バーにて。
今度は白河さん行き着けのバーに連れて行かれる事になった。
彼女は今夜も、僕と会うまでこの店で飲んでいたらしい。
ここにバーがあると知っていなければまず来ない場所にあるからか、深夜一時に差し掛かるこの時間はほとんど客がおらず、カウンターに女性が一人座っているだけだった。
「あら。忘れ物?」
カウンターに座っていた女性は、白河さんに気がつくとカウンターから立ち上がって言った。白河さんはそれに手を振って答える。
「違う違う、飲み直したい気分だったの。ユキコさん、二人なんだけど、いい?」
「ご覧の通り、お客さんいないわよ。どうぞ」
ユキコさんと呼ばれたその女性は、どうやら客ではなくこのバーのスタッフのようだ。手でどうぞ、と言わんばかりにカウンターへ促され、僕たちは勧められるままにカウンターに座る。
ユキコさんは席に着いた僕をまじまじと見て、とても不思議そうな顔をしている。
「そちらは……ええと、お友達? 男の人がなんでそんな格好してるの?」
ユキコさんの一言に、思わず凍りついた。
薄暗い店内でもすぐわかるくらいバレバレの女装なんだろうか。だとすれば、僕は覚悟を決めて家を出てからずっと恥を晒し続けていた事になる。
「あーあ、言っちゃった。はっきり言わないでおいたのにー。ファミレスでも案内の人がびっくりしてたの、やっぱり気付いてなかったんだね」
全然気づかなかった。
ファミレスにいたころは全然そんな余裕がなかった、といった方が正しい。まだお酒を飲んだわけでもないのに、身体が熱くなる。
「あれ? これ、言っちゃダメだった? ごめんなさい、割と似合ってるわよ、それ」
「ウイスキー、なんでもいいんでストレートで下さい」
この数時間、うまく女装出来てると思っていた自分が、途端に恥ずかしくなる。ユキコさんが慌てて取り繕おうとしていたけど、気休めの言葉より今僕が欲しいのはしっかり酔えるアルコールだった。
「ふうん。相馬さんと初デートは映画館かあ、何かベタだねえ」
自分がした質問だと言うのに、白河さんはとてもつまらなそうな顔をしてそういう。。
僕は返事の代わりにグラスを傾け、残っていたぬるいウイスキーに口を付けた。しゃべらされすぎて、喉がカラカラだった。
相馬さん、というのは僕が恋焦がれる相手の名前で、かなり最初の段階で聞き出されてた。
今空けたグラスは、ヤケクソで空けた一杯目のお代わりだ。入店してかなり時間が経つはずなのにまだ二杯目なのは、飲むヒマがなかったから、としか言いようがない。
相馬さんがどんな人なのか、どれくらい近しい相手なのか、どういうシチュエーションで告白をしたのか……それはもうあれこれと聞かれて、せっかくのお酒も酔いを運んできてはくれない。
そもそもおかわりを頼んでおいてほとんど飲めていないのだから、酔うヒマがないと言った方が正しいかもしれない。
「もう一杯、下さい。今度はロックで」
空になったグラスを差し出して、僕はおかわりを注文した。ユキコさんがやっと口を止めて手を動かし始めたので、賑やかだった場の空気が突然静かになる。
何となく手持ち無沙汰でキョロキョロしていると可愛らしいハト時計を見つけた。
既に時間は二時少し前。質問に答えているうちに、一時間近く過ぎていたらしい。
でも、不思議と帰りたくはない。もう少しこの空間に浸りたい気分だった。
白河さんとユキコさんがまるで女子高校生のように目を輝かせて質問をあれこれぶつけてくるものだから気がつかなかったけど、僕はこのバーと空間に居心地の良さを感じ始めているらしい。
屋根裏部屋のような狭い空間に、主張しすぎないアンティークのインテリア。人懐っこく、でもきちんと相手をしてくれるユキコさんに、座り心地のいいカウンターチェア。
どれもこれもが自然に僕に馴染んで、心地よい時間を与えてくれている気がする。
いつのまにか、バーの雰囲気を楽しむだけの余裕が生まれている。酔いか現実逃避かもしれないけれど、それでも一人で悶々と悩んでいた事を考えれば大分マシだ。
「はい、お代わりどうぞ。で……安達さんはつまり振られたって事?」
一人で現実逃避を続けていた僕は、ユキコさんの質問で突然現実に呼び戻された。
言われるまでもなく、僕はこの告白が失敗していることを悟っていたからだ。
「まあ、多分。普段なら相馬さん、こんな困らせるようなこと言わないですから」
僕はユキコさんからグラスを受け取りながら、返事をする。
相馬さんは突飛な発想を持ってはいるけど陽気で、少なくとも無理な注文をつけて面白がるような人じゃない。
多分、無理難題を突きつけたのは『お互いに冗談で終わらせよう』と言う彼女なりの婉曲な断りだ。関係を悪化させたくない気持ちは、わからないでもない。
僕は両手をカウンターの上で組みながら、失敗に終わるだろう恋に思いを馳せる。
何だかんだで入社から五年間を同じ職場で働き、その内二年間は秘めた思いを隠しながらも親しく接してきた僕には、想い人の返事の意図が痛いほどよくわかっては、いた。
「足は閉じなさいよ、みっともない」
白河さんはそう言いながら、どっかりと広げた僕の足をこつんと蹴りつけた。失恋の余韻に浸る暇もない。
慌てて姿勢を正す僕を見て、彼女は満足げな顔でグラスに入った焼酎を煽った。確かあのグラスはもう五杯目だったはずだ。
「ユカちゃん、慣れないかっこしてるんだから多めに見てあげなさいよ」
「フラれるならその女装、無駄じゃない」
ユキコさんのフォローは、白河さんによってばっさり跳ね除けられてしまった。ちなみにユカというのは白河さんの下の名前で、二人はこうして下の名前で呼び合っている。これがまた、居心地がいい。
それにしても、無駄とは情け容赦のない言葉だ。思わず苦笑いが浮かぶ。するとそれを見咎めるように、白河さんがくるりと僕の方を向いて言った。
「大体、どこがいいのよ。聞いてる感じ、あんまり性格よくなさそう」
白河さんの言葉に、ずきりと胸が痛む。
告白を受けたあとの相馬さんの表情の動きや、その場の空気が上手く伝えられないのが、もどかしい。普段陽気で強気な彼女が、すがる様な顔を見せたのは記憶にある限り、あれが初めてだ。あれは、察してくれと言いたいのを必死に堪えていたに違いない。
答えない僕に、白河さんは更に言葉を重ねる。
「どこかでまだ少しでも希望あるって思ってたりしない? フラれるのわかってて女装して仕事いくなんて、ちょっと信じられない」
「希望なんてないですねえ。相馬さんは多分働く環境とか壊したくなくて、僕とも今まで通りの関係でいたくて、それを察して欲しいからあんな返事したんだと思います」
多分この格好を見ても、相馬さんは誤魔化すか、告白を煙に巻くだろう。もしかしたら、本気で迷惑がられるかもしれない。
自分でも、無駄な事をしているのは痛いほどわかっている。
「はい、お代わり。それにしてもユカちゃん、今日はホントペース早いわね。ささっと飲んでささっと帰っちゃったと思ったらまた戻ってきて。飲み過ぎはよくないわよ」
「はーい。それにしても、安達さんはマジメだねえ。それともマゾ?」
「二年、ずっと好きだったんですよ。せっかく思い切って告白したんだから、自分の気持ちに嘘はつきたくないじゃないですか。ものすごく悩みました。期限ギリギリまでストッキング買いに行けなかったくらいですから」
正直に言えば、関係が崩れるのは怖い。でも煙に巻かれるのも、自分の告白を冗談だったと卑下するのもどうしても嫌だった。
「本当に好きだったんです。相馬さんの事。本当に」
その気持ちにだけは、嘘を付きたくなかった。
「こじらせてるなあ、安達さんは」
白河さんはどこまでも情け容赦ない。でも何だかその接し方が嬉しかった。
「あ。僕ちょっと、トイレ行ってきます」
目に涙が滲むのを止められそうになくて、僕は慌てて席を立つ。行き先は、ユキコさんが指で示してくれていた。
涙は、思ったより流れなかった。すっきりした気持ちで戻ってくると、白河さんは僕を見て立ち上がる。トイレを待っていたんだろうか。
「ノロケ、ご馳走様。ついでにここも、ご馳走様。わたし、帰るね」
「え? 帰るんですか?」
まだまだ付き合わされるのかと思っていただけに、白河さんの発言に少し驚く。
居心地の良さにもう少し浸っていた。少し、寂しい気がしないでもない。
「そういえば安達さん、ガム買ってたよね?」
彼女は僕の気も知らず、手を差し出してくる。
僕は慌てて隣の椅子の上に置いていたバッグから名刺サイズのパッケージを取り出して、その手の上に置いた。
「よくわからないけど楽になりました、ありがとう」
素直な感謝の言葉が、自然と僕の口からこぼれる。
白河さんは、ガムを取り出すのに苦戦しているのかこちらを見ようともせずに手に持ったパッケージと格闘していた。
「……お礼はこっちでしょ、付き合ってくれてありがとね。はいこれ、返す」
そう言うと、パッケージごと僕に手渡してきた。正直な所、僕はあまりガムを食べない。持って帰っても良かったのに。
「じゃ、ユキコさん。また来るね。お会計は、安達さん任せだから」
「はいはい。飲み過ぎて明日遅刻しちゃ、だめよ?」
白河さんはそこでやっと、慌てたようにドアに駆け出した。
彼女を見送って、ふと僕は気付く。心の中に溜まっていた思いを全て吐き出したせいか、数時間前に自宅でひたすら悩んでいた自分が嘘のように心が軽くなっていた。