判決
最初に気づいたのは白樺の一族であった。
当然だ。
彼らは聖域の入口、谷の縁に群れなしているのだから。
だが、長にそれを報告しようとするのを、姫は止めた。
「待つのじゃ」
彼女は怪しい笑みを浮かべながら命じた。
「待つのじゃ。今はまだ、大事に至っておらぬ。事が『決定的』になるまで待つのじゃ。
あの混血児がやろうとしている事、つかの間叶えてやろうぞ。そしてそのときこそ……」
姫は小気味良さそうに、喉の奥で嗤った。
確かにエルフは嘘がつけない。
が、真実を黙っていることはできるのだ。
「そのときこそあの混血児は、あの人間の娘の子供は、破滅する…」
甲高い笑い声が谷に響いた。
「……」
知らせを受けて、ジュリオンは絶句した。
「長には……衝撃と存じますが…」
報告に来たエルフも口ごもる。長が、どれだけ息子をかわいがっているか、知っているから。
「……小鳥たちを手なずけていたのは、この準備であったというのですか」
「おそらくは」
「なんということを…」
自分の所為だ、とジュリオンは己を責めた。
自分が、『谷』を越えられれば、などと約したから。
この森の、『掟』の全てを、話しておかなかったから……。
「どしたの? 深刻な顔をして」
上空からの呼びかけに顔を上げる。
真白き羽持つ精霊がふんわりと宙に浮いていた。
「エンジュル」
風の精霊シルフの長だ。
人の間でその名は天使を意味するというが、あるいはそれは、彼の姿を見、名を知った者の、勘違いが基かも知れぬ。
「何か御用ですか?」
「いえ、別に。ただ、この辺りが妙に騒がしかったから」
ふわっと、ジュリオンの隣に降り立つ。
「何があったの?」
「……息子が」
「リートが?」
「『谷』に『橋』をかけたのです」
「えッ? どうやって?」
「小鳥を使って。小鳥に、細く長い糸を結び付け、向こう岸の太い木を、一回りさせて戻したのです。そしてその糸には細い縄が、その先にはもっと太い縄が結び付けられていて……」
「ああ、成程。それを手繰れば『谷』の向こうとこちらに、縄の『橋』がかかるというわけね」
「……ええ」
「なかなか、頭いいじゃない」
「感心していられる状況ではありません」
「あ………そうか。『掟』があったわね。
確か、『人をこの地に入れし者、人の通れる道を作りし者は……」
「……その命をもって償うべし』」
「……教えてたの?」
ジュリオンは無言で首を横に振った。
「なぜ」
「可能だと、思っていなかったのです。教えなければならない『掟』は他にもあります。だから……」
「後回しに、なっちゃってたってわけか。どうするの?」
「……」
重い沈黙。
「……『掟』は『掟』です」
かなりの時を経て、聞き取れぬほど小さく、小さく呟いたジュリオンの顔は、エンジュルがぞっとするほど重く、暗かった――
リートは、巨木のうろに閉じ込められていた。
縄の橋は、できあがった瞬間、白樺に住まう森の民の悲鳴と共に断ち切られた。
知らなかったのだ、そんな『掟』は。
『命をもって償う』などという『掟』は。
が。
閉じ込められたリートは平然としていた。
父様が助けてくれる。
そう、信じていたのだ。
自分は特別だと。
知らずに犯した罪により殺されるようなことはないと。
そう、信じていたのだ――
裁きが始まった。
長の宿り木の前の広場が、そのまま裁きの間となった。
「と……父様?」
引きずられるようにしてその場に連れてこられたリートは、目の前に立つ父親の表情を見て、呆然とした。
こんなに暗い表情は、見たことがない。
こんなに暗く、重く、沈痛な表情は――
その瞬間、悟った。
助けられないのだ、長でも。
いや、長だからこそ。
リートの全身に震えが走った。
血の気の引く音が聞こえた。
恐怖。
そして絶望。
初めて知る感情。
足が震える。
座り込みそうになる身体を、しかし最後まで立たせていたのは、長の子としての矜持か。
「長」
促され、ジュリオンの口が開き、また閉じる。
幾度か繰り返した後、ようやく聞き取れぬような小さな声がした。
「……『掟』は『掟』です」
やっとのことでそれだけを口にする。
先程エンジュルに告げたのと同じ台詞。
周囲の森の民たちが一様に目を伏せる。
長の……リートではなく、あくまでも長の、心情を思って。
執行役の森の民が、リートに近づく。
リートは彼を知っていた。
タリムだ。
落葉松に宿る森の民。
リートに対して比較的親切だった若者。
「選ぶがいい」
タリムが重々しく告げる。
「長の息子であるそなたは、死に方を選ぶことが出来る。選ぶがいい」
と、言われたところで即答出来るはずもない。
「毒をあおるもよし、つる草を首に巻くもよし。剣で一刀両断、というわけにはいかぬが、枝で心の臓を突き刺すことも出来る。選ぶがいい。ただし」
ふと、気づいて付け加える。
「寿命で、というのだけは無しだ」
沈黙。
うなだれるリート。
己の死に方を選ばせる。戦士にとっては、あるいは栄誉かも知れぬ。
だが子供にとって、それはただ残酷なだけ。
重い時が、流れる。
いや、その時を真に『重い』と感じていたのは、当のリートとジュリオンだけだ。
それは、リートが他の森の民たちに嫌われていた、と言うことではない。
むしろ逆だ。歌の才に目覚めてからは、リートはちょっとした人気者だった。
それでも、その死を真に悼む者は、父親以外にいない。
裁きの間の後方でささやき声が聞こえる。
『彼の歌をもう聞けなくなるのは少ぉし残念ね』
その程度だ。彼らは、他人の命などどうでもいいのだ。
ましてや混血児の命など――
「『谷』に…」
ややあって、リートが呟いた。
「『谷』に落として。僕が、越えることの出来なかった『谷』に」
判決は下された。被告人によって。
後は、執行されるのみ――
谷の底は、いつものように濃い霧に閉ざされていた。
星の中心まで続いているとまで噂される深き谷。
その谷の前に、リートは立っていた。
両の目が、じっと谷底を凝視めている。
たまらず、ジュリオンは後ろから息子を抱き締めた。
涙がリートの肩に落ちる。とめどなく。
だがリートの心は冷めていた。
いや、もう死んでいたのだ。心だけ。
父親が自分を助けられないと知ったときに。
後方で、感受性の強い森の民のすすり泣く声が聞こえる。
だが心から悲しんでいる訳でも、哀れんでいるわけでもない。
彼らは楽しんでいるのだ。泣くことを。
涙する自分に陶酔しているだけだ。
そのまた後ろで。
白樺の姫とその眷属は、薄ら笑いを浮かべていた。
(これで)
と、姫は心に呟く。
(これで邪魔者はいなくなる。長のお嘆きぶりは確かにおいたわしい。なれども、やがてそれは消え失せる。いえ、消して見せる。妾が――)
「長……」
遠慮がちにタリムが促す。
ジュリオンは、だがその腕を離さない。
困惑するタリム。長を、力ずくで離す訳にはいかない。
例え自分が執行役であっても、だ。
困り果て、ぐるりと辺りを見回す。
だが、他の誰にできるというのだ?
「長……」
再度呼びかけ、タリムは驚愕に目を見開いた。
いたのだ。
力ずくで長の腕を離すことの出来る者が。
いや、『力ずく』というにはその力、あまりにも弱かったが。
リートだった。
彼は自ら父親の腕を抜け出していた。
驚くジュリオンに、リートは告げた。
「……もう、いいよ」
その瞳に、『感情』がまるで宿っていないことに気づき、ジュリオンは息を飲んだ。
気づいたのだ。リートの心が、既に死んでいることに。
殺したのは……自分……?
踵を返すと、リートは谷の縁に立ち、目を閉じた。
まるで生け贄にされる羊のよう。
「……最後に、歌は?」
気を利かせたつもりのタリムの言葉に、首を横に振る。
もう、どうでもよかった。
どうせ、他の森の民に比べて短い寿命だ。
今ここで終わらせたところでたいした違いなどありはしない。
どうでもいい。早く終わらせてもらいたい。
ただ、それだけ。
タリムは、意を決してリートの身体を掴んだ。
ジュリオンの睫が震える。
見届けたくない。最愛の息子の死など。
だが見届けなくてはならない。掟を破った者の最後を。
リートの小柄な体が持ち上げられ
宙に舞い
吸い込まれる
谷に
いや。
吸い込まれると見えたそのとき。
ゴオオォォォッと、風が吹いた。
反射的に目を閉じ、あわてて開いた目に飛び込んできたのは
白い翼。
流れる金色の髪。
「エンジュル!」
谷の上に浮かぶシルフの長。
その腕に抱かれているのは、今放り投げられた子供――
「邪魔をなさらないで下さい、シルフの長!」
タリムが叫ぶ。が、エンジュルはにっこり笑ってこう言った。
「まあまあ。焦りなさんな。ちょっと私の話を聞いてからでもいいでしょう?」
「しかし」
「ねえ、ジュリオン。聖域の『掟』なんだけど、これにしばられるのはエルフだけよね?」
「それはそうですが……」
困惑するジュリオン。
彼は一体、何を言いたいのだ?
「でも、この子は混血よね」
「半分はエルフです 」
後方から叫んだのは白樺の姫だ。
「そう、半分はね」
笑みを浮かべたまま頷くエンジュル。
「だからね、『掟』を破ったことで、あなた達が殺すことの出来るのは、この子の半分。エルフの部分だけでしょう?」
「あ……ッ」
声を上げるジュリオン。
分かったのだ。エンジュルの言わんとしていることが。
「そういうこと。この子のもう半分、人間の部分まで殺す権利は、あなた達にはない」
「エンジュル……」
血の気の引いていたジュリオンの頬に赤みが戻る。
「なれど……!」
再び、後方から声。
「なれど半分だけ殺すなど、できる訳が!」
「そうかしら?」
どこか悪戯っ子のような笑みで、エンジュルが答える。
「この子がこの聖域で暮らすことが出来たのは、この子が半分エルフだったからよね」
頷くジュリオン。
「この子の中のエルフの部分を殺せば、残るのは人間の部分だけよね。そうなると、当然聖域には居られない」
再び頷く。
「だからね、この子の中のエルフの部分を殺すっていうことは、早い話が聖域から追放するってこと。逆に言うと、聖域から追放することによって、この子の中のエルフの部分だけを殺せるってこと。そうでしょう?」
「そんな屁理屈……」
言い終わらぬうちに、ビュウウウウゥゥゥゥッ、と突風が白樺の姫を襲った。
「私の決定に異を述べるか、一介のエルフの分際でッ!」
エンジュルの顔から笑みが消えていた。代わりに鋭い眼光が姫を刺す。
「あ……」
姫は心底おびえた。
シルフは彼女の宿る白樺をその根元から折ることが出来るのだ。
「……とまあ、どう? こんなところで」
コロッと、今の勢いが嘘のような笑みを浮かべて、エンジェルはジュリオンにたずねた。
「異存、ございません。シルフの長」
ひざまずき、深々と頭を垂れる森の民の長。
長に倣い、森の民たちが一斉にひざまずいた。
例え共に暮らすことができなくとも、生きてさえいてくれればそれでいい。
生きていてくれるだけでいい。ジュリオンはエンジュルに心から感謝した。
そう、ジュリオンは。
だが、リートは……?
既に死んだ心を抱えたリートは……?
ともあれ。
かくしてリートは、聖域を追放されることとなったのだ。
数日後。
思いがけぬ、だが心の底では、待ち望んでいた訪問者に、白樺の姫は有頂天になった。
が、それもつかの間。
愛しい人の、冷たく鋭い、氷のような眼差しが、訪問の目的を告げていた。
「長……」
それでも、素知らぬ顔でにっこりとほほ笑んで見せたのは流石というべきか。
「何用でございましょう」
「知っていたのですね」
「は……?」
小首をかしげる姫の背に、冷たい汗が流れる。
「リートが橋を架けようとしていたことを、知っていたのですね」
姫は答えない。答えられない。嘘はつけない。
だから。
この沈黙こそが、答えだった。
突然、ジュリオンはその姿を消した。
「長……」
あわてて延ばした姫の手は、ただ空を掴んだだけだった。
「長――ッ!!」
姫の絶叫が、空しく谷に響いた。
以後。
ジュリオンは徹底的に彼女を無視した。
彼女が何を訴えようと、何を言おうと。
泣いて見せても、懇願しても。
徹底的な無視。
完全なる拒絶。
それが、ジュリオンの、彼女に与えた褒美だった。
やがて。
姫は自らその宿り木を離れた。
彼女の白樺は急速に弱り、間もなく枯れたという――