会長、僕は男です。
ここは薬業年金会館の小ホールです。
「それじゃ。日下部さん。私、帰るわ。」と尾崎さんがいいました。
「はあい・・といって、何すりゃ良いの。」と驚いた顔で主人がいいました。
「ふふふ、ひたすら待つのだよ。君!」
「えー。そんなヒマなことするの。そういえばみんなはどこへ行ったんだ。」
「いろいろね。昼前までフリーだから。」
見渡すと、数名しかいません。おしゃべりするもの。本を読むもの。あとは、手荷物をおいたまま空席です。
「近い人は会社に帰り、遠い人は電話しているのよ。」
「へえ。」
「連絡は大事だからね。」
「僕はどうしよう。」
「私が帰って報告しとくわ。何かあればここの受付に連絡する。」
「ちょっとまって、私も一度会社に帰るわ。一緒に行きましょう。」
尾崎さんと須藤さんは結構仲がいいのです。たぶん、座席の入れ替えを頑として受け付けなかったのもそのせいでしょう。
「え?放置しないでよ。右も左もわかんない僕はなにすりゃいいの。あっ、行っちまった。」
泣いて叫んでも、(もっとも、ホントに泣いているわけではありませんが、)無視して行ってしまいました。
見渡すと人気はほとんどありません。ひとり、髪の毛を細かくカールした女性が本をよんでいます。確か、今朝、若竹社長に付いてきていた女性です。
「やぁ、君は、若竹社長の秘書?」とにこやかに声をかけました。
なにやらおどおどしています。何が怖いのでしょう。
「ええ、そうです。いいんですか、日下部さん。」
その女性はあたりをみわたして安心したように言葉を繋ぎました。
「私は沢田良子といいます。社長がお世話になっています。」
「いやぁ。からかわれているだけですよ。沢田さんは、会社に帰らないの。」
「帰れませんよ。ウチは三田テクノパークです。まえは、大阪事務所があったのですが、合理化でたたんじゃいまして・・」
「三田かあ。兵庫県の山奥じゃないですか。敷地にイノシシがうろうろしているとか・・。」
「さすがに、食べ物が無いんでそれはないです。まあ、車で2時間はかかるので」
(食べるものがあればうろうろするのか?)
「連絡とかないの。」
「ふふふ、そんな秘書らしいことしませんよ。社長が一人でやっています。ウチはそんな余裕ないんで。本当の職場は、神戸支店の受付ですから。アルバイトとかわりません。」
「なあんだ。でも、自前社員にはまちがいよな。」
「まぁ、そうですね。ところで、ウチの社長は、美人好みだからうるさいでしょ。」
「うん。あれから、特に用事も無いのに2回ほどでんわがあったな。3回目からはすぐに尾崎さんに転送した。」
「へぇ。社長相手によくしますね。」
「角川さんにしかられたけど。会長はそれでいいと言っていたよ。」
「そうなんですか。どうりで、社長が冷たくなったと嘆いていましたよ。」
「ははは」
そう楽しげに談笑しています。
しかし、それをよくないと思う一派があったのです。業界4位以下の大老一派です。殺意を持った目で、ひそひそと話をしています。大恐わ ・・
「東亜製薬も落ちたものね。とうとう、あんなオカマ社員まで担ぎ出すなんて」
「ほんとよねえ。あのウシ乳はやりすぎよね。」
「しかし、カス会社と直接話をしているのは問題じゃない。」
「わかってないのね。秘書会の掟を」
「困ったわね。尾崎さんがよく説明してなかったよ。」
「須藤さんが帰ったら注意してもらいましょう。」
まもなく、須藤さんが戻ってきました。昼休みが近づいて、人数が植えています。
「ちょっと、すみません。今日から来られた日下部さんのことなんですが」
「なんでしょう。」
「さっきのことなんですが、彼女、ワカタケ製薬の秘書さんと直接話をしていたんですよ。これって、問題ですよね。」
「うーん。確か、若竹社長と藤本会長は、同郷で仲かよかったはず。よく、藤本会長のところを尋ねているそうよ。彼女は秘書として、若竹社長の好みとか情報を収集していたのじゃないかしら。」
いやぁ須藤さんはすごいわ。ウチの主人がそんなするわけないじゃないの。
「でも、情報漏洩の恐れがあるので、上位会社の秘書とランク外の秘書との会話は御法度なんでしょ。」
「それは、確かね。注意しておくわ。」
(うーん。だれかしらこんな掟をつくったのは・・・理事会員だから問題ないと思うのだけど)
「日下部さん!ちょっと。」
「はあい。なんでしょ。」
「お話があります。ちょっと、トイレに付き合ってくれませんか。」
「はい。」とにこやかに答えています。
しばらくして、二人はトイレからでて来ました。
「わかりました。以後、気をつけます。」
「もうちょっと、様子をみて、行動に配慮して頂くとうれしいんだけど。」
「あっ、それは無理です。僕は男ですから。細かな気遣いはできません。まずけりゃ、理論だてて、ずばりと言ってください。」
「まあ、それもそうね。期待するのは無理かもしれないわね。よく言っとくわ。」
(ああ、また、やっかい事が増えた。)
そうする内に理事会が終了し、社長達がでてきました。
主人が会長を迎えに行くと、その後ろから若竹社長が声をかけてきました。
「よう、ミキちゃん。お出迎えありがとう。」
「社長は、関係ありませんよ。僕は会長をお迎えにきたんです。」と返す主人です。
「ホントにつれないなあ。」
「今日は、沢田さんと話をして、若竹社長のこといろいろ聞きましたよ。」
「え? 沢田,日下部さんに何を話したんだ。」と若竹社長は変に勘ぐって青くなっています。沢田さんは、ニヤリとして言いました。
「いえ、別にたいしたことは話してませんよ。」
「おい、隠すなよ。何を話したんだ。」
「社長、もう昼ですよね。」
「わかった。昼はウナギ店にいこうか。」
「ラッキー!」
沢田さんは意外としたたたかです。
二人と別れた後、会長が主人にききました。
「本当は何を聞いたんだ。」
「いや、ホントは、会社の歴史ですよ。社長一人で苦労なさっているんですね。」
「なんだ。そんなことか。」
「当たり前ですよ。秘書が社長の醜聞を話すわけ無いじゃないですか。ひどい扱いをしていたら別ですけど。」
「よく考えたら、秘書は怖いな。わしも気をつけんとな。」
いえいえ、もうすでに角川さんに牛耳られているではありませんか。
「さて、次の予定は何だ。」
「食事の後、百貨店で買い物となっていますが・・」
「そうか。じゃ、一緒に飯食うか。」
「ラッキー。ウナギですか。」
「あほう。会長室にもどって、会社の定食に決まっているじゃないか。」
「ちぇ。まあ、そんなにうまい話はないですね。」
ここは、百貨店です。婦人服売り場にきています。
「あれ?こんなところに用事ですか?」
「実はなあ。二十歳の孫娘に、服をプレゼントしようと思っているんだが、若いこのセンスはわからなくてな。おまえにみてもらおうと。」
「えー。丸っきり私用じゃないですか。口止めになんか買ってもらおうと。」
「かまわんよ。」
「嘘ですよ。んーんと、サイズわかりますか?」
「たしか、9号といっておったが・・」
主人はぶら下がっている服を物色し始めます。
「ふーん・・・ちょっと、待ってくださいよ。よく考えたら。僕は30代の男ですよ。ほとんど婦人服を買ったことがないのに、無理ですよ。」
「そういえばそうだな。はははは、こりゃ。ミスったわい。」
「手の空いたときに、尾崎さんと探しときます。もう少し、情報ください。今日はこれで帰りましょうか。」
「いや。下見しておかんか。次の予定まで時間があるだろう。」
「そうですか。」
まるで、じいさんと孫娘のような雰囲気で、服を物色していました。そこに、初老のめがねをかけた人が会長に声をかけました。
「これは、藤本会長、お買い物ですか。」
「おお、これは、住安銀行頭取、奇遇ですな。」
「会長の足の具合はいかがですかな。」
「いや、それがのう・・うん、ここで立ち話もなんだ。喫茶店にいかんか。」
「そうしましょう。」
「ちょっと、日下部、3時まで時間つぶしてきてくれんか。喫茶フォンテーヌにきてくれ。」
「わかりました。書籍か文具コーナーにで時間をつぶします。車もその時間でいいですか?」
ここは、喫茶フォンテーヌです。
「わかりました。それではそういうことでやりましょう。」
「たのむよ。」
「おや、入り口で待っているのは、お宅の秘書ではありませんか。」
「おお、日下部じゃないか。」
見ると主人は、遠く離れた入り口付近でじっとまっています。
「おい、日下部、そんなところで何をしている。」と大きな声で叫びます。
主人はにっこりとして側にやってきました。
「話は終わりましたが。秘書として聞いてはいけないと思って、入り口で待ってました。」
「なるほど、よく教育されてますね。それでは、私は失礼します。」
エスカレータで百貨店をおりつつ、主人は始終ニコニコしています。
「何がそんなにうれしいだ。」と会長がききました。
「今のは、住安銀行頭取ですよね。偶然じゃないでしょ。なんだか、会社の将来をうらなう重大事項にかかわった気がしましてね。うーん。秘書冥利につきるなぁ。買収か出資か、中身はわかんないけど。」
「おかしなやつだな。今は何もいえんが、そのとおり、予定にも上げていない大事な密談じゃ。言うなよ。」
「お奉行さまのおっしゃるとおりにいたします。」
「なんじゃ。それは・・」
ちょっと、ご注意申し上げますと、携帯電話はまだ普及していません。秘書達は公衆電話で会社に連絡をとるのです。会社からの電話も年金会館の事務所の呼び出しです。




