竪琴
この惑星フリームの1年は13カ月。
そのうち半分は冬季である。
北半球では6月から12月まで、南半球では11月中旬から翌年の4月中旬までのざっと6カ月間、フリームは雪で白く閉ざされる。
6カ月と言っても地球の暦に直すとそれは約9カ月の長さになる。フリームの1カ月間は6週間、すなわち42日もあるのだから。
ちなみに春と秋は約2カ月(地球暦3カ月)、夏は3カ月(地球歴4カ月半)ほどである。例外は、赤道直下のごく限られた地域のみ。
フリームは『可住寒冷惑星』なのだ。
559年1月。
南半球は冬の盛り。
その中を、一人の少年が北に向かって歩いていた。
たった一人で。雪の中を。
フリームの冬は長く、辛い。
金のある旅人は宿で冬籠もりをする。
金のない者は、その土地の領主や実力者など裕福な館の扉を叩く。
叩かれた扉は必ず開かれる。
冬の間旅人をもてなすのは、領主や実力者の義務だ。
それはフリームに古くからある慣習。
いや、掟と言った方が良いかもしれない。
もてなすだけの力がありながらその扉を閉ざすことは罪悪であり、侮蔑の対象となる。
逆に、己や、己の妻子を犠牲にしてまでもてなしをした領主の話は美談として語られる。
何故か。
答えは簡単。領主や実力者は、その土地の者を守らなければならないからだ。
冬、どこにも泊まれず、食料と暖を取ることができず、追い詰められた者は自分が生きるために他の者を襲う。その土地の力弱き者を。
だけでなく。
そのまま春になってもそこに留まり、その地域を荒らす賊になることもある。
それを防ぐために、土地の者を守るために、領主や実力者は旅人をもてなす。
同時にそれは自分の寛大さを世に広く知らしめるためでもある。
この時代、旅人は貴重な情報源。
良い領主という評判が広まれば、住民は近隣から流れ込んでくる。
人口が増えれば土地が富む。
領主の収入も増える。
もてなしは旅人のためであり、また旅人のためだけではない。
だが少年はどんな家の扉をも、叩こうとはしなかった。
一人で歩く少年をいぶかり、声をかけようとした者は、いた。実際にかけた者も、多少は。
しかし皆、少年の尖った耳を見てギョッとした表情になり、後ずさるのだ。
少年は人ではなかった。9才(地球年齢14~15才)の外見を持ちながら、実際は35才(地球年齢56才)であった。
だが、エルフでもなかった。エルフの部分は、殺されてしまったから。
人であって人でなく、エルフであってエルフでない。
それはこれから先、少年に一生ついてまわるフレーズ。
少年の名をリートと言った。
リートは歩いていた。
何も考えず、機械的に両の足を動かして。
ただ、歩いていた。
昼も夜も。
休息も取らずに。
飲まず食わずで。
ただ、歩いていた。
北へ。
北へと。
『谷』から、『聖域』から、できるだけ遠くへと。
ただ、歩いていた。
声をかけようとした者を、実際に声をかけた者を、すべて無視して。
彼はただ、歩いていた。
北へ。
北へと。
死んだ心を抱えたまま
ただ、歩いていた。
無為に先延ばしにされた死に向かって。
足がもつれた。
衝撃。
半身が雪に埋もれる。
ああ、倒れたんだ、と、リートは思った。
頬に触れる雪がなぜか心地よい。
口元の雪が、吐く息でじんわりと溶け、唇を濡らし、凍っていく。
聖域を出てちょうど一月。
暦はいつしか2月になっていた。最も寒さの厳しい季節。
今、リートがいるあたりは、聖域に比べればずっと北側。すなわち、赤道に近い。
それ故、冬の訪れも聖域に比べれば遅く、気温も若干、高い。雪の積もり方も少ないようだ。
だが、白く閉ざされる季節であることに変わりはない。
ほら。
また、空から白いものが落ちてきた。
(やっと、終わる――)
リートは小さくため息をつくと、目を閉じた。飲まず食わず、歩き詰めで一カ月。自分でも、こんなに『保つ』とは思っていなかった。
(父様、ごめんね…)
父親が、自分が生きることを望んでいると、知ってはいた。だが自分は、もう生きることを望んでいない。
(ごめんね、父様――)
意識が、ゆっくりと落ちていった。
光、だった。
光が差し込んできた。
暗く閉ざされた意識の中に。
細く小さな、しかし確かな輝きと熱を持った光。
冷えきった心を、凍え死んだ心を、蘇生させるのに十分な、一条の光。
旋律。
光は旋律であった。
今までに聞いたことのない、旋律。
歌、ではない。
旋律。
音の連なり。
歌詞はない。旋律だけが、ただ流れていた。
旋律は歌っていた。
生への賛歌を。命の輝きを。
生きよ
と、それは歌っていた。
生きよ
生きよ
生ある限り生きよ
と。
初めて聞く、旋律。
初めて聞く、音色。
暗黒に閉ざされた心に、徐々に光が満ちていく。
冷えきった心が、暖まっていく。
ゆったりと、ゆっくりと、旋律がリートの心を満たしていく。
生への賛歌が、命の輝きが、ゆったりと、ゆっくりと。
(竪琴……)
だろうと、思った。話には聞いているが実物はまだ見たことがない楽器。
(誰かが竪琴を弾いてる……)
見てみたい。
本能的な衝動が、リートを死から引き離す。
今の今まで望んでいた死から。
見てみたい。弾いてみたい。そして…
(歌いたい……)
それは忘れていた衝動。忘れていたリートの本質。彼は確かに、歌であったのだ。
ゆっくりと、目を開く。
そして知った。小さな小屋の中にいることを。
(誰が、僕を……?)
人、ではないはずだ。人であれば誰でも、この耳を見ただけで逃げ出す。
だがエルフでもないはずだ。自分の中のエルフの部分は殺されてしまったのだから。
竪琴が鳴り止んだ。
年老いた男がリートをのぞき込む。
「……」
あなたは誰? ここはどこ?
先刻竪琴を弾いていたのはあなた?
問おうとしたが、声が出ない。
老人はリートをそっと抱き起こし、何やら白く濁った液体に満たされたコップを、リートの唇に押し当てた。
「お飲み。体力が回復する」
言われるままに飲み下した液体は、かすかに甘く、さわやかだった。
「もう、二度とあんな無茶をしてはいけないよ、リート」
驚いて老人を見上げる。何故、名前を?
「今はとにかく、体力を回復させることだけを考えなさい」
そう言って老人は、再びリートを夜具の中へと横たえた。
「……」
だがリートは知りたかった。
この人は一体誰なのか。
何故自分を助けたのか。
見たところエルフではない。
では、何故……?
そんな思いが通じたのか、老人はただ一言、告げた。
「私の名は、トーマス」
(正直トーマス!?)
遥かなる昔。
まだ、エルフが地球にいたころ。エルフの国に連れてこられ、予言の力を得、真実の他は口にすることができなくなった竪琴の名手がいた。
純然たる人でありながら、エルフの仲間に加わった者が。
エルクドゥーンのトーマス・ラーモント。
(まだ……生きていたんだ……)
カラムじいに聞かされたその話を、リートは瞬時に思い出した。
人でもエルフでもない者。それが、彼だ。
(だから、僕を…)
納得した途端、安心した。リートは瞬く間に深い眠りに落ちていった。
それは体力を回復するための眠り。
白く濁った液体の力――
自力で起き上がれるようになるまで、3週間かかった。
トーマスはほとんど口をきかなかった。
代わりに、竪琴を弾いていた。
竪琴は雄弁だった。持ち主と違って。
いや、竪琴が雄弁だから、持ち主が無口になったのかもしれない。
リートはそれを、じっと凝視めていた。
自力で起き上がれるようになったリートが最初にしたことは、竪琴を弾かせてほしいと頼むことであった。
トーマスは、何気なく竪琴を貸し、そして仰天した。
少年の指先から流れ出たのは紛れもなく「彼の言葉」。
そこには少年の意志が、はっきりと表現されていた。
たった3週間凝視めていただけで、彼は竪琴の弾き方をほぼマスターしてしまったのだ。まだ慣れない分、幾分たどたどしいのは仕方がないが。
「授けよう」
トーマスは約束した。
「授けよう。竪琴の技を、全て」
雪解けの季節がやってきた。
長い冬が、終わりを告げる。
日に日に春めいてくるそんなある日。
「何故だね」
トーマスはリートに尋ねた。
「何故、竪琴の弾き方しか聞かぬのだ?」
問われて初めて、リートは気づいた。
何故自分を助けたのかを、何故自分の名を知っていたのかを、聞いていなかったことに。
どうでもよくなっていたのだ。竪琴以外は全て。
だが。
「教えてください」
聞かなければならないこと、なのだろう。トーマスがそう言うからには。
「何故、僕を助けてくれたのですか。何故、僕の名前を知っていたのです?」
トーマスは苦笑とも取れる笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がり、小屋の入り口へ向かった。
「ついておいで」
リートは、約4カ月ぶりに外気に触れた。
トーマスはリートを洞窟に連れていった。
狭く、暗い洞窟を、スタスタとトーマスは歩いていく。老人とは思えない足取り。必死についていくリート。
突然、目の前が開けた。
「森……?」
洞窟を抜けたその先に森があった。
(森……)
聖域……。森の民……。
(父……様……)
竪琴を手にし、歌を思い出したその時から、リートの胸には再び『感情』が戻ってきていた。
(もう、会えない)
胸の奥がきしむ。
「こっちだ」
立ち止まるリートに声はかけたが、トーマスはその歩みを止めない。緩めようとさえしない。
リートはあわてて後を追った。