
周りから疎まれている人に関われば、自分も避けられる対象になるのではないかという疑念が浮かぶため、近寄るのを避ける。特別な事情がある場合は別だが、これが一般的な思考だろう。
翠雨は真凛の様子を伺うが、うつむいているため、表情は伺えない。答えたくない質問なのかと感じ取った翠雨は、
「すみません。今の質問は忘れてください」
と、早々に謝り、違う話題はないかと考え出した。
「どちらかと言えば」
するとふいに真凛が口にした。翠雨は思考を止めて話に集中する。
「避けられていたのは私の方だね。昔から人間観察、というより生物全般の観察が趣味で。
中学の頃、他の生徒たちをよく観察してたんだけど、周りの人たちは私のことを気味悪がってね」
真凛は淡々と話す。感情を表に出さないようにしているのだろうか。
「目に見えるような嫌がらせはされなかったけど。そうだなー、例えば、何かしら要件があるときに名前を呼んでも無視されたりとか、一番後ろの席だったときに自分のところまでプリントが配られなかったりとか、そういうちょっとしたものはあったな。……あっそうそう、グループ作るときなんか、明らかに敬遠されてたっけ」
真凛は思い出したように皮肉っぽく笑う。
「そんなある日一人の生徒が声をかけてきた。それまで全く関わりがなかったから警戒したけど、『別に何もしないよ。単にあなたに興味があるの』と言われた」
翠雨は真凜らの対面シーンが目に浮かんだ。
自分のときと比べて大きく差異があるようだが、当初あの人には能力がなかったわけだし、そもそも奇行をするような性格ではなかったのかもしれない。
「そこから話をするようになって、勉強したり実験したりして信頼関係を築き、今では悪友になったわけだね」
真凛はほくそ笑みながら翠雨の顔を一瞥した。翠雨は返答に困り沈黙する。
「実験」という言葉に引っかかったことは置いておき、返答の文言を考える必要がある。
周りから避けられていたことは良い話ではないし、あの人と一緒になったのは悪いことではない。個人的には警戒心を抱いているが真凛にとっては悪いことではないと推察する。
そうなると、良し悪しの返答はできない。
何の不自由もない中学時代を送ってきた自分とは違って、周りを常に警戒し、相当苦労してきたのだろう。
共感や同情という形の返答ならばよいのではないか。無関心なやつだと思われる可能性があるが、彼女の人柄上気に障る可能性は少ないと見た。
「大変だったんですね」
翠雨は柔らかい声で共感の意を示した。
すると真凛はちらりと横目で翠雨を見たが、何も口にはしなかった。
その後二人は階段を降り、一階に差し掛かった。昇降口まではあと少し。翠雨は真凛の後ろをただひたすら黙々と着いていった。
自分一人では絶対に抜け出せなかったであろう道を彼女は何一つ迷うそぶりも見せず進んでいく。
その凛々しい後ろ姿を、翠雨は意識するでもなく観察していた。
肩まで伸びた髪は制服の黒色とは違いつやがある。
体の均整がとれており、すらりと伸びる手足は天に恵まれた証拠だ。
度々ふらりと鼻を抜けるさわやかな甘い香り。佳恋とは対照的で、冷静でおとなしい透き通るような純粋なイメージ。この香りは香水によるものなのか、シャンプーやリンスによるものなのか。
周りを映し出す鏡のように艶やかなその髪は、特殊なコーティングを施しているからか、自然のものなのか。
感触はどうだろう。つやつや、それともさらさらだろうか。そっと手を伸ばして……。
程よい疲労と暗がりで二人きりという狭い環境が、翠雨の思考回路を蝕んでいき、さわやかな甘い香りが再び鼻を通り抜けたその瞬間、翠雨の気が遠くなった。
「もう少しでーーんっ!?」
驚きと色気の混じった声。水と油のような声に翠雨は意識を取り戻す。
すぐさま周りの景色に焦点を合わせると、真凛が数歩離れた位置で胸を抱え込むように押さえていた。
「どういうつもりなのかな?」
透明なガラスの奥で、オニキスの瞳が鋭い輝きを放つ。
棘のあるその声に、翠雨は背筋が冷えた。
「あ……えっと、すみません、ちょっと一瞬だけ気が遠くなって、何か問題がありましか?」
翠雨は恐る恐る問いかける。真凛は数秒の間、じっと彼女の様子を観察し、嘘をついていないことを確信した。
「いや、大丈夫。それより君のほうが心配だ。大丈夫かい?」
そう言って真凛は警戒を緩め、翠雨へ距離を詰める。
「はい、問題ないです」
「わかった。昇降口はもうすぐだよ」
翠雨が頷いたのを確認し、真凛は再び歩き始める。
もう少しで学校から脱出できると翠雨は期待を膨らませる。
そしてまもなく昇降口へ到着した。
「到着! ー-って言っても、1-Cまではまだちょっとあるけどね」
この学校の生徒数は全部で千二百人。クラスはAからHまであり、全学年を合わせると総計二十四組あるため、昇降口は相当広い空間となっている。二人は3年H組の靴箱がある方向から来たので、翠雨の所属する1年C組の靴箱までは距離があるのだ。
もう日が落ちかかっている。周りに人の気配は全くない。
朝の賑わいのある景色とは対照的で、まるで別世界のようだった。
「ここだね」
目を凝らして目的の列を発見した真凛が、早足で靴箱へと向かい、翠雨に手招きする。
「案内はここまででいいかな?」
「はい。ありがとうございます。本当に助かりました」
翠雨は深くお辞儀をし、自分の靴箱から外靴を取り出した。
「それじゃ、気をつけて帰ってね」
真凛は肩の高さに左手を上げ、ひらひらと振る。靴を履き終えた翠雨は直立し、
「はい。さようなら」
と丁寧に別れの挨拶をしてから校舎を後にした。
♡♡♡
昇降口で翠雨を見送った後、真凛は生物研究室へと戻った。
広い空き教室に誰もいないのを確認し、隣の実験室へ入る。
すると、佳恋が中央の大きな机に両肘を預け、アルミでできた飼育かご内のハムスターをぼんやり眺めていた。
「あ、おかえり。ちゃんと送ってあげた?」
真凛は首を縦に振った。
「あの子に何か聞いた?」
佳恋は目を輝かせながら真凛にがっついた。
「いや、こちらからは何も。彼女の質問には答えたけど」
「どんな質問?」
「佳恋がーー」
「え? 私が何!?」
佳恋が前のめりになって返答を促す。
「変人なのはいつからだって」
「えー、うれしー」
佳恋がふと笑顔をこぼす。
「何で? 変に思われてるわけだよ?」
真凜は不思議そうな声で問いかける。
「あの子が関心を持ってくれたってことでしょ?」
「……まあ、好きか嫌いかを置いておけばそうかもしれないが」
「無関心から関心ありになった。これは大躍進だよ!」
佳恋は天を見上げながら清々しく微笑む。
「相変わらずの思考回路だね」
真凜が呆れた声を出した。
「それでそれで、他には何を聞かれたの?」
「特にないよ」
真凜は佳恋とつるむきっかけを聞かれたわけだが、その話は打ち明ける必要はないと判断した。
「えー、つまんない。何かないの? 昇降口まで結構距離あったじゃんかー」
佳恋は不満足そうな顔で不平をぶつける。
「……」
昇降口付近で起きた出来事を思い出し、真凜の動きが一瞬止まった。
佳恋はその様子を逃さず捉えていた。
「真凜、なんかあったんだ!?」
「いいや、何もないよ」
真凜は平然と振る舞うが、ほんのり染まった頬の色を一瞬で消すことはできなかった。
「顔が赤いような……あやしー!」
佳恋は鋭い目つきで彼女を追及する。すると真凜は息を深く吸い、「ほんとに何もなかったよ」と静かな口調で返答した。
「うーん……なんかダウトフルだけどそういうことにしといてあげよう」
真凛は心の中で胸を撫で下ろした。
「じゃ、尋問も済んだことだし、帰り支度しよっか」
佳恋はカバンを持って部屋を出て、教室内の机のお菓子を片付ける。
真凛はカバンに資料を詰め込んで、チャックを閉めた。
そしてカバンを肩にかけ、02の住処である飼育かごを持ち上げた。
「02、帰宅の時間だよ」
あまり動かないハムスターに声をかけるが、当然返事はない。
「じゃ、行こうか。鍵をお願い」
「はーい」
壁際のスイッチを押して照明を消し、実験室から退出する。
「窓は閉めたね」
実験室の鍵を閉めた佳恋に真凜が確認する。
「もちろん」
「よし。じゃあ行こう」
教室内の照明を消して外へ出て、扉を施錠した。
「はぁ、明日から楽しみだなー」
「何が?」
うわついた声の佳恋に、真凜が問いかけた。
「マイ・ディステニー・プリンセースに会えるのが!」
佳恋が極端に声のトーンを落としながら強調した。
「また生活指導の先生から説教を食らいたいの?」
「うーん、それはやだ」
「じゃあ行動は控えなさい。される側の気持ちを考えて」
「うーん、そうだね。わかりました。極力控えます」
佳恋が素直に聞き入れたことに対し、真凜は本当に理解しているのかどうか疑念を持った。
そして、新入生を守るためにも、念のため監視の目を光らせておこうと決心した。