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その3

 普通の家庭の皮をかぶった、中身は殺伐とした寄り合いに生まれ育った花雄にとって、うさこはたった一人の味方だった。


どんなに母からなじられようと、うさこだけはいつもあったかい。


ピンク色のタオル地で出来た、ぬいぐるみというのにはやや小さめのうさこは、顔とそれ以外の体が同じぐらいのいわゆる2頭身。


パンヤの入った顔も体は少しだけ厚みがあり、フェルトの真ん丸い目は、店で並んでいるときから花雄を見つめていた。


口の変わりに×がついている。これを鼻とみるか、口とみるかで顔がかなり変わるのだが、花雄は口だと思っていた。


−−−なんて可愛いうさぎ。


クリスマスイブの日。母と弟でデパートへ出かけた5歳の花雄は、吸い寄せられるように近寄って手に取った。


兄が欲しがるものは弟もほしがる。弟もうさこを欲しがった。


同じぬいぐるみが何個かおいてあるにも関わらず、うさこは魅力的だった。


パンヤの入り具合からフェルトの目の付き具合、と絶妙の可愛らしさ。


花雄は後年、うさこはきっと、フェルトやタオルと一緒に内職の人に「この通りにつくってくださいね」とに渡された見本品だったのだと想像した。


「○○ちゃんに譲りなさい、お兄ちゃんでしょ」


と母にいわれたが、花雄はここだけはガンとして譲らなかった。


弟が売り場で泣き喚こうとも、母にどんなになじられようとも。


うさこが、花雄を見つめ、花雄に買われたがっていたのだ。


花雄には聞こえたのだ。「ほかの人に渡さないで」といううさこの声が。


とうとう、花雄はうさこを手に入れた。


ビニールに包まれたうさこは安心したような顔で花雄を見つめていた。


家に来てから花雄は片時もうさこを離さなかった。


お風呂にまで一緒に入ったおかげで、うさこはすぐに色あせた。


あのとき弟が買ってもらった別のうさぎは、まだきれいなピンク色だったが、うさこはすでに灰色がかっていた。


弟ときたら、うさこをあんなに欲しがったくせに「ゴミみたい。僕のうさちゃんはまだキレイだもんね」などと言って、うさこを哀しませた。


「うさこ。僕には君が一番可愛いんだからね。ずっと、ずっと一緒だよ」


花雄は枕もとでうさこをなぐさめた。あれから25年。


弟に与えられたうさこの同輩は、もうとっくにゴミになってこの世から消えた。


花雄のうさこは、まだ花雄に寄り添っている。


「俺は死んだら、うさこと一緒に灰になるんだ」と決めている。


そのあとはどうでもいい。うさことまざった花雄の灰は、たとえゴミに捨てられて高温で焼かれて気体になっても幸せだ。


   ◇


小さい頃、母とケンカして、家を出たことがある。


うさこを連れて、花雄は家からずいぶん離れたところまで歩いてきた。


こっちへ行こうよ、といううさこの声に耳を傾けて、花雄は地図もないのに直感で歩き続けたのだ。


「わあ……」


そこには一面のレンゲ畑が広がっていた。


春の夕暮れ前の杏色の陽を浴びて、レンゲは紫がかったピンクの小さな冠のような花をいっぱいに咲かせていた。


レンゲの間には、白い丸い綿毛を伸ばした背の高いタンポポも水玉模様をつくっていた。


花雄は田んぼに降りた。


花雄が目に見た美しい光景は、うさこにも伝わる。


家の中しか知らないはずのぬいぐるみに生まれながら、うさこはこうやってさまざまな美しい景色になぐさめられてきたのだ。


『ライちゃんが死んじゃったね』


一面のレンゲ畑の中でうさこは花雄に話し掛けた。


うさこの言葉は花雄の皮膚を通して、直接花雄の心に伝わる。


ライちゃんというのは、花雄が生まれたときからいるライオンのぬいぐるみだった。


黄土色の体に、黄色のたてがみがついていて、大きな目は悲しげに半開きだった。


大きくて邪魔だから、という理由で花雄がいないときに、勝手に母が捨ててしまったのだ。


それを花雄がなじって、ケンカになったのだ。


「ライちゃん」


おきっぱなしにしていたけれど、花雄は花雄なりにライちゃんを愛していた。


まだ必要だった。必要なのに、捨てられたライちゃんは生きながら焼かれてしまったのだ。


花雄が流す涙は、うさこの涙でもある。


花雄は男の子にしては少し泣き虫だった。でもそれは仕方がないのだ。


なぜなら、喜びも哀しみも寂しさも、うさこの分まで感じてしまうから。


そして、人の2倍哀しみを感じた花雄はうさこをぎゅっと握り締める。


うさこは、花雄の手から伝わった悲しみを癒すように温かい弾力を返すしかできない。


そのかわりに、うさこは何かを見せたり、何かを聞かせたりして自分の言葉を花雄に伝える。


『見て』


花雄は、鼻水が垂れないようにと、空を見上げた。羽のように細かい繊維がつらなる雲が、桃色の空の中で金色に輝いていた。


こんなに美しい空を、花雄は見たことがなかった。


『ライちゃんのたてがみだね』


花雄は雲にライちゃんのたてがみを重ねた。


綿毛をつけたタンポポを一つちぎるとフッと息を吹きかけた。


夕陽を受けた白い綿毛はいっせいに空へと旅立っていった。


綿毛は白いパラシュートとなって、レンゲ畑の上に、雪よりもゆっくりと、


まるで深海にふりつもるマリンスノーのように舞い降りていった。


きっとライちゃんは美しい空へ旅立っていったのだ。


「うさこ」


うさこの長い耳に綿毛が1つくっついている。それは花飾りのようにもみえた。


うさこは×の口を心持ちほころばせているようだった。


花雄はうさこを柔らかく握った。


『またここに来てライちゃんの空に逢いに来ようよ』


うさこは花雄に柔らかい感触を返した。花雄とうさこはレンゲ畑に長い影を落としてたたずんだ。

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