終章
アースフィールド城は、郊外の緑豊かな場所に建っていた。
戦時に役立つよう造られた城ではない。
かつて、怒れる美神、偉大なる王と呼ばれた一人の男が、ただ心静かに余生を過ごす為の城。
であるから、この城に兵士の姿はさほど多くない。
ここにいるのは、彼の身の回りの世話をする者と、引退してなお、彼を慕う者だけであった。
その中の一人が、ふらりと訪れた吟遊詩人を見て、呟いた。
「……リート、さん?」
周りの数人がそれに呼応する。
「リートさんだって? 本当か?」
「本当さ。見なよ。シグールトの城にある絵で見るのとそっくり同じだ」
「お前さん、馬鹿か? 封印の時から何年経っていると思ってるんだ」
封印。
それはかの魔剣の封印の儀式のこと。
聖神殿と呼ばれる神殿で行われた、今から34年(地球歴54年)も前の出来事。
「きっと他人の空似だろう」
「でも噂じゃ、彼はハーフエルフだっていうじゃないか。だったら……」
「お前の頭は童話か」
「けどあの魔剣だって」
「ああ、もういいから、仕事しろ仕事」
その声に苦笑いを噛み堪えつつ、リートは城の奥へ、案内も請わずに進んだ。
別段、咎めだてる者もいない。
目当ての部屋の近くで、一人の婦人とすれ違った。
年齢ゆえに、黒髪に少し白髪が混じるものの、透けるような白い肌、細く通った鼻梁、切れ長の眼に見覚えがあった。
薄くのせられた紅が艶やかに目を引くところは、かつての彼にそっくりだった。
黒髪はもちろん母親譲りだ。
「ナリスさん、ですね?」
話に聞いていた彼の娘の名を呼ぶ。
予想通り、婦人は振り返り、軽く会釈した。
「今、彼は?」
「眠っております」
「では、会うのはこの次にした方が?」
「いえ、もしよろしければ、会っていって下さい。貴方のことは父から伺っております。一声かけて下されば、起きますので」
話しかけなければそれでも構わない、と、暗に告げて、去っていく。
彼女のまとう雰囲気は、あくまでも穏やかだった。
愛情をたっぷりと受けて、育ったのだろう。
彼女の父親のような悲痛な思いもなく、意識が無に帰されるほど精神が切り裂かれることも知らず、ただ、素直であれ、優しくあれと、育まれて生きてきたのだと、そう、感じた。
リートは、ノックもせずに静かにドアを開けた。
花の匂いがする。特別に飾ってあるわけでもないが、部屋全体が香気に包まれていた。
彼は、部屋の中央、伽藍のベッドの上で、寝息を立てていた。
窓から吹き込む心地よい風が、彼の、白銀に染まった髪を揺らす。
リートは、そのまま窓際に歩み寄った。
はるか彼方に森が見える。そのさらに向こうは……聖神殿。
竪琴をつま弾いた。
澄んだ音色が辺りに響く。
後ろで身動きする気配を感じたが、振り返らなかった。そのまま静かに唄う。誰に捧げるでもない即興曲。
声が風に溶ける。
最後の一音が消え失せるまで、他の音は何も無かった。
最初に音を立てたのはリートだった。
ゆっくりと振り返り、ベッドに半身を起こしていた彼に微笑む。
「お久しぶりです。レイさん」
「いつ、ここへ?」
「今し方。あ、起きなくていいです。近くを通りかかったので、立ち寄ったまでですから」
小さな嘘。
本当は、ふいに焦燥にかられ、訪れたのだ。
原因は解らない。と、言うことにしておく。今はまだ。
「すぐ、退散します」
「そんなことを言わずに、ゆっくりしていって下さい。私はこの通り不自由な身ですから、たいしたもてなしはできませんが」
「不自由って……具合でも?あ!眼が……」
このとき初めて、リートは気付いた。
レイの瞳が緋いことに。かつてのウルトラマリンが嘘のような、血の色。
「ご存知、なかったんですね。これが、私の元々の色なんですよ」
「アルビノ……ですか?」
「ええ。幼い頃より養父の薬とエルフの力で視力を保っていたのですが、それももう……。老齢のせいもありますが」
乾いた笑いが、皺の目立つ口元からこぼれた。
「――シグールトで国主に会いましたよ」
リートは敢えて話題を逸らした。
「それとジル君にも」
「そうですか」
レイはそう答えたきり会話に乗ってこなかった。
沈黙が辺りを占める。
ここは平和だ、とリートは思った。
世界は統一され、レイは統一国王の名を冠された。
しかし、未だ地中深くでは小競り合いが絶え間無く続いている。
だが、ここまでは悲鳴も怒号も届きはしない。
「……らないですね」
レイが口を開いた。
「え?」
「あなたは変わらない。そう言ったんですよ」
懐かしむような、遠い瞳。
見えていないのだろうに、とはリートも思わなかった。
「周りは一時と置かずに変化していくのに、あなたは出会った時のまま。
私の周りでも、数知れぬ程の出会い、別れが繰り返されてきました。
それでも、あなたを見ていると、たいしたことではないような気がします」
レイは、どこか哀しそうに、苦しそうに言った。
まるで、これから先も、何十年、何百年と、出会いと別れを繰り返していかなくてはならないリートの心情に心を痛めているのかのよう。
(相変わらず、自分よりも人のこと、ですか)
「あなたも、変わりませんね」
リートは、ふわり、と微笑んでそう言った。
「昔と少しも変わっていない。初めて会った時も、今も、見惚れるほどに綺麗です」
「……いいえ。私は変わりました。この身体も顔も、年を取りました。
皮膚が弛んで、皺も増えて、昔のように自由に走る事すらできない。
それでも変わっていない、と?」
「変わっていません」
あまりにもはっきりと言われ、皮肉なのかと勘ぐる気も失せたのだろう。
レイはただ、淡く微笑み返しただけだった。
「肉体の老いは、年を取れば仕方のないこと。
しかし、綺麗に老いられるかどうかは、その人自身が決めていくことです。
皺が増えたからといって醜いとは限りません。
その人が、その皺にあった生き方をしてきたならば、それすらが魅力に変わります」
「私が、その生き方をしてきたと………?」
「決めるのは、貴方ですよ。ただ、私の眼に見える貴方は、変わっていません」
そう言って、意味深にレイを凝視める。レイは、ゆっくりと頭を振った。
「……私にはわかりません。
ただ言えるのは、私の今までは後悔の連続だったということです。
今でも夢に見ます。うなされて飛び起きる事もあります。
『責めているわけじゃない』。夢の中で言われます。
でも、私のしたことは許されるべきことではないと思います。
許してはいけないのです。
私は彼らに甘えてきました。
大勢の人に迷惑をかけ、怪我をさせ、時には生命を奪う事さえして。
戦いの度に、貴重な田畑は荒らされ、街は破壊されました。
これが良い事だったとは到底思えません。
昔のままでいられたら、その方が幸せだったのかもしれません。
そうだとしたら、私のやった事はすべて意味の無い事、どころか、取り返しのつかない悪行、になるんですね。
『時代の流れだ』と言う人がいます。
こうなるのが必定だったのだと。
でも、それは違うと私は思います。
人間の欲がそうさせているのだと、確信しています。
もっと裕福に、もっと自由に、限りなく膨らんだ欲は、また新たな争いを呼ぶでしょう。
平穏を望んでいたはずなのに、戦場を作ってしまう。
戦いは戦いを呼び、螺旋を描くように、少しずつ、違った展開を見せながら続いていく。
どうして人は、争う事をやめて生きられないのでしょうね」
「……………」
「私は、疲れました」
レイの瞼がゆっくりと閉じられた。
「はじめて、あなたの本音を聞いた気がします」
リートの声は、小さすぎて、おそらくレイには届いていないだろう。
長いセリフの中の一節が、リートの心を突き刺した。
ただ一か所。
――昔のままでいられたら、その方が幸せだったのかもしれません――
その通りだと、思う一方、それでも、と反論する心がある。
昔のままなら、私たちは出会えていないと。
世界もまた、変わっていないのだと。
変わらない幸せ。
変わる幸せ。
どちらが幸せなのかなんて、誰にもわかりはしない。
「リートさん。お願いがあるんですが……」
レイの口から、小さい、辛うじて聞き取れるほどの呟きがこぼれた。
「何でしょう?」
「そこの引き出しに水鏡が入っています。
エルフの友人から貰ったものです。
私にはもう必要の無いものですが、売ればかなりの額になるでしょう。
それで、昔、私たちが初めて会った時、あの愛すべき少女、ティーが、
あなたに頼んだ詩を、唄って下さいませんか」
リートは何も言わずに竪琴を構え直した。
つま弾く曲は『美の女神ユーファ』
幽玄の世界を漂いながら、いつしかレイは、眠りに落ちていった。
夢の中で彼が見たものは、一体何であったのか――
曲が終わりを告げた時、静かに続いていた寝息が聞こえなくなった。
そしてリートは知った。
否、知らされた。
ふいに焦燥にかられ、ここを訪れたその理由を。
「あぁ………」
嘆息。
感じては、いたのだ。なんとなく。
ただ、認めたくはなかった。
最後の瞬間まで。
が。
今はもう、己を偽る必要もない。
「貴方の戦いは終わったのですね………」
弔歌がアースフィールドの城に響き渡った。
最初の詩とは明らかに違う、明確な意図を持った旋律。
兵士たちの心に衝撃が走った。
これが誰の為のものなのか、わかったのだ。
そこにいた誰もが立ち尽くし、涙の流れ落ちるに任せた。
誰が始めたか知らず捧げられる黙祷を、リートの声が、静かに染めていった。
617年13月26日。
赤月神の年、美の女神の月、愛の女神の週、戦神の日。
統一国王キリエレイ・シグレス・アースフィールド死去。
享年51才。
地球歴にして82年の生涯が、この日、閉ざされた――
それから300年(地球歴480年)以上経ったある日。
流石のリートも、その外見が老人となった頃。
彼は、やってきた。
レムラード大陸の南側。
深い谷の向こう。
かつて、聖域と呼ばれた深い森。
リートはそこに住んでいた。
赤竜の化身である少女、メラと共に。
カラムと呼ばれるエルフと共に。
気まぐれなシルフ、イサトの訪問を楽しみにしながら。
「魔剣の封印方法を教えて下さい」
彼は、リートに会うなり、そう言った。
その言葉で、リートは魔剣がふたたび放たれた事を知った。
同時に、確信した。
妖精王がかつて予言した、魔剣の呪いを浄化する男。
それが、彼だと。
彼の名は、レアン・ラドニス。
彼は、しばらくこの森に身を潜め、やがてレムラードの赤竜王と呼ばれる事になる。
が。
それはまた、別の話。
今の彼は、ただ、魔剣の封印方法を探す逃亡者でしかなかった。
「魔剣……ですか」
のほほん、と答えるリート。
「その前に、あなたを試させていただきます。よろしいですね」
優しい口調で反論を封じ込め、リートはほんわりと微笑んだ。
ほどなくレアンは、この森を訪れたことを後悔する事になる。
そう、かつて、ガンレムに浮かぶ小島で、黒竜に翻弄され、頭を抱えたリートのように。
--- 完 ---
最後までお読みいただきありがとうございました。
この話の、ほんの一部でも、お気に入りいただけましたら幸いです。




