放課後
「はぁ」
ガラス戸から斜陽が差し込む教室で、水樹翠雨は椅子に全体重を預けて脱力し、深くため息を吐いた。
クラスメイトたちが教室の外へと出ていくのを、しばらくの間ぼんやりと眺める。
先週の金曜日、この私立j高校に入学し、休日を挟んでの月曜日。入学オリエンテーションで一日中話を聞かされ、体に疲れがたまっているのだ。
「帰ろう」
背もたれから全身の体重を受け取り、少し寄れた制服を伸ばし、帰り仕度を始める。
机の横に取り付けられたフックから、傷のない新品のカバンを持ち上げ机の上に置く。
小さなテディーベアがぶら下げられたチャックを全開にし、机の中からプリントや筆記用具を取り出して、中へ詰め込んでいく。
手際よく帰り支度を済ませた翠雨は、カバンを肩にかけて立ち上がった。
「部活見に行こー」や「カラオケ行きたい人ー!」など、新たな高校生活の期待に満ちた声が飛び交う教室を出て、お手洗いへと向かった。
丁寧に掃除のされた小奇麗な個室から出て、洗い場で手を洗う。
ポケットから取り出した花柄のハンカチで手を拭きながら顔を上げると、彼女の顔が光沢のある銀色の鏡に鮮明に映し出された。
十五年付き合ってきた顔。
傍から見て不細工ではないのだろうが、綺麗に整っているわけでもない。
テレビに登場する女優やモデルに比べたら、本当にちっぽけな存在だ。
化粧をすれば多少は変わるのかもしれないが、自分には美容の知識がほとんどない。
もしも化粧するなら、ネットで調べるなり、誰かにやり方を聞くなりしなければならないわけだが、そもそも綺麗にしたところで誰に見せるわけでもない。
クラスの中では化粧している人の割合の方が多かった気がする。化粧している派が六割といったところだろうか。香水に限って言えば八割の人が付けていた気がする。
クラスメイトは顔がきれいな子が多く、詳しい人は多そう。いずれやりたいとは思うけれど、今でなくてもよいだろう。
翠雨は自分の顔を一瞥してからお手洗いから出た。
「階段は確か」
広い廊下に出てあたりを見渡しながら、下の階へ降りるため階段を探す。
「あれ? ここら辺だと思ったんだけど、おかしいな……」
しかし、あるはずの階段が見つからない。
きっと記憶違いだとしばしの間歩き続けたが、全く階段は見つからなかった。
「ここどこ……」
まるで迷宮のように複雑に入り組んだ校舎。廊下の壁に張り紙などの目印があればよいが、全く見つからない。陽光もいつの間にか遮断され、真っ白な壁が曲がりくねりながら果てしなく続いていく。
翠雨は完全に方向が分からなくなってしまった。
朝の登校時は和気藹々と会話する女子グループの後をついていったので、迷うことはなかった。
けれど今は、自分ひとりしかいない。
何の道標もないまま知らない場所を進むのは、道を覚えるのが得意ではない彼女にとって致命的だった。
「はぁ、はぁ」
彼女は走った。ただひたすらに階段を求めて。
しかし、目的の階段は全く見つかる気配がない。まるでハムスターの回し車のように同じ場所をループさせられている気分だった。
焦りと困惑が差し迫りながらも、階段を見つけるためひたすら校内を駆け回り、体力も尽きかけてきたころで、真っ白な壁、つまりは行き止まりへと行き着いた。
「はぁ、はぁ。なんでこんな見つかんないかなー。ふぅー。誰ともすれ違わないのも絶対おかしいし!」
ダムが決壊するかのように、声を大にして不安を吐き出す。
しかし、怒ってもどうにもならないとすぐに判断し、大きく息を吸って気持ちを切り替えた。
息を整えた翠雨は引き返そうと横を振り向く。すると、壁には茶色のドアがあり、彼女の目の高さより少し低い位置に『生物研究会』と書かれたプレートが貼ってあった。
「ここって……」
聞いたことのない名前だ。部活動紹介はまだ先だから当然のことだが、それにしても生物研究会なんてものがあるとは思わなかった。
一体どんな研究しているのか。何かしらの成果を上げているのだろうか。
ドアはガラス張りではないため、中を覗き見ることはできない。
ドアの下に隙間はないようで、明かりが漏れている様子もない。
息を殺して耳を澄ませるが、中から物音は全くしない。
誰もいない空き部屋なのだろうか。いや、希望を捨てるのはまだ早い。
もしかしたら部活動中で人が中にいるかもしれない。
翠雨は思考を巡らせながら、生物研究会のドアノブに手を掛けた。
一人でいい。誰か一人でも中にいてくれれば、この迷宮から脱出できる。
心の中で祈りながら、ドアノブを捻った。
「あの、すみません……」
鍵はかかっておらず、翠雨はドアを開けることができた。
慎重に、そっとドアを半開きにして、翠雨は弱々しい声を室内に届ける。
返事はない。誰もいないのだろうか。だとすれば鍵が空いているのはどうしてか。
そう懸念を抱きながらドアを全て開き、翠雨は室内へと入った。
部屋は翠雨が思うより広かった。
クラスの教室より一回り小さいが、それでも三分の二程度の広さがある。
扉の正面は窓ガラスが一面を覆っている。左側の壁は少し小さな黒板、右側の壁までは少し遠く、角には同じ茶色の扉がある。
生徒が使う机と椅子のセットがふたつ合わせて窓際の壁付近に置いてある。
そして、その机の隣に、制服姿の女子が一人、夕焼けの窓の方を向いて立っていた。
「あの」
そっと囁くように声をかけると、その女子は艶のある茶色の長髪を優雅に揺らしながらゆっくりと振り返った。
端正な顔立ちで、まつ毛が長い。均整の取れた体をしている。電気がついていなのではっきりとは見えないが、美人の部類に入っていることは間違いなく断言できた。
「あの、私まだ校舎慣れてなくって、迷ってしまって、いつの間にかこの場所にたどり着いて……」
事の成り行きを話す翠雨。その声は話すにつれだんだん細く小さくなっていった。
慣れない校内で迷ったという不甲斐なさが一つ。
そして、拙いながらも説明を続ける彼女の元へ、手を後ろに回しながらじわじわと近づいてくる女子生徒への不安が一つ。
「なので、地図とかあったら見せてもらいたいです」
翠雨が要件を伝え終えたとき、女子は彼女のすぐ目の前まで近づいていた。
何故これほど接近してきたのか、内心疑問に思う翠雨。
パーソナルスペースが極端に狭い人なのか。声が聞き取りづらかったのか。それとも……。
「あ、あの、私の顔に何かついてますか?」
翠雨は腰引き気味に問いかける。すると女子は手を胸の前で合わせながら、
「ノックもなしに誰が入ってきたかと思えば、こんな可愛い子ちゃんだったなんて。うふふ」
と小悪魔のように悪戯っぽく笑う。そして、
「少しじっとしててね」
吐息混じりの声で妖艶に囁きながら、さらに顔を近づけてきた。
誘惑するような夢うつつの甘い香りが翠雨の鼻をくすぐり、浮遊感に包まれるが、すぐに振り払って彼女から遠ざかろうとする。すると突然、翠雨の体が硬直した。
ーーあれ? 体が動かない!? どうして?
思いがけない事態にどうしようかと焦る合間にも、女子の顔はみるみる翠雨に近づいていく。
二人の距離はあと五十センチ。
どちらかがもう一歩詰めたら、顔が当たってしまう距離だ。
あと三十センチ。女子は目を瞑り、翠雨は内心さらに慌てふためく。
二十、相手の息使いと、
十五、相手の温もりを感じ取り、
避けられないと悟った翠雨は、ぎゅっと目を閉じた。