それは日差しのような温もりと
少年は瞼を閉じたままの状態で、心地良い空間を漂っていた。自分が何処から来て、今何処に居るのかさえも分からなかった。
(あぁ、凄く気持ちが良いなぁ……。ずっとこのままで居られたら良いのに――)
表情からも読み取れるくらい本当に気持ち良さそうだった。
そんな仄暗い空間を暫く漂っていると、段々辺りが明るくなっていくのが分かった。少年は瞼を僅かながら強張らせた。
(とても眩しいな……一体何があったんだろう……)
自分の周りで起こっている変化について気になっていたものの、気持ちとは裏腹に瞼は未だ閉じたままであった。
だが、何処からともなく微かな女性の声が聞こえてくる。
(……フウト……フウト)
それは少年の名前であった。
(僕を呼んでいるのは誰だろう……聞いた事が無い声だけど……何故か懐かしいような感じがするのは……どうしてだろう……)
ずっと閉じていた瞼をゆっくりと開くと、辺り一面に花々が咲いている中にフウトは立っていた。
見渡すように視線を動かしていくと蝶がひらひらと舞っていた。まるでその場所は良く言う三途の川を渡った向こう側にある場所のようだった。
所謂、『天国』という表現をするのが一番的確であろう。
そんな場所に状況も把握出来ないまま立っている少年だったが、特に驚いた様子も焦る感じも見受けられなかった。
ただただ無表情のままで立っている。
(……フウト……フウト)
またさっきの声が聞こえてきた。
呼んでいる声の持ち主を捜そうと辺りを見回すが何処にも姿は無い。
(……こっちよ……フウト)
フウトは体を捻るようにして見回したが、やはり姿を見付ける事は出来ずにいた。すると一匹の蝶が目の前を横切って飛んで行くのを自然と釣られていくように、視線で追うと遠くの方に女性らしき姿がある事に気付く。
朧気に見えるその女性は手招きをしているように見えた。
ずっと気になっていた声の正体を見付ける事が出来たフウトは、その手招きに導かれるように歩き出した。
一面に咲いた花を出来るだけ踏まないように足元を気にしながら、ゆっくりと歩いて行く。
(……フウト……フウト)
その微かに呼んでいる声が一歩一歩進むにつれて、大きくなっていく姿と共にはっきりと聞こえるようになる。
まだ女性の顔を確認出来る程の距離までは来ていなかったが、やはりフウトはその女性の姿に見覚えが無かった。
青い水玉のワンピースを着たその女性は腰まで伸ばした長い黒髪を風に戦がせながら微笑んでいるように感じた。でも何故そう感じてしまったのかは本当に何となくであったが、きっとそれは女性の『想い』がフウトに伝わったのだろう。
突然のように『天国』とも思える一面に花が咲いている場所に立っていて、見知らぬ女性に名前を呼ばれていたが、何故か安心感を覚え始めていた。
突然とも言える不思議な出来事が今まさに目の前で起こっているというのに、当の本人は無関心と言うべきか、はたまたマイペースと言うべきか何も疑問を感じる事をしなかった。いや、出来なかったのかも知れない。
そうしているといつの間にか女性の目の前まで来てしまっていた。ここにきて漸くフウトは違和感を覚えた。
(――あれ? 僕、何か小さくなっている気が……)
フウトがそう感じてしまったのも無理は無い。
近くまで来たフウトは女性の半分くらいの身長しか無かったのだった。
見上げるような感じで女性の顔を見ようとするフウトだったが、逆光の為に未だ顔を見る事は出来ずにいたが、僅かに口元だけは確認出来た。女性は確かに微笑んでいた。
きっとこの時のフウトは無表情というよりも、自分の名前を呼んでいた女性が誰なのかを必死に見ようと目を凝らしていた。
するとゆっくりと手を差し伸べてきた女性はそのまましゃがみ込みフウトを抱き締めた。
あまりに突然な出来事に流石のフウトも驚いてしまったが、女性の温もりはとても優しくもあり、包み込まれていくような感覚になった。そして微かに香る匂いに何故か懐かしさを感じたのだった。
いつしか抱き締めていた左手でフウトの頭を撫でる女性。。
その優しい温もりと匂いにフウトは自然と瞼を閉じていった。
今までに感じた事の無い安心感と幸福感に包まれながら夢か現実か分からない状況の中で意識が薄れかかったその時――
「フウト!」
そう呼ばれてフウトが瞼を開くとそこにはハルの顔が覗き込んできていた。
「もう、なかなか休憩から帰って来ないから心配したよ!」
(――休憩って何の事だろう?)
未だに夢か現実かの区別をつけられずにいたが、そんな事お構いなしと言わんばかりにハルは更に言葉を続ける。
「イシンさんは暢気に『きっといつもの所に居ると思うからハル迎えに行って来てくれないか?』って言ってたけど、私はてっきり足を滑らせて地上に落ちちゃったんじゃないかと思って心配しちゃったんだからね!」
ハルの必死の表情を見て漸く目が覚めた感じのフウトは、横にしていた体を起こすと周りを軽く見回した。
そこは教会でフウトが眠っていたのは等間隔で並べられた長椅子の上だった。ハルは後ろの席から顔を覗かせるような体勢でいる。
状況をゆっくりと整理したフウトが単調な声でボソッとハルに言う。
「ちょっと夢を見てて起きれなかった。今何時になった?」
「もう二時過ぎだよ……」
フウトは『コートラル』という郵便配達をしている会社で働いており、ハルは一緒の仕事仲間である。見た目は十二、三歳くらいで身長は決して高くは無い。ハルはと言うと見た目はフウトより少し年上の十五、六歳くらいで身長はフウトより高かった。
お昼休憩という事でフウトは一人になれる教会でいつも過ごしていたのだったが、いつの間にか眠ってしまって十一時から休憩していた筈が、ハルに起こされた時には二時過ぎになってしまっていた――つまり三時間が経過している事になる。
内心ちょっと『……ヤバイ』と感じたフウトは恐る恐るハルに聞く。
「イシン……怒ってた?」
「めっちゃ怒ってたよ!」
後頭部をポリポリと掻きながら遠くを見詰めるフウトだったが、ハルはニコッと笑うと
「な~んてね! さっき私、陽気にしてたって言ったじゃん。全然怒るどころか意味不明に爆笑してた。しかも机を叩いて……」
「……イシンって僕がこういうミスをするのを喜ぶよね……さて、戻ろうかな……何言われるんだろうか心配だよ」
軽く溜息を吐いて椅子から立ち上がるとハルが尋ねる。
「そう言えばどんな夢を見ていたの? フウトが寝過ごしてしまうなんて余程夢の中の居心地が良かったんでしょ?」
「え~っと……」
そう思い出す素振りを見せたフウトだったが、実はちゃんと覚えていた。だが、見知らぬ女性に抱き締められてその温もりに気持ち良くなっていたなんて事を言える筈も無く
「別にそんな大した夢じゃ無かったし、どんな夢だったのかさえもう覚えて無いよ」
長椅子の間から中央の通路へと足を進めて答えるフウトに対して「ふぅ~ん」と何か知っているかのような笑みを浮かべながらハルは言った。
「ずっと見てたんだけど、凄く幸せそうな顔してたよ。ちょっと笑ったりもしてたかなぁ~」
咄嗟に振り返ったフウトは少し赤らめた表情で
「ハル! 来てすぐに起こしてくれたんじゃないの?」
「ううん。フウトが寝ているところって見た事無かったからどんな寝顔か見てた。そうしたら突然笑うんだもん」
更に顔を赤らめたフウトは無言のまま背中を向けると教会のドアまでそそくさと歩いて行くとそのまま帰ってしまった。それを追い駆けるようにハルもドアから飛び出して行った。
「ねぇ、フウト怒った? ごめん! 絶対に誰にも言わないから許して!」
「無言で人の寝顔を見るなんて最低だよ!」
「だって声掛けたらフウト起きちゃうじゃん」
「起こしに来たんだから声掛けなきゃダメだよ!」
「だって……可愛かったんだもん」
満面の笑みを浮かべながらハルがそう言うと今にも完熟して枝から落ちてしまいそうな程、真っ赤に熟れたフウトは歩くペースを上げる。引き離されまいとハルもペースを上げて付いて行く。
そうこうしているとコートラルに辿り着いた。
ハイペースで歩いていた二人は勢いよく中に入って行くと、中で書類の整理をしていたテツキが驚いてしまい、その拍子に座っていた椅子から落ちてしまった。
このテツキというのは、フウトやハルと同じくコートラルで働いている仕事仲間だ。
「え? なになに?」
少し混乱気味のテツキだったが、フウトとハルの姿を確認するとホッとした様子だった。
部屋の中央位まで入ってきたフウトは床に座り込んでいるテツキに質問をした。
「イシンは?」
軽く打った腰を摩りながら立ち上がると、椅子を起こして答える。
「奥の事務所に居るけど――」
言葉を聞き終える前にフウトは奥にある事務所へと足を進めて行った。
その様子を見て不思議に思ったテツキはフウトの後から入って来たハルに
「フウトどうしたの? 何だか機嫌が悪いような気がしたんだけど……何かあった?」
その質問にどう答えて良いのか分からなかったハルは言葉を濁すように
「……そうかな? 別にいつもと変わらない気がするよ」
明らかに様子がおかしいフウトとハルに対し、何かを察したようにテツキがにやけながら頷き始めた。
そして右手の手の平をハルの前に向けて
「大丈夫だよ! 俺はそんな野暮な男じゃないから何も言わなくて良い。そっかぁ~やっとハルもフウトに対して素直になる事が出来たんだな」
自分自身の中で何か解決したみたいな清々しい表情を浮かべていた。
テツキが浮かべている表情に何か嫌な予感がしたハルは
「……何を自分の中だけで納得しているの? 私がフウトに対して素直になったってどういう事よ?」
「えっ? 言っちゃって良いの? だってフウトとハル――『二人の秘密』でしょ!」
どんな勘違いをしているのか分からないが、例えその予想が合っていたとしてもテツキが知ってしまっている以上『二人の秘密』とはならないのでは無いのだろうか。
「私とフウトにそんな『二人だけの秘密』なんて無いわよ!」
「あっ、今白状したな! 俺は『二人の秘密』って言ったのに今、『二人だけの秘密』って言った! そこまではっきりしているなら俺は何も言う必要無いな」
その言葉にハルは顔を赤らめながら言った。
「だからそれは言葉のニュアンス的なものでしょ? 別に白状した事にならないじゃん! 取り敢えずテツキが何を勘違いしたのか言ってみなさいよ!」
「え~コレ本当に言っちゃって良いのかなぁ~。俺が思うにハルもフウトもいい年頃じゃん。だから欲望を抑え切れなくなったハルが教会で眠っていたフウトの事を襲おうとしたんじゃないの? だからフウトが怒ってしまって、ハルが気まずい感じになっちゃったんだろ?」
とんでも無い程のテツキの予想だったが、フウトが眠っている姿をちょっとの間だが眺めていた姿は傍から見ればそんな風に見られても仕方が無かったんだと思ったハルは先程のフウトのように顔を真っ赤に完熟させた。
「何言ってるの!! そんなわけ無いでしょ! フウトを迎えに行ってきただけなんだから何にもある訳無いでしょ! 変な想像は止めてよ!!」
恥ずかしさのあまり突然大声を出したハルにテツキは驚いてしまった。表情から「えっ? えっ?」っという感じになっているところに奥の事務所からイシンが出て来た。そして笑いながら言う。
「どうした? 大声なんて出して? 喧嘩はいかんぞ! 若いうちは色々あるかも知れんが仲良くしないといけないぞ。はははっ」
陽気な感じを漂わせるこの男性はコートラルの責任者を務めているイシンである。今は責任者という立場上、直接的な配達には行かないが、元々はフウトと同じように配達に行っていたのだった。同じ仲間達が引退をしていく中でイシンだけは責任者となりコートラルに残ったのだ。そんなイシンはいつでもフウト達の事を温かく見守っていてくれる存在――所謂『親』みたいな存在なのである。
「だってテツキが……」
「俺、何も言ってないっすよ!」
「言ったじゃん! 私とフウトが――」
途中まで言い掛けたが恥ずかしくなったハルは言葉を飲み込んでイシンの横をすり抜けるようにして奥の事務所に入って行こうとした時、フウトが丁度出て来た。するとさっきのテツキの話を思い出したハルはフウトを避けるように横を通って中に入って行く。
「どうしたの?」
状況が全く理解出来ていないフウトは二人に聞くが、イシンは笑いながら首を傾げたが、テツキは少しシリアス調に
「まぁハルも思春期って事かな」
そう答えたが、相変わらず全く理解出来なかったフウトは首を傾げる。
微妙な空気が漂う中で男三人は言葉を失っていたが、テツキがフウトの服装に気付いた。
「あれ? コートと鞄持ってるって事は今から配達に行って来るのか?」
「うん。遅くなっちゃったけど僕の午後の配達分が残ってるから、今から行って来いってイシンが――」
「そっかぁ、何だったら俺も半分手伝おうか?」
「有難う。だけど大丈夫だよ。そんなに量がある訳じゃないし、テツキは書類整理が残っていたよね。それに元々僕の仕事だから一人で行って来る」
「じゃあ気を付けて行って来いよ。書類整理しながら待ってるからさ」
「うん。行って来る。あとちゃんとハルに謝っておくんだよ。多分テツキの方が悪いと思うから……」
「何でだよ!」
「いや、何と無くいつものパターンかなって思って……」
フウトの『何と無く』は当たっていた。というよりもテツキは調子者でついつい口が滑ってしまう事が多々ある為、そう思われてしまっていても無理は無いのだ。
「あぁ、分かった。ハルにはちゃんと謝っておくからもう行って来いよ」
そう言われると相変わらず無表情のままコートラルのドアから出て行くと街中を走り回るように配達をしていくフウトだった。
このコートラルがある街『スピリア』は豊かな大地に囲まれて水や緑が溢れており、人々は『優しさ』と『温もり』を持っており、争いなどは決して起こらない。そんな此処『スピリア』は地上から数千メートル上空にあり、最も『空』に近い場所なのだ。風に守られ、雲を纏った『スピリア』は誰にも見付かる事は無く、ただ流れるように浮いている。とはいえ地上と何一つ変わるものは無かった。唯一あるとすれば『スピリア』の人々の背中には手の平大の翼が生えていた。
無感情の少年フウトは『スピリア』に住む人々とは少し雰囲気が違うのだが、紛れも無く人一倍の『優しさ』と『温もり』を持ってる。が、ただその感情を良く理解出来ないのだった。
そんなフウトがどういう事が『優しさ』であり、どういうものが『温もり』なのかを手紙に込められた『想い』を届けていく事で理解していくのでした。