■ 前 編
『化学反応式って、コレ、全っっ部 覚えなきゃなんないのぉ~?』
電話向こうで、口を尖らせるしかめっ面が容易に想像でき
ハルキは思わず目を細めて頬を緩めた。
キャスター付きのイスが、ご機嫌なハルキの体重を支えながらクルクル廻る。
『”しー ぷらす おーつー で、しーおーつー 二酸化炭素”は、許すわ。
でもさー・・・』
ケータイを通り少しくぐもったサクラの声がたどたどしく化学反応式を続ける。
『”NaHCO3 + HC1 → NaCL + H2O + CO2”
・・・・・。
ちょ。あたし、化学やってたんじゃないんかーっつの!
いつの間に英語の勉強になっちゃったんだ?て。
ムっカつくわ・・・』
サクラの住む街から遠く離れた高校に異動したハルキ。
相変わらずのサクラに、思わず声を出して笑ってしまった。
教育大を目指すため、ハルキの部屋を借り必死に勉強するその小柄な背中は
大嫌いな化学の文句を延々ぶつくさ呟く。
その毎晩呟かれる”文句”という名のラブコールをハルキは楽しみに待っていた。
『なんでもいーけど、お前。
俺ん部屋、汚すなよー?ポテチとか食いながら勉強すんじゃねーぞ。』
パカン パカン・・・
ハルキは左手でケータイを耳に当てて、耳を澄ます。
『えっ?!・・・た。食、べて・・・ないしっ・・・。』
ハルキの鋭い予測に慌てて手を引き抜くと、アルミを蒸着した合成樹脂の
ポテチ袋がガサガサと分かり易く音を立てた。
指先についたコンソメパンチの粉を、チロリ。
舐めながら、話題をすり替えるサクラ。
『そんな事より。ちゃんと食べてんのー?
カレーばっか食べてちゃダメだよ、ねぇ~?』
ハルキのはじめての単身生活に、サクラは食生活の心配をしていた。
今まではずっとハルキ母サトコや、サクラ母ハナがバランスの取れた食事を
用意してくれて当たり前だったが、今この状況になってみると料理なぞした事
ない独身男には最も影響力大なのが”食事問題”だった。
『カレーは、さ・・・。おばちゃんのが一番だしなー・・・』
サクラから出た好物の固有名詞に、ほんの少し口寂しさが顔を出す。
先日交わした母サトコとの会話をふと思い出し、ハルキは小さく問い掛ける。
『お前、さ・・・
あの、おばちゃんの特製カレーって、作れたりしないの・・・?』
それは数日前のこと。
実家に電話を入れると、母サトコが少し呆れているような感心しているような
声で言った。
『ほんと、アンタってマメだわねぇ~。』
その一言に、ハルキは少し笑ってしまう。
一人息子が家を出てはじめての単身生活を、母親ならばソワソワと心配して
いるに違いないとちょくちょく電話を入れていたハルキ。
しかしその度に返って来る言葉は”マメ”。そして”誰に似たのかしら”だった。
『なんか、変わったことないの?そっち。』
一週間前に実家の近況は聞いたばかりだったが、一応訊ねてみるハルキ。
すると、サトコが急に思い出したように声のボリュームを上げた。
『そうだ、そうだ!!
ねぇ。アンタがサクラに言ったの・・・?カレーのこと。』
『カレーって、カレーライスの?』 サトコの言う意味が分からず首を傾げる。
すると、サトコが特ダネニュースを仕入れたとばかりに言いたくて仕方がない
風で、しかしやたらとねちっこく勿体付けながら続けた。
『サクラが。
ハナ特製カレーを、一っ生懸命~ 教わってるらしいわよー・・・』
サトコのその声色は、明らかにニヤニヤしている表情を想像するに難くなく。
一瞬、ハルキが固まった。
嬉しそうに緩む口許を、電話の相手には見えはしないのに手甲で隠す。
『ちょっとコレ内緒だからねっ!
からかうんじゃないよ、アンタ・・・
すぐヘソ曲げるんだから、あの子なんか・・・』
そう言うサトコは、なんだか人一倍嬉しそうで。
リビング隅に置かれた電話前に立ち受話器を持つサトコの、もう一方の手に
持つペンが無意識のうちに電話横のメモ帳にニコちゃんマークを描いている。
『ほんと・・・可愛い子・・・。』
サトコのその一言には、微笑みの色が込められていて。
溢れるほどのサクラへの愛情が、電話越しのハルキの耳にやさしく伝い流れる。
『早く”ウチの子”にしてよねぇ~
お父さんなんか毎日言ってるわよ。まだか、まだか、って・・・』
『養子にもらうんじゃないんだから・・・』
呆れて、可笑しそうに笑うハルキ。
両親とサクラ、3人が楽しそうに笑う姿をイメージしやわらかく目を細める。
『まぁ、アイツ。頑張ってるから気長に待ってやってよ。
アイツのペースでやらせないと、またヘソ曲げるからさー・・・』
パカン・・・パカン・・・